公開: 2019年8月6日
更新: 2019年8月xx日
国家間に発生する利害の対立可決する手段としての戦争と、その戦争に使われる新兵器の開発と生産については、これからの世界では、より国家間の相互監視と、話し合いによる調整圧力が高まるでしょう。それは、国家による武力の行使が、これまで以上に難しくなることを意味します。そのため、国家を代表する政治家たちは、自国の利益を損なうことのないように、他国の政治活動を監視し、第三国と協調して問題を発生させている国の指導者にその行為を思いとどまらせるよう警告し、国際的な圧力をかけることが必要になります。指導者達には、そのような高い外交的な能力を要求されるようになります。
このような目的を達成するためには、国家間における約束事を議論し、明文化することが求められます。そのような国家間の議論の場が作られるとともに、それを利用した国際間の議論が頻繁に持たれるようになるでしょう。戦争が政治や外交の手段とされる時代は終わりつつあります。それでも、大国が国防予算をつぎ込み、新兵器の開発に力を注いでいるのは、未だに戦争を政治の手段と考えている国家が存在するからです。さらに、国家間の協議を実施する場合にも、既存の兵器や兵力の差が、兵器や兵力の削減を目的とする国際条約の施行において、その国に有利に作用すると考えられるからです。しかし、近代以降の戦争が国家の総力戦になっており、多かれ少なかれ、全ての国民が何らかの意味で戦争に関わり、その結果として非武装の市民でさえもが、相手国の軍隊の組織的な攻撃対象となった例は多いのです。兵士たちは、戦闘行為が始まると、相手が非武装の市民であるか、武装した正規軍の兵士であるかを問わず、殺戮行為に打って出る傾向があります。それは、「自分が殺さなければ、相手に殺される」とする強い強迫観念が存在するからです。それは、人間の動物的な防衛本能に強く影響されている、精神的な原因が動因となっている行動でしょう。
このような行為は国際法によって禁じられているにもかかわらず、第二次世界大戦中も各国の軍隊において問題のある行為が発生したと報告されています 。つまり、戦争が始まってしまうと、このような非人道的な戦闘行為を未然に防止することは、正規軍である軍隊においても非常に難しいことが分かります。それは、軍が人間の殺戮を目的とした兵器を保有しており、その行為の実施を効果的にするため、無条件で上官の命令に従うことを原則とした行動原理をもつ組織であるからです。
戦争の非人道性には、その意味で議論の余地はありません。それでも国家の指導者たちは、時として戦争を問題解決の手段として使おうとします。そのような戦争が、政治家の選択肢に存在しなければ、政治家たちは問題解決のために、武力を使うのではなく、外交的な二国間の協議によって、妥協点を見つけ出すことを強いられます。このような考えから、戦争を国家による非倫理的な行為として、それを禁止すべきと考える人々もいます。そのような第2次世界大戦の反省から、戦争の非倫理性を考え、戦争を政治の手段と考えることを禁じるべきとする世論は、世界各国で徐々に増加する傾向にあります。
小規模なテロ集団と、軍や警察との間に発生する武力衝突は、これからも一定の頻度で起こるでしょう。しかし、対立する国の正規軍同士が正面からぶつかり、戦争行為を行うという事態の発生は、これからの世界では、今までよりもずっと小さくなると予想されます。ただし、一度戦争が始まってしまうと、当事国の市民が受ける被害は、これまでの戦争では経験しなかったほどの重大さになるでしょう。20世紀末に元東欧諸国のひとつであったユーゴスラビア連邦で発生したボスニア紛争では、正規軍同士の戦闘だけでなく、一般市民を巻き込んだ激しい戦闘が続き、多くの犠牲者が出ました。
ボスニア紛争以来、内戦が起こる原因の一つに、民族と宗教の対立があります。同じ地域に、異なる民族が暮らしており、異なる宗教を信じている人々がいると、その文化的背景を異にする人々の間で紛争が勃発する傾向があります。シリアからトルコ、インク、イランにかけて分散して居住しているイスラム教を信じるクルド人は、それぞれの国々では少数派です。しかし、これら3つの国に分散して居住しているクルド族の人々を集めると、巨大な勢力になります。そのクルド族は、1つのクルド国を作ろうとしているようです。そのクルド族の独立運動を支援しているのが、宗教的に近いサウジアラビア王国です。
石油大国のサウジアラビアが財政も支援しているため、クルドの軍隊は新しい武器を保有し、勇敢に戦うため、トルコ、シリア、イラク、イランで、内戦の火種となる場合があります。このクルド族の武装と蜂起の例のように、民族問題と宗教が入り組んだ問題の様相をもつと、国内の他の民族や他の宗教を信じる人々との間に、重大な対立を起こす場合があります。宗教的な対立もかかわると、戦闘行為は徹底して行われることも多く、大規模虐殺に至る例も多くなります。
この傾向に対して、米国は同じ国の中に数多くの民族と国家を共存させる方法を採用しています。人種的にも、コーカサス系白人、アフリカ系黒人、東洋系人種、ポリネシア系人種、アメリカ大陸土着の人々など、様々な人種にルーツを持つ人々が生活しています。そして、新旧キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、ユダヤ教徒等々と様々な宗教を持つ人々が生活しています。このような現実は、民族間や異なる宗教を信じる人々との間で、摩擦を生み出し、対立に発展することもあります。特に、ユダヤ教徒とイスラム教徒、イスラム教徒とキリスト教徒の間では、たびたび紛争が発生しています。
さらに、米国南部の白人至上主義者などは、アフリカ系の黒人を差別することを公言しています。このため、アフリカ系アメリカ人との間で、紛争に発展する例もときどき発生しています 。現代の米国社会は、そのような矛盾を内包しながらも、人種間や宗教間の対立が主たる原因で、国民の間に紛争が多発することがないように、初等・中等教育で、人種や宗教を超えて国民が融和することの重要性を教えています。
このような米国社会の試みは、世界が進むべき方向を示していると考えられますが、他方、豊かな米国社会だからこそ可能だった政策とも言えるでしょう。現在、人種間や宗教間の深刻な対立と紛争に直面している地域や国々の多くが、同時に貧困問題にも直面していることを考えると、ある程度の財政的負担の発生する政策を、将来の世代のために実施することには、国民の同意が得られないでしょう。そのことから、短期的な視野で考えると、民族・人種や宗教によって国家を分割する方が、経済的負担が少なく、短期的には成功する可能性が高いと言えるでしょう。