公開: 2019年7月24日
更新: 2019年7月25日
20世紀でも個人の行いを決め、さらに世界の様々な国々において社会の動きを決めていた考え方の基礎には、中世キリスト教の修道院で学ばれ、研究されていた秩序があると言えます 。当時の修道院は、11世紀になってイタリアのボローニュに大学が作られるまで、一般の人々が「人としての生き方」を考え、学ぶことができる唯一の場所でした。
古代ローマ帝国が滅亡した後、6世紀ごろから西ヨーロッパの地中海沿岸地域にキリスト教を学ぶための修道院が建設され始めました。それらの修道院のいくつかには、古代ギリシャの哲学者達が説いた教えを書き残した様々な書物が、キリスト教の新約聖書や、ユダヤ教の旧約聖書などと一緒に保管されていたとのことです。そして、修道院に集まった修道僧たちは、その時代には印刷機がなかったため、それらを手で書き写していたとのことです。
そのようにして、修道僧によって写し取られた本には、現代にも引き継がれているものがあるとのことです。そのような写本を作るには、元の本を置いて、そこに書かれていることを、動物の皮で作られた紙に、手で書き写します。書き写すためには、元の本の内容を読めなければならないので、ギリシャ語やラテン語と呼ばれる特別な書き言葉を勉強しなければなりません。ラテン語は、当時、修道僧たちが日常に使っていた言葉とは違う、書物を書くための言葉で、特別な決まりに従って書かれていました。
修道僧たちは、朝起きて、身支度を整え、畑仕事をして、その後で朝食を摂り、掃除をします。その後で聖書を読んだり、讃美歌を歌ったりします。それが終わると本の書き写しをします。この写本が終わると、夕食になります。夕食後は後片付けをして、就寝します。電灯がない時代なので、暗くなったら寝ます。ろうそくは高価なので、必要以外には使いません。食事は、修道院で働く世話係の人たちに作ってもらいます。1日に2食が原則です。
修道院の生活は、忙しく、貧しいので、好きで修道院に来る人はほとんどいません。それでも、修道院に入ることは容易ではなかったようです。修道僧になった人々は、貴族の家に生まれた人たちが多く、時々、普通の家庭の子供もいたようです。一度、修道院に入った人は、原則として普通の生活に戻ることは許されません。修道会によっては、修行中は、一切口をきくことを許さないものもあったそうです。
11世紀になって、イタリアで生まれた大学も修道院に似ています。違いは、大学ではキリスト教に関係のない医学や法学なども学んだり研究したりしていたことです。修道院でも、数学や天文学、物理学などは、学んだり研究したりしていたようです。中世後期のフランスには、著名な数学者で、修道僧であった人もいました 。
ヨーロッパの社会では、1200年間にわたり、修道院で作り上げられた学び方の方法が踏襲されています。つまり、修道院で確立されたやり方や規律は、20世紀の世界にも強く影響を与えていました。コント=スポンビルの4つの秩序の議論も、そのような修道院の議論がもとになっています。特に、博愛と自己犠牲に基づく(宗教的な)秩序と、徳と倫理に基づく(徳の)秩序は、修道院で最も重要視された秩序でした。修道院での毎日の生活自身が、それらに基づいていたのです。
さらに、自然界を動かしている理屈と論理に基づく(合理性の)秩序と、人間社会の法と規律に基づく(法の)秩序は、修道院で学ぶ全ての問題の基礎となる数学、論理学、物理学、天文学などの論理に基づく考え方を基礎とした自然の理解と、政治学や法学などの人間社会についての論理に基づく分析(よく見て深く考えること)を中心とした基礎的な学問に関係したものです。
これらの秩序の間で、特に修道院の影響を著しく受けているのが、徳と倫理に関する秩序です。修道院のいくつかには、きわめて厳しい規律を守らなければならないところがありました。逆にそれほど厳しい規律はなく、普通の社会に近い規律に基づいて生活することが許されている修道院もあったようです。これは、それぞれの修道院が地域社会の中で、どのような役割を担っているかによって違っている点だったようです。中世の後期になると、修道院の一部には、本を書き写して作った本を売ることで運営が成り立っているものもあったようです。
また、別の修道院には、特定の農産物を生産することで有名になり、それを専門にした修道院もあったそうです。とは言え、修道院の多くは、一般の人々が住む地域からは離れた、山の中に自給自作に近い状態で、聖書を学び、祈りを捧げることに徹していた修道院が大半のようでした。そのような修道院では、ストア学派と呼ばれていた人々の考え方を学んでいた修道僧が多かったため、そのような質素で一途な生き方をストア学派のストアから派生した「ストイック」と言う言葉を使って呼ぶようになりました。
宗教の世界に限らず、どのような世界で生きようとも、自分に与えられた仕事に集中して、自分の生活のすべてを、その仕事を中心に組み立てる生き方は、現代の社会でも称賛される傾向があります。これは、中世の修道僧のような生き方を、その人が自ら選択し、それを目指して毎日の生活を組み立てているからです。20世紀の末まで、そのようなストイックな生き方は、世の中から称賛される対象だったと言えます。
