公開: 2019年7月22日
更新: 2019年7月25日
人類の文明が発展して、それぞれの地域を支配する「王」と、その王の支配の下で王を守る支配階層の人々が生まれます。そして、世界のそれぞれの場所に「王国」が生まれました。ナイル川沿いのエジプト、チグリス川沿いのメソポタミア地方のバビロニア、インダス川沿いのインド、そして黄河沿いの中国などです。
これらの国々の中心になった王の国は、その周辺にあった国々と戦争をし、戦争に勝つことによって従え、より大きく豊かな王国になりました。この人間が作った国々とその周辺の地域に住む人々の生活や事件を記録することができるようになった時代に、その古代人の社会における人々の行動の基本になった「きまりごと」ができました。それは、地球上のどの場所であるかに関係なく、どこでも同じ「きまりごと」によって支配されていました。
そのような社会の成り立ちをその根底で動かしている「力」を、難しい言葉で「秩序」と言います。古代人間社会の最も重要な秩序は、「戦いに勝つための力」でした。つまり、その「力」の強い国が、周りの弱い国々を打ち負かし、自分の国の一部として取り込むことで、少しずつ大きくなっていったのです。その「力」は、動物の世界でも強い動物が弱い動物を支配するのと同じものです。
私たちが住んでいるこの日本の島々でも、野山の動物を捕らえて食べたり、野山に生えている植物の葉や実などを集めて食べていた縄文時代の小さな村社会から、血のつながった人間の集まりが中心となって、共同作業によって米を作る農耕を中心とした弥生時代の大きな村社会になると、日本のあちらこちらで村(国)同士の戦いが行われるようになりました。そして、九州の勢力、四国の勢力、出雲の勢力、大和の勢力、関東から北の人々の勢力などを中心とした国々が形成されました。これらの国々の間での戦いの時期を経て、古墳時代になり、最終的に現在の天皇家の祖先を中心とした大和朝廷が生まれました。
このように古代における人間社会の最も基本的な「きまりごと」は、「戦いに勝つための力」でした。「力のあるものが社会を動かす」と言う原則です。例えば、日本の古代、弥生時代になると九州の北にある朝鮮半島から、「鉄」がもたらされました。鉄は、米を作るための重要な道具を作る材料として利用されるようになるとともに、その硬さを活かし、刀などの戦いの道具を作る材料としても重要な役目を担いました。日本に最初に鉄が入ってきた九州の勢力は、他の地域の勢力に比較して、戦いで勝つための道具として、より強力な道具を作り出せたため、戦いに勝ち、その勢力を拡大したことが知られています。
さらに時代が進むと、人々が言葉を記録するための「文字」と、言葉を記録する規則である文法が重要になりました。文字と文法を決めることができた知能の高い人々が、より強い力を持つようになりました。それは、人間は自分たちが考えたことを文字で記録することができるようになったことで、知識を深め、関連する知識を組合わせて我々の知識を拡大することで、それができない人々達よりもより有利な立場に立てるからです。科学技術だけでなく、思想的な面においても、思考や思想を書き残すことで、時間や距離を超えて思考や思想を広く他の人々に伝えることができるからです。
弥生時代から古墳時代、そして大和朝廷の確立に至る過程で、日本の社会には中国から漢字と中国語が伝わってきました。当時の日本社会の中では、中国語を学び、漢字を学んだ貴族や僧などの人々が、農民などの普通の人々に命令を下し、社会を動かす支配階層を占めていました。それらの人々は、当時の先進国であった中国で話題になっていた新しい思想や科学技術を学び、その知識を使って何も知らない一般の人々、農民を支配したのでした。特に、新しい思想のひとつとして、朝鮮半島を経由して日本に伝えられた世界的な宗教としての「仏教」は、大きな役割を果たしたと言えます。
その後日本では、文字と文法だけでなく、力(武力)、文字と言葉を扱う能力(表現力)、新しい思想を理解しそれを応用できる能力(理解力)、そして人々の行動を律する規則をつくる能力(組織力)など、多方面における能力が重要視されるようになりました。特に、鎌倉時代から江戸時代に至る中世封建時代には、規則をつくる能力の重要性が増しました。このことが、江戸時代の武士をそれまでの武力で戦う人々から、人々の大半を占める農民達を支配し、監督する役人として生きる道の選択をもたらしたと言えるでしょう。つまり、武士にとって最も重要なことは、人々を治めるために法を制定することになりました。この傾向は、世界の様々な場所で起こっていた流れでした。
