第4章 これからの世界(3)

公開: 2019年8月6日

新版更新: 2025年2月22日

あらまし

21世紀に入って、世界がグローバル化したため、従来は国境によって閉じられていた私たちの社会は、国境の意味が薄れ、人々が国境を超えて動き回り、国境の枠を超えて経済活動を行うようになりました。そのため、20世紀の世界では、異なる秩序に属している問題が、ある特定な2者間の間で、異なる秩序に属する問題として認識され、全く異なる価値観によって、その問題の解決が試みられることはありませんでした。しかし、現在では、異なる秩序を優先する二つ以上の社会の人々が、問題を議論し、協議しなければならない例が出現しています。そのような問題を、どのように議論し、どのように解決するのかの方法を、私たちは知らないのです。ですから、個人間の問題解決であれ、国家間の問題解決であれ、個別的な議論に基づいた問題解決ではなく、統合的な問題解決の道を、人類は、見出さなければならないのです。

これからの世界はどうなってゆくのか〜国内における人々の対立

近代以降の国家においては、国家は一人一の国民の宗教や信念の問題にまで立ち入らないことが民主主義の原則になっています。しかし、フランスの例にみられるように、その信教の自由も、キリスト教を前提としたものになっており、全く想定されていなかったイスラム教については、問題が発生します。女性の衣装に関する宗教上の規定が、「公的な場所に宗教色を持ち込んではならない」とするフランスの憲法と矛盾しており、イスラム系移民の家庭の女児が小学校への通学を許されないという問題が発生しました。

キリスト教では、人々の日常の衣装に関する問題までを規定し、制約することはありませんでした。そのような規定が存在するのは、修道院の修道士の服装だけでした。そのため、これまでのフランス社会では、プロテスタントであるのか、カトリック教徒であるのか、または無神教徒であるかに関係なく、このような外見上の問題が、人々の生活に直接、影響を与える事態は発生しませんでした。イスラム教がこの点で、特異な宗教であることは事実ですが、外見上で宗教を示す可能性があるとき、その外見上の問題まで憲法で制限して良いかどうかは、別の問題です。憲法が規定すべきことは、外見上の問題ではなく、信教の自由の保証だからです。

この例のように、従来の社会のままであれば、矛盾を露呈(ろてい)することはなかったのですが、世界のグローバル化の影響で、多様化する社会の変化に、特定な社会の法的秩序が適応できていない状況が生まれつつあると言えるでしょう。このような問題は、「フランスにおける特定の問題である」と片付けられるものではありません。これは、単に、「宗教に関する人間性の秩序の問題」ではなく、「法に関する社会の秩序をどう維持すべきかの問題」にも関係した、複合した秩序問題の解決手法に関した新しい人類の課題と言えます。

この事例で明確になったことは、従来の一国の社会に閉じた問題では、異なる2つの秩序の間に、相互に矛盾する複合した問題が、発生と、表面化することはありませんでした。しかし、新しいグローバルな社会においては、従来の国境で閉ざされた社会では、問題にならなかった、2つ以上の異なる秩序の間で表面化する、複数の秩序間に隠れていた、相互に相反する問題が発生しうるのです。このような事態が発生した場合、人間はどのような対応をとればよいのでしょうか。もし、2つ以上の秩序の間で、優先順位をつけることができれば、どの秩序を優先すべきかを考慮することで問題を解決できます。しかし、2つの秩序の間に明確な優先順位をつけることができない時、問題は解決は、複雑で、困難なものになります。

例えば、博愛の精神や宗教的な理念に関係する人間性の秩序と、行為の倫理性や善悪に関する徳の秩序の間で、相互に矛盾する問題に遭遇したとき、我々はその問題をどう解決すべきでしょう。上述したイスラム教の服装に関する宗教上の規律と、信教の自由を守るべきとする、法律の原則に関する社会の秩序が対立するとき、ある種の人々は「社会の秩序を優先する」でしょう。しかし、博愛や宗教に関係する「人間性の秩序を優先する」と言う選択もあります。このように、人間の価値観によって選択が左右されるような問題の場合、ある特定の個人の選択が社会的な問題に発展する可能性があります。上述の例がその典型です。

