第5章 これからの世界(3)

公開: 2019年8月7日

更新: 2019年8月8日

あらまし
インターネットによって変わった社会

10世紀頃の中世ヨーロッパの確立から、20世紀の産業化社会までの約1,000年間、人類は共通語でその時代の思想を書き残し、さらに記述された思想を写本や印刷によって複製し、広く配布することによって、新しい思想を作り出し、古い思想の問題点を議論してきました。20世紀の末にアメリカ社会でインターネットが提案され、急速に普及しました。この新しい技術によって、印刷・出版に頼らない新しい思想の伝達・配布方法が生まれました。それは、地球上の誰でも、自分の考えや自分の知識を言葉によって世界の人々へ、ほとんどタダで発信することを可能にしました。

インターネットは、それ以前の時代の郵便を利用した手紙の交換や、電話システムを利用した対話と同じような特定の個人間における情報交換にも利用できます。しかし、インターネットの特異な点は、従来は出版や報道のみが行っていた特定の個人から不特定多数の人々への情報の発信も可能にします。それは、1980年代以前に生まれた人々にとっては、それまで経験したことのない新しい社会への移行でした。1990年代以降に生まれた人々にとっては、生まれたときから誰でも自由に自分の考えを、社会に向けて発信することが自由にできることが当たり前の社会です。全ての人々が直面している問題は、一度、インターネットへ発信された情報は、最初は特定個人へ向けて発信したつもりの情報でも、ある時点を変わり目として、簡単に不特定多数の人々へ向けて発信された情報に変わる可能性があることです。

つまり、インターネットへの情報発信は、本質的に不特定多数の人々への情報発信の性格を持ったものであることになります。それどころか、個人用のパーソナルコンピュータ上で作成され、記録されている情報でも、一度、インターネット上に流出すると、不特定多数の人々が入手できる情報になりえます。つまり、特定個人のものとして、他人の目からは隠すべき情報は、インターネットに接続される可能性があるパーソナルコンピュータやスマートフォン上におくことはできないという、人類がこれまで経験したことのない状況が生み出されてしまいました。

インターネットの良い面は、自分以外の人々との情報の共有が簡単になったことです。逆に悪い面は、他人には知らせたくない個人的な情報が他人に渡らないように守ることが難しくなったことでしょう。そのような21世紀以降の世界に生きる人々は、自分自身に関する情報を含めて、いかなる情報も本名以外による情報の公開や、秘密にしておくことは極めて難しく、基本的に全ての情報が世界に対して公開されていると言う仮定で、日々の活動を行うことが求められるでしょう。従来の日本の社会では認められていた、表の顔と裏の顔を使い分けるようなことは、もはや難しくなっており、これからはさらに難しくなるでしょう。

例えば、ある人がいつ、どこにいたのかは、無数の監視カメラやスマートフォンに搭載されたGPS機能によって、インターネットを活用すれば、ちょっとした努力によって突き止めることが可能になりつつあります。このことは、究極の個人情報である自分自身の場所ですら、隠すことが難しくなっていることを示しています。ある物事に対する自分の意見などは、SNSなどを利用して発信すれば、その時点で誰の発言であるかが特定されます。偽名で情報を発信しているつもりでも、誰の意見であるかは、それほど難しくなく、特定することが可能です。これは、暗号化されている国家の秘密文書でも、一定の時間をかければ、その解読が可能であることと同じです。

つまり、これからの社会に生きる人々は、いつ、いかなる時でも、いかなる場所でも、常に公私の区別なく、誰が読んでも誤解を生まないような情報の発信を心がける必要があります。私的な情報発信であったとしても、または、私的な時間の私的な活動であったとしても、不特定の第三者に読まれたり、見られたりしても、誤解を生むことのない情報の発信、行動を心がけなければなりません。かつてであれば、ごく一部の公的な立場に置かれた人々にのみ課されていた行動原理は、これからの時代には全ての人々に課せられるようになるでしょう。それだけ、これからの人々には、高い道徳観・倫理観が求められるのです。

現在の米国には、このような世界の流れに反して、自分たちの個人的な利益や意志に基づいて、現在の普遍的な行動原理に反する考えや思想に基づく発言をする例が数多く見られます。これは、20世紀の前半に生まれ、かつての価値観で育ってきた人々が、その古い価値観に基づいて情報発信をしたり、行動したりしているのです。彼らにとっては、それが自然であり、自分たちの行動原理にのっとっているのですが、長期的な視点から考えると、それは誤った考えです。このような古い行動原理に従って行動している人の代表が、現米国大統領のトランプ氏です。トランプ氏は、自分の個人的な意見をSNSのツイッターを利用してしばしば発表しますが、ときどき問題になっています。

私は、これからの社会においては全ての人間が常に倫理的に行動しなければならないとは考えません。人間は、それぞれの立場、それぞれの思想に従って、自分自身の考えの通りに行動すればよいともいます。問題は、善人を装う偽善や、善人であることが前提となる立場の人が偽善者であることです。また、善人であることが前提である立場の人が、倫理的には許されないことを公然と行ったり、言ったりすることも同じです。例えば、各国の政治指導者や国家元首は、そのような立場に置かれています。米国の大統領は、まさしく米国の政治的指導者であると同時に、国家元首でもあります。日本で言えば、天皇と総理大臣の双方を兼ねていると言えます。ですから、米国大統領には、倫理的な言動、行動が求められます。