日本において江戸時代の中期、ヨーロッパ世界では近代に移行し始めていた時代です。その時代、人々の間には少しずつ「個人の意識」が芽生え始め、国家としては武力が重用視されていたものの、個人においては倫理的に生きることが重視されるようになりました。これは、社会と経済が発展し、人々の生活が豊かになったためだと言えます。日本でもヨーロッパでも、公と私の区別が明確に意識され、他の多数の人々の利益(公的な利益)を、必要に応じて個人の利益に優先する考え方も広まりました。そして北ヨーロッパでは産業革命が始まりました。
産業革命は、それまでのような貴族である領主が、一般の人々に土地を貸し、それを利用した農業生産を行わせることで、一般の人々を支配して大きな富を獲得する経済制度ではなく、お金を貯めた資本家が事業に投資をしてさらにお金を蓄える、資本主義への社会的制度の変化を起こしました。封建時代の貴族の中には、資本主義への転換期に、その社会変化の潮流に乗れずに、祖先から受け継いだ資産を失った人々も数多く発生しました。逆に、一般の市民の家庭に生まれた人でも、少しずつ資産を増やし、大きな事業を展開する富豪になった人も出てきました。
日本の社会では、武士は支配階層として確固たる地位を得ていましたが、商業を担っていた町人の中にも巨大な商家を営む人々が出現しました。材木問屋の紀伊国屋や、呉服商の三井越後屋など、大店(おおだな)と呼ばれた巨大な商家が生まれ、経済的には大名以上の資産を蓄えるようになっていました。また、現在の銀行と似たような役割を担っていた両替商も生まれ、発展し始めていました。
この18世紀後半から19世紀中ごろにかけて、ヨーロッパの諸国では、イギリス、フランス、ドイツなどの巨大国家が誕生し、帝国主義時代に突入しました。巨大国家においては、国民を兵士として強制的に集めるやり方が一般的となりました。そのような軍隊を維持するためには多額の財政負担が発生するため、豊かな人々から税金を徴収する制度が確立されました。そして、税金を納めた人々には、選挙権が与えられるようになりました。このようにして、国の単位で見れば、強く、巨大な軍隊を整備し、その軍隊を動かすための財政を確保するための経済の発展が重要になりました。
各国の国民で見ると、軍に兵士として強制的に集められ、兵士として任務を全うするためには、ある程度の計算の能力や、言葉を扱う能力が必要になります。また、強い軍隊を整備するためには、体力も重要な要素になります。このようなことから、算数、国語、体育などの教科が重視された国民的初等教育制度が確立されました。特に、当時の先進諸国が集まっていたヨーロッパでは、義務教育制度の導入が進みました。
そのような国々の国民から見ると、個人として重要なことは、健康な体を持ち、ある程度知的な思考ができる人間で、なおかつ自分たちの国のために勇敢に戦える人材であることでした。さらに、そのような人々を有効に組織し、軍隊として整然とした行動を取るために、軍隊を動かす能力のある人々を育成することも重要でした。このことから、各国において、高等教育機関である大学等が整備されました。
個人の観点から言えば、健康な肉体を持ち、体力があり、ある程度の知的能力を持つことが重視されました。さらに、知的な能力に優れた人々の場合、高等教育を受けて、軍隊で兵士を動かして戦争を指揮する立場につくことが勧められました。特に、少し遅れて近代化が始まったドイツや日本などでは、国を?栄させるために軍に入ることや、工業生産を拡大するための仕事に就くことを勧める傾向が強かったと言えます。早くから近代化が進んでいたイギリスなどの国々では、知的な能力に優れた人々の場合、国を動かす政治家として活躍できるような人間になることが重視されました。
そのような時代は、1945年に第二次世界大戦が終結するまで続きました。この間、共産党革命によってロシア帝国が滅亡し、レーニンによってソビエト連邦が建設されました。レーニンの死後、その権力はスターリンに受け継がれ、スターリンは、ヒットラーが率いていたドイツや、日本陸軍が主導権を握っていた大日本帝国と対立し、最初にヒットラーのドイツと戦争状態に入りました。つまり、ソビエト連邦は、第二次世界大戦においては、アメリカなどの連合国の一員として戦いました。