さらに、上述した問題では、憲法の問題と言う、法に関係する社会の秩序の問題も関係してきます。ですから、学校の関係者達が、法律上の問題として公的な場である学校において、その女子が身に着けていた特定の宗教上の信念を明確に示す衣装を、そのままの状態に放置することは、その憲法の条項に関連する法律に違反することとなり、禁止しなければならない問題と考えられます。それは、着衣の選択について、個人の選択の自由を守るべきとする、一般的な社会の慣習を超えるものであり、明らかに法律に抵触する行為であり、少なくとも行政機関が管理する施設においては、「適切な対応を要求される事態である」と言うことができます。

このように複数の異なる秩序が絡み合った問題を、どう解決すべきかについて、我々は一般的な解決の原則を、見つけ出さなければならない状況に追い込まれています。このような問題の解決を、その問題に直面している人々の英知に任せることは、個別の問題ごとに解決の仕方が違うと言う混乱をもたらすでしょう。そのためにも、そのような一連の問題に対する解決法の原則について、世界的な合意を形成しておくことは重要なことだと思います。それを怠れば、最終的に古い力の秩序が優先されることになり、「強いものが勝つ」と言う原始的な結論になります。そのような事態を文明が著しく進んだ現代の世界が、受け入れることはできないでしょう。

マズローと言う人が欲求の5段階と言うよく知られた理論を提案しています 。それは、人間はある水準の欲求が満たされると、その上の段階の欲求を追求する傾向があるとする説です。この理論では、生命の維持に直接的な影響を与える問題が最も基本的で低水準の欲求であるとしています。つまり、生命の維持に影響する食料の確保や、体温の維持などは、人間の最も根源的な欲求であるとしています。そして、最も高度な人間の欲求を、「自己実現」としています。それ以外の全ての欲求を満足することができた後に残るものは、「自分が本当にすべきと思うことをする」欲求であり、それに自己実現と言う名前を付けました。

他人や社会の中で、「自分が評価され、尊敬されたいとする」欲求よりも、この自己実現の欲求は高度であり、社会的な評価を獲得したと感じている人々が、その次に望むものが自己実現であるしています。自己実現のためには、他人や社会の中で自分がどのように見られ、評価されるのかは問題になりません。ですから周囲の人々が「変人だ」と言っても、本人は気にすることがありません。場合によっては、社会からは罪人として排除されることがあっても、本人は自分の信じることを実行しようとします。そのように考えると、様々な秩序の中で最も重視される秩序は、自己実現を重視する人間としての徳を求める、人間性の秩序、すなわち道徳の秩序の優先になるでしょう。

国家であり、個人であれ、周囲の国々や人々から、徳が高いとして尊敬を得られることがなければ、国家も個人も自己実現は不可能です。そしてそのような自己実現が為されなければ、その国家や個人がいかに裕福な状態にあっても、国家も個人も本当に「心安らか」な状態には至らないでしょう。しかし、これまでの人類の歴史において、そのような自己実現の状態に国家として到達した国家はありません。個人には、いくつかの例があるかも知れません。古代ギリシャの哲学者、ソクラテスが述べたように、国としても個人としても、善を為し、周囲から尊敬をされる徳を実践することは、存在の目的を達することを意味します。

そのような徳を実践できる状態に到達できると言うことは、国家や個人として、その経済状態がどうであるかに関係なく、国民や自分自身の生きる目標を達成したことになります。このことは、人類がいかに進歩しても変わることのない真実なのではないでしょうか。その意味では、嘘を言うこと、他人を殺すことは、いつの時代でも人間としてやってはならないことの一つでしょう。ですから国家としても、他国の国民をだますことや、他国の人々の命をとることは、やってはならないことです。つまり、本質的な秩序の間の優先順位に関する約束事は変わらないと思われます。

(つづく)