公開: 2019年7月24日
更新: 2019年7月25日
新版更新: 2025年2月8日
現代フランスの哲学者、アンドレ・コントスポンビルは、現代人の多くが従っている秩序は、理性の秩序、社会の秩序、徳の秩序、そして人間愛の秩序の4つの秩序であると主張しました。ここでは、この4つの秩序について、考えてみます。00、
フランスの現代の哲学者であるコントスポンビルは、現代社会では4つの秩序が問題になると主張しています 。その4つの秩序とは、「理性の秩序」「社会の秩序」「徳の秩序」そして「人間愛の秩序」です。現代社会に生きる人間は、これらの4つの秩序に対して個人個人の基準を確立し、その基準に従って自分の行動を律していると言うのが、コントスポンビルの主張です。
「理性の秩序」とは、人間のもつ知性に基づいて合理的に考え、その考えに基づいて行動するための考えの基準を言います。理屈に基づいて考え、言葉で表現するわけですから、全ての人がその考えが正しいことを確認し、理解することができなければなりません。その考えの正しさは、全ての人々が納得できる数少ない基本的な物事の根源についての理解から始めて、全ての人間が納得できるやり方で、いくつかの考えの断片をつなぎ合わせ、矛盾のない結論を導き出す「推論(すいろん)」と呼ばれる方法を使って行われるものです。
この理性の秩序に従って考えられる問題は、物理法則のような、人間の周囲にある全ての自然に関する自然科学の知識が代表例です。さらに、人間社会や人間を研究対象とした学問、経済学や社会学、心理学、経営学、言語学など、様々な学問分野の問題も含まれます。そして、これらの分野の問題に関する議論を、多くの人々が納得できるように行うため、基礎となる数学、論理学、そして哲学の一部も、理性の秩序が基礎となっている問題です。
「社会の秩序」とは、人間社会において、複数の相互に反する価値を持つ人々の間で生じる問題を、暴力的な争いなしに解決する手段として、社会を形作る全ての人間が守らなければならない規則や規律に関して、その考えの基準を与える「枠組み」を言います。このような枠組みを考えるとき、人間は全ての人間が快く生きられる様子、全ての動物が心地良いと感じている様子などを見て、その観察から導き出される共通の基準を、その社会に属する全ての人々が従うべき基準とする規則や規律にまとめます。そのような規則を決めるためには、自然科学や社会科学を考えるために必要な論理学や数学、そして哲学などの理性の秩序の基礎が使われます。
この社会の秩序に従って考えられる問題には、多数の人間から構成される、複数の国家間に生じる外交問題に関する衝突について、平和的な解決のための法律(国際法)や、複数の国家間で結ばれる条約などが含まれます。そして、国家とその国家を形成する人々との間で発生する問題を解決する目的で、事前に定める約束事である法律(国内法)や、その基本となる憲法も含まれます。さらに、特定の国家において生じる個人の間、組織の間、個人と組織との間、などで生じる問題を、解決するための約束事である法律(民法)や契約、問題が起こった国や地方において、習慣として何が許され、何が許されないのかを判断する考え方などの慣習についても含まれます。
「徳の秩序」とは、人間社会において人はどのように生き、何をすべきかの指針を与える考え方の「枠組み」となるものを言います。古代ギリシャの哲学者、ソクラテスは、人間の生き方を考えるための基礎として、「善いことをすべき」であるとする「善」を説き、その「善いこと」とは何かについて教えました。ソクラテスは、「何が善いことか」を知ることよりも、困難を乗り越えて、それを実際に「行うこと」の重要性を説き、それを知ることよりも、それを現実に実践することの方が難しく、それには長い訓練が必要・修練が必要であることを述べました。
この徳の秩序を考える学問を、倫理学と言います。倫理学は、哲学の分野に属する学問です。倫理学には、大きく2つの立場があります。その一つは、ソクラテスの弟子として知られているアテネのプラトンと言う古代ギリシャの哲学者が説いた考えです。理想的な人間を考え、その理想的な人間がすると考えられる行為の具体例を並べ、それらの行為に共通する性質から考えられる行為を、実際に行うべきであるとする考え方です。もう一つは、プラトンの後輩で、アレキサンダー大王の家庭教師でもあったマケドニア地方の哲学者、アリストテレスが説いた考えです。アリストテレスは、プラトンが主張したような理想的な人間は、現実にはいないとして、その代わりに普通の人間が、与えられた状況で、どのような行為を行う可能性があるかを考え、それらの行為の中で最も普通である行為を、「最善の行為と考えよう」とするものです。つまり、多くの人々が「善い」とする行為は、最も合理的な行為と言えるとする考えです。この2つの考えは、現代でも基本的な考え方となっています。
「人間愛の秩序」とは、自分と同様に他人を愛し、他人を大切にして、他人が「感謝する行いをする」ことの基本となる考え方を言います。倫理や善を行うこととの違いは、その根底に他人を自分自身と同じように「愛する」心があることです。徳が、「社会が何を自分に求めているか」を考えることを、土台にしているのに対して、他人への愛は、その人は「自分が何をしたとき感謝するのか」を考えることが、土台になります。また、倫理では、社会が自分に求めることには、「自分にはできないことが、含まれていない」のに対して、愛では、自己犠牲と呼ばれる、「自分が大切なものを失っても、その人のためになることを行うよう努力すべきである」とします。それは、行為の結果が、目的を達成できたかどうかを、徳の場合は問題にするのに対して、愛の場合には、結果を問わないことを意味します。
この宗教的な人間愛の秩序は、普通では宗教が問題にすることを考えます。自分の生活や、場合によっては自分の命をも犠牲にしたとしても、自分以外の人のために何かをすることが重要だとする考えです。例えば、自分の全ての財産を、貧しい人たちのために投げ出す行為は、徳の秩序に基づく行為ではなく、宗教的な人間愛の秩序に基づく行いだと言えます。戦場で傷ついた人々の手当に当り、敵味方を問わずに、看護をする医師や看護師の行いは、道徳的と言うよりも、宗教的であると言えます。また、それは、医療従事者の企業倫理にも従った行為とも言えます。
これら4つの秩序は、コントスポンビルが述べているものですが、徳の秩序と人間愛の秩序との差異は、日本人の我々には、はっきりとは区別できません。その理由は、西洋の倫理観が、我々の目には、キリスト教の宗教観と分けることができないものになっているからだと思われます。しかし、キリスト教の宗教観では、「絶対的な神がいること」が重要な問題です。「絶対的な神がいること」を認めないコントスポンビルにとっては、そのようなキリスト教的宗教観と、学問的に議論できる倫理観とは、別々に議論しなければならない問題だったのだと思われます。
古代ギリシャの社会では、「社会が自分に求める」ものは、古代ギリシャ人には明らかなものでした。しかし、古代ローマ帝国で、キリスト教が国の宗教として認められ、広く一般の人々に信じられるようになると、一般の人々にとっては、「社会が自分に求めるもの」と「神が自分に命じるもの」との区別がなくなりました。つまり、倫理観は、宗教観の一部分になっていったのです。このため、現代でも欧米の人々にとっては、宗教的に善い行いが、倫理的にも善い行いとされる理由です。区別はされていないのです。