公開: 2019年7月24日
更新: 2019年7月26日
1990年代から始まった経済のグローバル化は、当時の西ヨーロッパの先進諸国や米国、そして日本を中心とした国々に集中していた豊かさが、中国、インド、そして東南アジアの国々や旧東ヨーロッパの元社会主義国などへ豊かさを広めました。中国を含めて、それまでは市場を中心とした資本主義を制度としていなかった国々が、コストの低い労働力を武器にして工場生産を引き受けることで、経済を著しく発展させたのでした。
そのような新興国は、先進諸国が民主主義と自由主義、資本主義を長期的な制度とし社会を発展させてきたのに対して、政治的には必ずしも民主的ではない制度を採用し、国民には自由を保証せずに、国家が国民の経済活動を管理する新しいやり方を採用して国家の経済を発展させようとしています。その典型が中国です。通貨の価値も国家が管理しています。この通貨管理によって、自国通貨を基軸通貨である米国のドルやEUのユーロに対して意識的に安い為替レートに設定し、自国通貨安をテコにした自国から先進諸国への輸出をし易くしています。
このような自国通貨安の誘導による国内景気の維持のような政策は、公正で自由な競争を重視する本来の資本主義の原則には反しています。しかし、自国経済の活性化を優先する政治家にとっては、選択できる政策の一つです。そのような政策を政府の方針として採用していても、それを公言して実施する国はないでしょう。それは、他国の政府からの批判にさらされるからです。そのような批判が、実質的にはその政策を選択する歯止めになっています。
自国通貨安誘導政策を政府の公式の政策として公言し、実施することは避けて、自国通貨安の状況が起こりやすい経済環境を創り出すと言うやり方で、結果としての自国通貨安を達成する国はあります。この政府の意志に基づいた自国通貨安誘導政策は、仮に他国から批判の声が上がっても、「通貨の価値を決めているのは為替市場であって、我々がわざと操作をしているわけではない。」と、主張できるからです。
自国通貨安誘導を目的とするような政策の採用は、必ずしも政府の意図通りの結果をもたらすとは限りませんが、ある程度の確率で成功します。実際にそのような政策を採用するかしないかは、政府の中枢にいる政治家たちの基本的な考え方によると言えます。つまり、倫理観の問題なのです。採用しない政治家たちは、「自分たちの目的は達成できるとしても、公正で自由な競争に基づいた資本主義市場を維持できなくなるので、長期的に資本主義世界に悪影響が起きるかもしれないので、やるべきではない。」と、考えているだけなのです。
そのような倫理観は、もともと資本主義社会に育った人々達だけが共有しているものであり、そうでない社会制度で育った人々には、理解することが難しいこともあります。ですから、それができるとき、「それをしない」と言う決定をすることが難しいのです。それは倫理観が、人間が考え出した秩序の一つであり、特に社会的な制度や慣習などの場合には、それをやるかやらないかを決めるのは、最終的にその決定を行う人に任されるからです。特に、その決定が政府の決定である場合、それを選択しても、法律上の責任を問う人や組織は存在しないのです。
経済がグローバル化したため、国際的な市場に参入する様々な人々の中には、従来のようにヨーロッパ社会において、過去2000年間に少しずつ積み重ねられ、少しずつ修正されてきたヨーロッパ社会で作られた秩序については、その秩序の歴史的な発展を知らずに、市場での競争や取引に参加している人々が増加しています。その場合、ある特別な慣習を守るべきと考える人と、そうではない人が、同じ市場の同じ取引に参加したりする場合も出てきます。そして、この二人の間における、特定のやり取りに関して、「何がどう行われるべきか」についての理解が異なる例も、発生する可能性が出てきます。
例えば、どんな状況においても嘘を言うことは、ヨーロッパで確立された倫理的秩序では許されません。しかし、東洋の社会で嘘を言うことは、場合によっては倫理的秩序に反しません。このため、ヨーロッパで生まれ、育った人々と、東洋の国で生まれ、育った人が同じ市場で取引をして、契約を結ぶと、結んだ契約書に書かれた文章の内容に関する理解が一致しない例が時々、発生します。特に、契約書に書かれている例外的な問題が発生した場合の、双方の責任についてなど、理解が相反することが生じることもあります。
商取引ではなくても、2国間での交渉において、このような問題が発生することはたびたびあります。例えば、A国とB国との間で、X島の帰属が問題になることがあります。両方の国民が、X島は自分たちの国の領土あると信じています。この場合、両国の政府は、相手国に対してX島が自国の領土であることを主張せざるをえません。そうしなければ、国民が納得しないからです。このような問題が、発展すると2国間の外交交渉では決着をつけることができず、結局は武力を使った戦争にまで発展します。これは、X島がどの国の領土であるのかを決定する、軍事力以外の両者に共有できる秩序が存在していないからです。
この問題のように、関係した2者の間に互いに共有できる適切な秩序が存在しないとき、その両者間に発生した問題の解決のためには、より低次の原始的な秩序によって問題解決が行われます。国家間の場合であれば、最低次の秩序は軍事力の衝突による戦争となります。個人間の場合で、同一社会における衝突の場合であれば、一般的には法の秩序による問題の解決が試みられます。とは言え、問題がこじれてくると、当事者間における暴力の衝突による問題解決が行われる例もあります。日本の場合、暴力団の間における抗争などでは、暴力による問題解決がしばしば行われ、社会的な問題になります。
異なる宗教を基礎とする2つ以上の社会が衝突した場合、共通する秩序を見出すことが困難で、武力による衝突による問題解決に至る例は少なくありません。中東におけるイスラム国と、ユダヤ教を基礎とするイスラエルとの間の、50年以上継続して行われている戦争は、その代表的な例です。それは、ユダヤ人が自分たちの首都とするイェルサレムを武力で占拠したわけですが、そこには以前からそこに住んでいたイスラム教徒のパレスチナ人がいたからです。パレスチナ人は、現在でもイスラエルの軍隊がイェルサレムの主要地域を武力で占拠していることに反対し、軍事的な抵抗を続けています。
最近ではイラクやシリアの一部を軍事的に占拠し、そこに住む一般の人々を支配している自称イスラム国と、国際的に連合してイスラム国の支配を打倒しようとする各国の軍隊との間の軍事衝突もその例です。両者の間には、話し合いの余地がないのです。自称イスラム国を統治している人々は、イスラム教が唯一の正しい宗教であると信じています。したがって、イスラム国では、イスラム教を信じていない人々は「邪悪な異教徒」であるとしています。そしてイスラム教を信じるように強制し、宗教を変えることに同意しない人々は、処刑することも正しいことであるとしていました。
このような複数の社会の人々の間に生じる基本的な考え方の衝突は、その衝突の根源になった問題の解決に必要な、より高い水準の共通の秩序を見出すことが難しく、最終的にはより低次で原始的な秩序による問題の解決が行われます。そのような原始的な秩序や方法による問題解決は、永続的な問題解決には至らない場合も多く、長期的には同じ問題の発生が当事者間で繰り返される結果になる例が多いのが現実です。
ドイツとフランスの国境地域にある都市であるストラスブールは、歴史的に両国の間で領有権が争われている都市です。歴史的には、ドイツ領であった期間が長いようですが、現在は第2次世界大戦の結果を反映して、フランスの都市になっています。しかし、住民の多くは家庭内ではドイツ語を話しています。そして、人々の多くが、「自分たちはドイツ民族である」と考えています。その意味で、この都市がいつまでフランス領であるかは分かりません。問題はまだ完全には解決されていないのです。