このキリスト教徒的な考え方は、20世紀の産業化時代の人々の働き方に大きな影響を与えました。その原因は、米国における産業革命と産業化社会の確立の成功による著しい経済発展にあったと言えるでしょう。米国社会の発展を見て、自由主義世界の先進諸国は米国のモデルを基本として、第2次世界大戦後の経済復興を試みました。これに対抗したのがソビエト連邦を中心とした社会主義諸国でした。当時の自由主義諸国で人々の行動や生き方を決めていたのは、労働に対するキリスト教の修道僧のような倫理観であったと言えます。
このキリスト教の修道僧のような倫理観については、20世紀初頭に、社会学者マックス・ヴェーバーが米国社会における資本主義の著しい経済発展の原動力として説明したことで有名です。中世の修道僧のようにストイックに仕事に向き合う米国国民の態度が、資本主義を大きく発展させたと言う指摘です。確かに、当時の米国国民に共通して見られた、「1秒たりとも無駄にせずに働かなければならない」とする姿勢は、一言も発せずに農作業に打ち込んでいた中世の修道僧に似たものであったのかも知れません。
工場へ集まり、就業時間中は黙々と労働に励む姿は、それが宗教的な義務であり、修行の一環であると考えていた修道院の修道僧の生き方に似ています。個々人の個性を無にして、皆、修道僧のように同じ衣服をまとい、下を見て黙々と働く姿は、中世修道院の農園と同じです。それを見て、ストイックな生き方と思うキリスト教徒は多いでしょう。そして、その結果、生産効率は向上し、生産物を国内の市場や海外の市場で売ることにより国は豊かになり、人々も豊かになりました。
同じようなことは、当時発展途上にあった日本の社会にも起きました。米国社会を手本として、非キリスト教国であった日本は、儒教的な思想、特に勤勉に働くことを良いこととする倫理観が主流でした。工場に時間通りに集まり、一斉に、黙々と働く数多くの国民によって、経済は少しずつ成長し、第2次世界大戦後の40年間で、国民一人当たりの国内総生産高(GNP)は、米国に並びました。そして、世界の工場として製品の生産を一手に担うようになりました。
米国だけでなく、日本やドイツなどの国々が著しい経済発展をしたにもかかわらず、同じ自由主義国であり、資本主義社会であったイギリスは、社会福祉の先進国であったにもかかわらず、1970年代に入って長期に渡る経済の衰退に直面しました。それは、米国社会、日本社会、ドイツ社会と比較すると、国民の働く意欲が低かったことによるものと考えられました。イギリス社会は、米国社会や日本社会と比較すると、国民がいくつかの明確な階層が分かれており、社会階層はその階層に属する人々がどれくらい豊かな暮らしができるのかも決定する原因になっていました。
このイギリス社会における階層の固定化は、一般の人々の働く意欲を低下させていました。特に、国家の福祉政策が充実して、国民に対する社会福祉がゆきとどき、さまざまな意味において守られていた国民は、必要以上に真剣に働く意欲を持たなくなっていたのです。このことが、当時のイギリス社会の経済発展を妨げました。その結果、米国、日本、ドイツに比較して経済成長が遅れ、国際競争に負けました。資本主義においては、それほど人々の働く意欲は、国家経済の発展に影響を与えるのです。
さらに、深刻な経済成長問題に直面したのが、ソビエト連邦に代表された社会主義諸国でした。ソビエト連邦だけでなく、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ベトナム、中国なども、資本主義諸国と比較すると経済発展が遅れ、社会的な問題に直面していました。特に東ドイツは、西ドイツと同じ民族によって営まれる社会であるにもかかわらず、経済が急成長していた西ドイツに比較すると、成長が遅く、人々は貧しい生活を強いられていました。このため、東ドイツの国民は、西ドイツに逃げ出そうとする傾向がありました。
この東ドイツから西ドイツへの人の流れを防ぐために、東ドイツの首都であった東ベルリンと西ドイツの大都市であった西ベルリンとの間に、東ドイツはコンクリートでできた壁を建設しました。この壁を越えようとした東ドイツの人々は、この国境を警備する兵士によって殺されました。しかし、1989年にこの壁が壊され、人々の行き来が自由になり、その結果、東ドイツは崩壊して、東西に分かれていたドイツは、統一されました。ヨーロッパ最大の国が誕生したのです。
このドイツの統一がきっかけとなり、多くの社会主義国が資本主義国に変わりました。最終的には、ソビエト連邦も崩壊し、いくつかの独立国に分かれました。そして、今日のようなロシアが誕生しました。ロシアも資本主義国になりました。しかし、中国と北朝鮮だけは、資本主義に移行しませんでした。そして、共産党が国家を治める共産主義国を維持しています。ただ、中国の経済システムは、共産主義ではなく、市場経済を導入した資本主義の制度を取り入れたものに変わりました。
この世界の流れに現れているように、人々の働く意欲は、国家の経済に大きな影響を与えるため、市場における競争を基本とする資本主義の原則は、社会の経済発展のために極めて重要な問題であることが分かりました。つまり、資本主義においては、人々の働く意欲の根源である労働観や労働倫理が、経済の発展を支えていると言えます。これが、20世紀の資本主義に基づく産業化社会を発展させるために必要な、最も重要な問題であったのです。