第二次世界大戦が、ドイツの敗北、そして大日本帝国の敗北に終わると、社会主義国のソビエト連邦は資本主義の米国やイギリスなどと対立するようになりました。そして、中国共産党が中国を支配し、朝鮮半島においては金日成がソビエト連邦の支援を受けた北朝鮮民主主義人民共和国を建設しました。そして、朝鮮半島においては、資本主義を標榜する大韓民国と、社会主義を標榜する北朝鮮が戦争状態に突入しました。これが朝鮮戦争です。
朝鮮戦争が停戦になり、その後東西冷戦の時代に入りました。この時代も、それまでの世界と同じように、国家の単位では軍事力と経済発展が重要な問題でした。しかし、市場を持たない社会主義国の計画経済は、少しずつ衰退しました。国内経済をすべて計画的に運営しようとした計画経済を基本とした社会主義は、次第に経済力を衰えさせ、米国に代表される自由経済ほどの経済発展を成し遂げられませんでした。そして、1980年代末になると、東ヨーロッパを中心とした社会主義国の経済が破たんし、国家も破たんしました。
1989年にソビエト連邦が崩壊し、資本主義のロシア共和国が設立されると、中華人民共和国と北朝鮮を除いて、全ての国が資本主義体制を導入しました。さらに、中国も、政治的には共産党の一党独裁を維持しながら、市場経済への移行を始めました。つまり、第二次世界大戦後の約40年間は、国家の視点で見ると経済の発展が最も重要な時代であったと言えます。この時代に、日本は大きく経済発展をし、世界第二位の経済大国になりました。そして日本の国民は、豊かになりました。
ただ、第二次世界大戦に負けて軍事力を実質的に放棄した日本は、戦後、経済発展だけに力を集中させて国家の運営をしてきていました。その結果、国内総生産(GDP)で世界第2位にまで成長できたわけです。似たようなことは、同じく敗戦国であったドイツにも起こりました。日本が世界第2位の経済大国になるまで、その座を占めていたのが、西ドイツでした。ただし、西ドイツの人口は日本の約半分であり、日本の方が明らかに有利であったことは否定できません。
西側の資本主義を標榜していた各国が経済発展を成し遂げていた時、人口の少ないヨーロッパの先進各国は、高齢化と人口減少に悩み、十分な経済発展を成し遂げられずにいました。イギリスが典型的でした。国家は社会保障費の負担にあえぎ、労働生産性が伸びずにいたため、悩んでいました。1980年代に入ってイギリスは、大胆な規制緩和策を導入し、国家としては経済を立て直すことに成功しました。ただ、国民の生活は苦しくなったようです。それは、労働者の賃金が上がらず、低賃金労働が増加するとともに、海外からの移民、出稼ぎ労働者が増えたからでした。この間、国民の間で豊かな人々と貧しい人々との差は拡大しました。
似たようなことは、順調に経済発展を継続していた米国社会でも発生しました。特に経済成長の著しかった日本との競争に苦しんでいた米国内の企業は、国内の生産拠点における製造のための人員を解雇し、労働コストの低い国に生産拠点を移動させ、生産性の向上に努めていたからです。これによって、労働生産性は高くなりましたが、米国社会を支えていた多数の工場労働者から成る中産階級はほぼ消滅しました。仕事を失った人々の多くは、安定した雇用ではなく、短期的な雇用や低賃金の職に向かわずにはいられませんでした。そして、1990年代に入って、失業率は極端に高まりました。仕事がなくなったからです。
このような状況から、一般の人々の間における貧富の格差が広がりました。高い専門教育を受けた一部の専門家たちは、高額な給与を得ているにもかかわらず、多くの労働者は家を手放し、ホームレスになっていたのです。このようなことから、若者や仕事に就けない人々が政治に不満を持ち、短期的な視野で選挙に参画するようになりました。2009年にオバマ氏が、初めての黒人大統領として就任した背景には、そのような背景がありました。オバマ氏の大統領在任期間中に、米国経済は少しずつ回復し、失業率も5パーセントを切る水準にまで好転しました。しかしそれでも、人々の間の貧富の格差は拡大を続けました。
労働者の賃金は、国際的な経済競争の結果、低く抑えられており、中産階級は消失したままの状況が続いています。大多数の労働者は、複数の仕事に従事しなければ、生活してゆけないほど困窮しています。そのような経済環境の中で、2016年の大統領選挙では、得票率では対立候補が勝っていたものの、獲得した選挙人の数でトランプ氏が勝り、過激な政策を標榜したトランプ大統領が生まれました。これも、米国内における個人間の経済格差拡大の結果だと言えるでしょう。個人の視点からは、それほど収入が重要な問題になりつつあります。