第4章 これからの世界(1)

公開: 2019年8月6日

新版更新: 2025年2月18日

あらまし

20世紀末までの数百年間、世界の秩序は安定的で、変化がありませんでした。ところが、経済のグローバル化が急速に進展した20世紀末から、経済や自然科学の基礎となる理性の秩序が崩れ、富の蓄積だけに注目する「お金の秩序」だけに関心が集まり、国家も個人も、市場での自由な競争による富の増加だけが議論されるようになりました。そこでは、社会の法に基づいた、市場の管理や、経済活動における社会秩序の遵守や、全世界的な問題の発生を防ぐための生産活動の管理などへの関心は、薄らぎ始めています。しかし、人々の中には、長期的な視点から、この経済中心の姿勢が、地球規模の問題を管理できない状態に陥れる結果を生み出すとの警告発する知識人もいます。このような背景から、新しい、統合的な秩序のシステムを構築しなければならないとする意見も発せられています。

これからの世界はどうなってゆくのか〜新しい倫理観を求めて

過去数百年間、特に西ヨーロッパを中心とした世界で重要な役割を果たしてきた、キリスト教の思想に基づいた西洋的秩序は、最近の急速にグローバル化が進みつつある世界では、崩壊し始めています。それは、西ヨーロッパの社会が、キリスト教の思想だけに基づくのではなく、宗教とは一見無関係な理性的で論理性を追求する、新しい考え方に基づいた新しい思想に立った秩序を、求め始めたからであると言えるでしょう。このことは、人間の生き方に関する哲学の変化に、大きな影響を与えます。

そのような新しい秩序の確立に向かっている現代社会においては、一時的な現象として、倫理的な生き方を否定し、倫理観に代わって、新しい「経済的な成功を重視する思想」、すなわち「お金の秩序」や、古典的な「力による支配を原則とすべきと考える思想」、すなわち「力の秩序」などが広く人々に受け入れられる傾向があります。これは、今までの人類の知恵を全て否定する考え方や、逆に人類のより基本的な「動物的な生き残りの原則」に立ち返って考えなおそうとする、弱肉強食の生存主義の立場です

しかし、古代ギリシャから20世紀末まで、人間の倫理観に基本な大きな変化はありませんでした。つまり、これまでの人類の歴史を見る限り、人間の倫理観には普遍的な思想が基礎にあったと言えます。19世紀のカントの思想も、20世紀のロールズの思想も、その根底には、ソクラテスが提起した「良いことをしようとする人間の心」に対する深い考察があったと言えます。特にソクラテス、プラトンからカント、ロールズまでの倫理観には、その基礎にこの「徳を為すべき」とする考えが連綿と継続して流れていたと言えます。

そのような人類の思想史の視点から検討すると、21世紀に確立されるかもしれない新しい倫理観と、それに基づく新しい秩序も、ソクラテスからロールズまでの倫理思想を、大きく逸脱するとは考えにくいでしょう。新しい倫理思想には、新しい要素は追加されるでしょう。ですから、これまでの倫理観を大きく変える思想が提案され、それが人間社会に受け入れられるとは考えられません。例えば、国家経済の発展だけを優先する、お金の秩序が、新しい秩序として全人類に受け入れられることはないでしょう。

これまで、人類が理想としてきた人間の生き方は、ソクラテスが提起した善を為す」徳の実践にあるからです。その徳とは何か、どのような性質を満足しなければならないか、その実践の方法にはどのような方法があるのか、その方法にはどのような性質が必要とされるのかなどの疑問があり、それらの疑問に答えようとした先人たちが、それぞれの倫理観を確立し、教えてきました。ですから、その部分部分は少しずつ違っているのですが、最も本質的な徳の基本に関する部分については、これまでは変わっていません。

ですから、21世紀の新しい秩序も、その延長線上にあるでしょう。だとすれば、20世紀までの数百年間で確立した秩序との違いはどのようなものになるのでしょう。道徳・倫理に関する徳の秩序や、知的な態度に関する理性の秩序については、大きな違いはないでしょう。変化があると考えられるのは、法に関する社会の秩序と、博愛精神に関する人間性の秩序になる可能性が大きいと思います。特に、博愛精神は、キリスト教の精神との関係が強く、21世紀のような多様な考え方を許す世界においては、イスラム教や仏教的な思想、さらに無神論の思想をも取り入れられるように、単に弱者に恩恵を与えるだけでなく、全ての人々が同じルールに基づいて競争をするための基本的な精神が求められるのでないでしょうか。

弱者が守られず、全く同じルールで強者と競争することになれば、弱者には不利です。そのため、弱者が競争相手の強者に勝って、競争に勝つことはできなくなります。そのため、競争に負けた全ての敗者に対して同じような救いが与えられなければならないでしょう。経済的な競争の場合であれば、敗者となった人々は、一定の条件を満たせば、同じ種類の救済処置が手当されるべきでしょう。つまり、競争の結果、経済的に破たんした人々に対しては、その人々の最低限の生活を維持するための経済支援が与えられるべきでしょう。これは、経済競争の全ての敗者に対して、同一の救済処置を提供することは意味しません

この救済措置の実施のためには、政府はかなりの税収を必要とするでしょう。そのため、経済競争の勝者に対して請求される税金の額は、これまで以上のものにならなければなりません。しかし、経済競争に勝った人々が得る利益は、従来の経済競争よりもはるかに大きなものとなるので、勝者にとっての課税額が、勝者たちの経済状況を大きく悪化させることはないでしょう。勝者たちは、自分では合理的には使い切れないほどの収入を得ているはずだからです。個人として、それほどの財産は必要ないでしょう。さらに、その財産を子供や子孫に継承する必要もないでしょう。

これは、国民が得た富を、国家が再配分する機能を強化することを意味します。これによって、貧しい家庭に生まれた子供たちに、その貧しさが原因で、裕福な家庭に生まれた子供達との間に、明らかな差別が生じないようにする新しい社会制度が導入されることになります。経済的に成功した者は、一時的に大きな富を得ることになりますが、それは一時的なものであって、子供達にも長期にわたって継続的に豊かな生活を維持させる富を分け与えられないようにするのです。そして、個人の能力と幸運によって、競争に勝った者とその子供や子孫が、他の人々よりも経済競争で有利になることがないようにすべきでしょう。

このことは、国家と個人(国民)との関係が、国家が国民の間で互いに助け合うという姿勢の確立に、積極的に介入すべきとする従来の社会福祉政策を強調する従来の立場から、国家は国民の間に存在している様々な格差の是正や、将来に生まれる可能のある格差を生じさせないように平等を保証するための政策として、格差の原因を取り除く施策を実施することに重点が移行することを意味します。結果としては、19世紀にイギリス人の資本家であったロバート・オーウェンが米国で実施した社会実験の目的であった、ユートヒアの実現に向けた試みか成功した場合に達成される社会のような、コミュニティから構成される国家の建設につながるのです。

(つづく)