フランスの哲学者、コント=スポンビルの言葉を借りれば、例えば大企業の経営者であれば、その企業の経営に責任を持っているので、一般的な意味での倫理的な態度(倫理の秩序)、例えば勤勉・節制のような態度は、不適切とは言えませんが、一般的な意味での理性的な態度(理性の秩序)の方がより重要になります。その意味では、ヨーロッパ中世の修道士のような禁欲的な生活態度はなくても、論理的な思考や理性的な判断を重視する態度の方が優先されるはずです。つまり、ある人間がどのような立場に置かれているかによって、どのようなことを重視するべきかが変わると言うことでしょう。米国のトランプ大統領の行動は、米国の「国家元首」として見た場合、不適切であると言えるでしょう。それは、トランプ氏が経営していた不動産会社の経営者としてのトランプ氏に求められていたものとは違うはずです。

さらに、大統領としてのトランプ氏は、政治的指導者でもあるので、常に周囲の人々の目にさらされており、彼の発言は公式の発言として記録され、広く報道されます。また、彼の行動も常に人々の目にさらされており、広く報道されます。そのような状況から、彼の発言や行動は、政治的指導者としての発言や行動としては許される範囲のものであっても、報道された場合に一般の米国民の認識としては国家元首としての発言や行動としてとらえられる可能性もあります。このことが、米国の一部の国民を混乱させる結果になるのです。このことが、問題の根源なのです。

現代社会においては、人々は長く生きるようになっています。このことは、ある人が20代で就いた仕事に50代、60代でも従事しているとは限らなくなっているのです。寿命が延びれば延びるほど、人々は一生に複数の仕事に従事する可能性が高くなってきます。トランプ氏も、60代までは不動産会社の経営者でした。70代になって大統領選挙に立候補して、大統領に就任しました。このトランプ氏の例のように、全く異なる仕事に就いた場合、それぞれの仕事の立場において求められる才能や求められる生活態度も変わる可能性があります。以前の自分の立場であれば特に社会的には問題にならなかった生活態度も、新しい立場においては、社会的に問題にされる可能性も出てきます。このような場合に、自分の過去の生活や生活態度を偽ることは、「経歴詐称」になったり、「嘘をついた」ことになります。それは、社会的には許されません。

さらに、コンピュータがインターネットに接続されるようになった時代に生きている人々の場合、ある人が過去にどのようなことを言い、どのように振る舞っていたかの断片的な情報は、インターネットに接続された様々なコンピュータに記録されています。ですから、インターネット上で情報検索すると、その人の過去の発言や行動に関する情報を得ることが可能です。その人が、自分の過去の言動や行動を偽っていた場合、このような環境にあるため、そのような嘘はあばかれ、その嘘を言った人は社会的には許されない結果を招く結果になります。つまり、長期的な視点に立てば、全ての人間にとって、倫理的に生きることは、自分自身にとって最も有利な生き方になります。

このことは、最近の行動経済学の研究からも、「人間の利他的な行動が、それを行う個人においても最も合理的な戦略になる」とする理論として説明されています。人間が社会的な動物として、社会の中で生きてゆく限りにおいては、倫理的な生活態度に基づいて生きることが理にかなっていると言うことになります。このことは、古代ギリシャのソクラテスの時代から、全く変わっていないと言えるでしょう。ソクラテスの時代との違いは、自分たちの言動や行動の記録が、たとえそれが膨大な量になっても、インターネットに接続されたコンピュータに蓄積される点です。これは、そのような記録が、デジタル化されたデータに変換されて蓄積されるため、蓄積のコストがきわめて安くなったことです。

そのような情報技術の進歩が、私たち人間の日常的な生活態度にも大きく影響し、我々に対して常に倫理的に振る舞うことを強いる結果になりました。これからの時代を生きる人々は、そのことを強く意識して、毎日の生活をおくることが求められています。1970年代の米国で、「マシュマロテスト」と呼ばれる実験が実施され、その結果と、その後の追跡調査結果から、人生の成功には豊富な知識を得ることよりも、自分の行動を制御するための自制心を身に着けることの方が重要であるという結論が得られました。これは、知識が初等教育以降の教育で得られるのに対して、それ以前の乳幼児期の「しつけ」や訓練によって育成されるものであり、公的な教育制度よりも家庭におけるしつけ教育が重要であることが示されました。

「しつけ」が重要であるとすれば、それは人間の出身階級において、豊かな階級の出身者は、そうではない人々に比較して有利になります。それは、豊かな人々の家庭では、経済的な余裕があるため、人間の生命や衣食住に関係するようなことに関して問題を持つ可能性が低いためです。そうでない階級の出身者の場合は、時として「自分の命をつなぐために」必要なことのために自分の時間や労力を注ぎ込む必要性が出ることがあります。このため、適切な「しつけ」をしっかりと学ぶ機会を失うことがあります。そのような「しつけ」を体系的に学ぶ機会を失うために、正しい倫理観を身に着けることができなくなる例が生じます。このようなことから、人々の出身社会階層が人々の自制心や倫理観の形成に影響を与える結果になると言えます。

そのような社会格差が長期に渡って残存することは、21世紀の社会では可能な限り避けるべきでしょう。我々は、そのためにも常に倫理性を意識して生きてゆくことを、これからの社会では求められることになるでしょう。

(おわり)