第4章 これからの世界(3)

公開: 2019年8月6日

更新: 2019年8月xx日

あらまし
これからの世界はどうなってゆくのか〜国内における人々の対立

近代以降の国家においては、国家は一人一の国民の宗教問題にまで立ち入らないことが民主主義の原則になっています。しかし、フランスの例にみられるように、その信教の自由も、キリスト教を前提としたものになっており、全く想定されていなかったイスラム教については、問題が発生します。女性の衣装に関する宗教上の規定が、公的な場所に宗教色を持ち込んではならないとするフランスの憲法と矛盾しており、イスラム系移民の家庭の女児が小学校への通学を許されないという問題が発生しました。

キリスト教では、人々の日常の衣装に関する問題までを規定し、制約することはありませんでした。そのような規定が存在するのは、修道院の修道士の服装だけでした。そのため、これまでのフランス社会では、プロテスタントであるのか、カトリック教徒であるのか、または無神教徒であるかに関係なく、このような外見で人々の生活に影響を与える事態が発生することはありませんでした。イスラム教がこの点で、特異な宗教であることは事実ですが、外見上で宗教を暗示する可能性があるとき、その外見上の問題まで憲法で制限して良いかは、別の問題です。憲法が規定すべきことは、外見上の問題ではなく、信教の自由の保証だからです。

この例のように、従来の社会のままであれば、矛盾が表出することはなかったのですが、世界のグローバル化の影響で、多様化する社会の変化に社会の法的秩序が適応できない状況が生まれつつあると言えるでしょう。このような問題は、フランスにおける特定の問題で片付けられるものではありません。これは、博愛精神の秩序の問題ではなく、社会の法的秩序をどう維持すべきかの手法に関する問題と言えます。

この事例で明確になったことは、従来の社会では異なる2つの秩序の間に、相互に矛盾する問題が発生することはありませんでした。しかし、新しいグローバルな社会においては、従来には問題にならなかった2つ以上の異なる秩序の間に相反する問題が発生しうるのです。このような事態が発生した場合、人間はどのような対応をとればよいのでしょうか。もし、2つ以上の秩序の間に優先順位をつけることができれば、どの秩序を優先すべきかを考慮することで問題を解決できます。しかし、2つの秩序の間に明確な優先順序をつけることができない時、問題は解決が困難なものになります。

例えば、博愛の秩序と道徳の秩序の間で、相互に矛盾する問題に遭遇したら、我々はその問題をどう解決すべきでしょう。上述したイスラム教の服装に関する規律と、信教の自由を守るべきとする道徳の原則が対立するとき、ある種の人々は道徳の秩序を優先するでしょう。しかし、博愛や宗教の秩序を優先すると言う選択もあります。このように、人間の価値観によって選択が異なるような問題の場合、ある人の選択が社会的な問題に発展する可能性があります。上述の例がその典型です。

さらに、上述した問題では、憲法の問題と言う法の秩序の問題も関係してきます。ですから、学校の関係者達が、法律上の問題として公的な場である学校において、その女子が身に着けていたイスラム教を明示するものをそのままの状態にすることは、憲法と関連する法律に違反することとなり、放置することはできない問題と考えるでしょう。それは、着衣の選択について自由を守るべきとする一般的な習慣を超えるものであり、明らかに法律に抵触する行為であり、行政機関においては適切な対応を要求される事態と言うことができます。

このように複数の異なる秩序が絡み合った問題をどう解決すべきかについて、我々は一般的な解決の原則を見つけ出さなければならない状況に追い込まれています。このような問題の解決を、その問題に直面している人々の英知に任せることは、問題ごとに解決の仕方が違うと言う混乱をもたらすでしょう。そのためにも、このような問題の解決原則について、世界的な合意を形成しておくことは重要なことだと思います。それを怠れば、最終的に力の秩序が優先されることになり、「強いものが勝つ」と言う原始的な結論になります。そのような事態を文明が著しく進んだ現代の世界が、受け入れることはできないでしょう。

マズローと言う人が「欲求の5段階」と言うよく知られた理論を提案しています 。それは、人間はある水準の欲求が満たされると、その上の段階の欲求を追求する傾向があるとする説です。この理論では、生命の維持に直接的な影響を与える問題が最も基本的で低水準の欲求であるとしています。つまり、生命の維持に影響する食料の確保や、体温の維持などは、人間の最も根源的な欲求であるとしています。そして、最も高度な人間の欲求を、「自己実現」としています。それ以外の全ての欲求を満足することができた後に残るものは、「自分が本当にすべきと思うことをする」欲求であり、それに自己実現と言う名前を付けました。

他人や社会の中で、「自分が評価され、尊敬されたいとする」欲求よりも、この自己実現の欲求は高度であり、社会的な評価を獲得したと感じている人々が望むものが自己実現であるしています。自己実現のためには、他人や社会の中で自分がどのように見られ、評価されるのかは問題になりません。ですから周囲の人々が「変人だ」と言っても、本人は気にすることがありません。場合によっては、社会からは罪人として排除されることがあっても、本人は自分の信じることを実行しようとします。そのように考えると、様々な秩序の中で最も重視される秩序は、自己実現を重視する人間としての徳の秩序、すなわち道徳の秩序の優先になるでしょう。

国家であり、個人であれ、周囲の国々や人々から、徳が高いとして尊敬を得られることがなければ、国家も個人も自己実現は不可能です。そしてそのような自己実現が為されなければ、その国家や個人がいかに裕福な状態にあっても、国家も個人も本当に「心安らか」な状態には至らないでしょう。しかし、これまでの人類の歴史において、そのような自己実現の状態に国家として到達した国家はありません。個人には、いくつかの例があるかも知れません。古代ギリシャの哲学者、ソクラテスが述べたように、国としても個人としても、善を為し、周囲から尊敬をされる徳を実践することは、存在の目的を達することを意味します。

そのような徳を実践できる状態に到達できると言うことは、国家や個人として、その経済状態がどうであるかに関係なく、国民や自分自身の生きる目標を達成したことになります。このことは、人類がいかに進歩しても変わることのない真実なのではないでしょうか。その意味では、嘘を言うこと、他人を殺すことは、いつの時代でも人間としてやってはならないことの一つでしょう。ですから国家としても他国の国民をだますことや、他国の人々の命をとることは、やってはならないことです。つまり、本質的な秩序に関する約束事は変わらないと思われます。

(つづく)