第2章 20世紀の秩序

公開: 2019年7月23日

旧版: 2019年7月25日

新版更新: 2025年2月7日

あらまし

社会全体に適用される秩序と、社会の構成員である個人個人に適用される秩序は、違うのでしょうか? 中世の社会では、社会全体に適用される秩序は、しばしば、個人に適用される秩序とは異なっていました。それは、その社会を統治している王の裁量によって、自由に決められていたからです。ある個人を処罰する場合でも、国家は、国王の裁量によって、刑罰は変わることがありました。それは、国王が法を定め、その方を適用していたからです。さらに、物事が発生する以前に、法が規定されることは稀だったからです。現在でも、米国社会や英国社会のような、「判例法」に基づいている社会では、事後に法と同じ効力をもつ、判例が定まります。これは、中世社会の規範が、現在に残った例と言えるでしょう。反対に、フランスやドイツの社会のような「大陸法」に基づく社会では、罪とそれに対する罰は、事前に定められている法律に基づいて決められます。その意味では、社会全体に適用される秩序と、個人に適用される秩序には、ほとんど差がなくなります。現代の日本社会は、基本は大陸法の考え方に則っていますが、法の適用においては、判例を参考に刑罰を考える方法がとられています。

社会を律する秩序と個人の行動を律する秩序

人間社会における秩序歴史的変化を考えるとき、その本質の違いに注目した視点から、本質的に異なる2つの秩序が問題となります。その一つは、社会全体の動きを決める社会の秩序です。もう一つの秩序は、その社会で生きる個人の行動を決める個人の倫理観・道徳観や生き方に関する秩序です。この二つの秩序は、相互に他方に影響を与えながら、個人の行動を決めるとともに、その個人らによって形作られる社会の動きを決めます。

人間が生きている世界には、本人以外の人々と自分自身が参加して形成される人間の社会と、人間とは全く別に存在している様々な事物、例えば宇宙や、我々が生きている地球、地球上の自然現象、地球上に生きている人間以外の生物などから形成されている自然界があります。中世の宗教学者トマス・アキュナスが書いたように、その人間と人間が作る社会に関する議論と、自然界に起こる様々な出来事に関する議論とに分けて別々に考え、別々に議論することは、理にかなった考え方と言えます。

しかし、その人間と人間の社会に関する議論を深めようとするとき、個人の考え個人の理解だけを問題にするときの議論の仕方と、数多くの人間によって形作られる人間社会に発生するさまざまな出来事を問題にするときの議論の仕方は、全く違うと言えます。人間社会の問題を議論するときには、我々は複数の人間によって作られる人間社会を、あたかも自然現象であるかのように考えます。つまり、全員が観察でき、全員が納得できる事実と、それらを関係づけて、論理的に組合せる議論です。

人間の個人による考えや理解を問題にする場合でも、複数の人間によって形成される人間社会に起きる出来事を議論する場合のやり方と同じやり方を使うことも可能です。しかし、「何が正しい行為か」を考える場合や、「絶対的な神は存在するか」などの倫理観や宗教的な問題を考える場合には、人間社会に起きる出来事を考える場合のやり方と同じ方法を使うことはできません。

このような議論から、倫理的な問題を議論する場合の秩序や、宗教的な問題を議論する場合の秩序は、自然界に起きる出来事を考えたり、人間社会に起きる出来事を考えたりする場合に基礎とする秩序とは、本質的に異なるものであると言えます。「人としてどう生きるべきか」や「人としてどう生き、行動することが正しいか」などの倫理的な問題を考えるとき、我々人間は、古代ギリシャ以来、「善を為す」と言う原則を基準に物事を考えます。これは、「善悪の秩序」と呼ぶことができるでしょう。

これに対して人間社会において可能な限り多くの人々が納得できる決まり事を定める方法を考える場合、それを「善悪の秩序」だけで考えることはできません。例えば、「人を殺してはならない」と言う約束事を決めるとき、「人を殺した人は、国がその人を殺人犯として捕らえ、死刑にする」と言う死刑に関する法律を定めたとします。これは、一見、間違いのない法律のようですが、この法律は、その法律自体が「人を殺してはならない」とする基本原則に反しています。つまり、「社会の秩序」を守るためには、「善悪の秩序」だけでは間違いのない議論ができないのです。この考え方は、古代バビロニアのハムラビ法典から、歴史的に引き継がれてきた考え方に基づいています。

(つづく)