第2章 20世紀の秩序

公開: 2019年7月24日

更新: 2019年7月25日

あらまし
20世紀の社会を動かした4つの秩序

フランスの現代の哲学者であるコントスポンビルは、現代社会では4つの秩序が問題になると主張しています 。その4つの秩序とは、「論理の秩序」「法の秩序」「道徳の秩序」そして「宗教の秩序」です。現代社会に生きる人間は、これらの4つの秩序に対する自分自身の基準を持ち、その基準に従って自分の行動を決めていると言うのが、コントスポンビルの主張です。

「論理の秩序」とは、人間のもつ理性に基づいて考え、その考えに基づいて行動するための考えの基準を言います。理屈に基づいて考え、言葉で表現するわけですから、全ての人がその考えが正しいことを確認し、理解することができなければなりません。その考えの正しさは、全ての人々が納得できる数少ない基本的な物事の理解から始めて、全ての人間が納得できるやり方で、いくつかの考えの部品をつなぎ合わせ、矛盾のない結論を導き出す「推論(すいろん)」と呼ばれる方法を使って行われるものです。

この論理的秩序に従って考えられる問題は、一般的に人間の周囲にある全ての自然に関する自然科学の知識が代表例です。さらに、人間社会や人間を研究対象とした学問、経済学や社会学、心理学、経営学、言語学など、様々な分野の問題も含まれます。そして、これらの分野の問題に関する議論を、多くの人々が納得できるように行うための基礎となる数学、論理学、そして哲学の一部も、論理的秩序が基礎となっている問題の分野です。

「法の秩序」とは、人間社会における複数の相互に反する価値を持つ人々の間で生じる問題を解決する手段として、社会を形作る全ての人間が守らなければならない規則や規律に関する考えの基準を言います。このような問題を考えるとき、人間は全ての人間が快く生きられる様子、全ての動物が心地良いとする様子などを見て、その観察から導き出される基準を、その社会に属する全ての人々が従うべきとする規則や規律にまとめます。そのような規則を決めるためには、自然科学や社会科学を考えるために必要な論理学や数学、そして哲学の論理的秩序の基礎が使われます。

この法的秩序に従って考えられる問題には、人間が形成する複数の国家の間に生じる問題の平和的な解決のための法律(国際法)や、複数の国家間で結ばれる条約などがあります。そして、国家とその国家を形成する人々との間において発生する問題を解決するための約束事である法律や、その基となる憲法も含まれます。さらに、特定の国家において生じる個人の間や組織の間、個人と組織との間に生じる問題を解決するための約束事である法律(民法)や契約、問題が起こった国や地方において、習慣として何が許され、何が許されないのかを判断する考え方なども含まれます。

「道徳の秩序」とは、人間社会において人はどのように生き、何をすべきかの指針を与える考え方の基本となるものを言います。古代ギリシャの哲学者、ソクラテスは人間の生き方を考えるための基礎として、「善いことをすべき」であるとする「善」を説き、その「善いこと」とは何かについて教えました。ソクラテスは、「何が善いことか」を知ることよりも、それを実際に「行うこと」の重要性や難しさを説き、それを知ることよりもそれを行うことの方が難しく、それには長い訓練が必要であることを述べました。

この道徳的秩序を考える学問を倫理学と言います。倫理学は、哲学の分野に属する学問です。倫理学には、大きく2つの立場があります。その一つは、ソクラテスの弟子として知られているプラトンと言う古代ギリシャの哲学者が説いた考えで、理想的な人間を考え、その理想的な人間が行うと考えられることを実際に行うべきと言う考え方です。もう一つは、プラトンの後輩で、アレキサンダー大王の家庭教師でもあったマケドニア地方の哲学者、アリストテレスが説いた考えで、そのような理想的な人間はいないので、その代わりに普通の人間がある状況で、どのような行為を行う可能性があるかを考え、それらの行為の中で最も普通である行為を最善の行為とするものです。この2つの考えは、現代でも基本的な考え方となっています。

「宗教の秩序」とは、自分と同様に他人を愛し、大切にして、他人が感謝する行いをすることの基本となる考え方を言います。倫理や道徳との違いは、その根底に他人を「愛する」心があることです。道徳が、社会が自分に求めているものが何であるかを考えることが土台になっているのに対して、他人への愛は、他の人は自分が何をすると喜ぶかを考えることが土台になります。また、倫理では、社会が自分に求めることには、自分にはできないことが含まれないのに対して、愛では、自己犠牲と呼ばれる、自分が大切なものを失っても他人のためになることをすべきであるとします。

この宗教的秩序は、普通は宗教が問題にすることを考えます。自分の生活や、場合によっては自分の命をも犠牲にして、自分以外の人のために何かをすることが重要だとする考えです。例えば、自分の全ての財産を貧しい人たちのために投げ出す行為は、道徳的秩序に基づく行為ではなく、宗教的な愛の秩序に基づく行いだと言えます。戦場で傷ついた人々の手当に当り、その看護をする医師や看護師の行いは、道徳的と言うよりも宗教的であると言えます。

これら4つの秩序は、コント=スポンビルが述べているものですが、道徳的秩序と宗教的秩序との差異は、日本人の我々にははっきりとは分かりません。その理由は、西洋の倫理観がキリスト教の宗教観と分けることができないものになっているからだと思われます。しかし、キリスト教の宗教観では、「絶対的な神がいること」も重要な問題です。「絶対的な神がいること」を認めないコントスポンビルにとっては、そのようなキリスト教的宗教観と、学問的に議論できる倫理観は別にしなければならない問題だったのだと思われます。

古代ギリシャの社会では、「社会が自分に求める」ものは、古代ギリシャ人には明らかなものでした。しかし、古代ローマ帝国で、キリスト教が国の宗教として認められ、広く一般の人々に信じられるようになると、一般の人々にとっては、「社会が自分に求めるもの」と「神が自分に命じるもの」との区別がなくなりました。つまり、倫理観は宗教観の一部分になって行ったのです。このため、現代でも欧米の人々にとっては、宗教的に善い行いは、倫理的にも善い行いとされる理由です。区別はされていないのです。

(つづく)