縄文人と私達


エミシと出雲人(3)

公開: 2022年10月2日

更新: 2024年1月28日

あらまし

日本の古代神話を記述した書物の一つに「古事記」(こじき)があります。特に最初の神話に関する記述に、出雲の神話と大和朝廷の成立に関する記述がなされていることが特徴です。出雲神話では、高天原(たかまがはら)を治めていたアマテラス大神の命を受けて、高天原を出たアマテラスの弟神のスサノオの尊(みこと)は、混沌(こんとん)としていた芦原の国、出雲の地へ降臨し、斐伊川(ひいかわ)沿いの村で、毎年のヤマタノオロチの大暴れを防ぐために、若い娘を生贄(いけにえ)に捧げなければならず悩んでいた老夫婦と娘に出会い、その話を聴いたスサノオがヤマタノオロチに酒を飲ませ、酔ったところに襲い掛かって、ヤマタノオロチを退治する計画を授けました。スサノオは、8つの酒樽に酒を注いでヤマタノオロチの出現を待ち、オロチが酒を飲んで酔ったところを見計らい、オロチの8つの首を落とし、その尻尾を切った時、尻尾から草薙剣(くさなぎのつるぎ)が出てきたとする話で始まります。この後、神話の主人公になるのは、出雲の国の支配者になる大国主の命(おおくにぬしのみこと)です。

大国主の命(おおくにぬしのみこと)は、現在、出雲大社に祀られている神です。大国主は、兄弟と結婚相手争いをして、諸国を歩きまわります。この過程で、大国主は、因幡(いなば)の国の海岸で毛をむしられて泣いているウサギに出会います。ウサギは、島から海を渡って因幡の海岸に来るために、海に居たワニ(サメをこう呼びます)をだまして、島から海岸まで1列に並べさせます。嘘を言ってワニを並べさせましたが、ウサギが島からワニの背中を伝って海岸にたどり着き、海岸に降りた時、ワニたちをだましたことをワニたちに言うと、ワニたちは怒り出してウサギの毛を全て剥(は)いでしまったのです。その痛みに耐えかねて泣いていたところに通りかかった大国主は、ウサギにどうすれば良くなるかを教えました。その通りにしたウサギは、みごと元通りの毛をはやしたと言う話です。このあと、大国主は、スサノオの娘と出会い、スサノオが大国主に課す様々な難題を乗り越えて、娘と結ばれる話が続きます。

大国主が出雲の国を平定した後、その支配を子供に譲り、隠居をすると、大和朝廷から使いが来て、出雲の支配を大和朝廷に譲るようにと迫ります。大国主は、自分は隠居の身であるから、子供達に言うようにと伝えます。大和からの使者は、大国主の2人の息子達にそれを伝えます。一人は、使いに来た人と力比べ(相撲をしたとされています)をして負け、現在の長野県の諏訪まで逃げたとされています。もう一人は、魚釣りに出ていましたが、国譲りを迫られ、船の上で自害(じがい)をしたとされています。この神話が意味するところは、大和の勢力と出雲の勢力との間で、し烈な戦いが行われ、結果として出雲の勢力が負けたと考えられています。歴史学者によれば、陸稲稲作を行っていた出雲社会に対して、新しく稲作を取り入れた九州の大和社会は、水稲耕作を採用し、生産性が高かったことから、大和勢が有利だったとしています。勝ったとはいえ、大和の勢力は、出雲に大国主を祀る巨大な神社を建設することで出雲の人々の怨念(おんねん)を鎮めることを考えたのでしょう。

エミシと出雲人(3)〜出雲社会とエミシ社会

日本の古代神話を記述した書物の一つに「古事記」(こじき)があります。古事記は、712年に太安万侶(たやすまろ)によって編纂(へんさん)された古代日本の歴史書とされています。そこには、古代日本の神話、初期の15代までの天皇の業績として伝えられていたこと、16代から33代までの天皇の業績が、記録されています。特に最初の神話に関する記述に、出雲の神話と大和朝廷の成立に関する話が記されていることが特徴です。古事記と対になっている日本書紀との内容の差から、古事記を偽書(ぎしょ)とする説を、江戸時代の国学者賀茂真淵(かものまぶち)らが唱(とな)える原因になりました。なぜ、古事記では、「出雲神話をこれほどまでに重要視したのか」については、現代でも歴史家の間で意見が分かれています。そのような説の中には、古事記が、当時の日本社会で対立していた大和政権と出雲政権の主導権争いで、大和勢力との競争に敗れた出雲側の支配者の怨念(おんねん)を鎮(しず)めるために、大和勢力の人々が「国譲り」(くにゆずり)の神話を作りだし、出雲側の勢力が「自ら進んで、大和側の勢力による支配を受け入れた」かのような体裁(ていさい)を採ることが必要だったからだとする考えも出されています。

出雲神話では、高天原(たかまがはら)を治(おさ)めていたアマテラス大神の命令で、高天原を出た弟神のスサノオの尊(みこと)は、混沌(こんとん)としていた芦原(あしはら)の国、すなわち出雲の地へ降臨(こうりん)し、斐伊川(ひいかわ)沿いの村で、毎年のヤマタノオロチの大暴れを未然に防ぐため、若い娘を生贄(いけにえ)に捧(ささ)げなければならず悩んでいた老夫婦と娘に出会い、その話を聴いたスサノオが、ヤマタノオロチに酒を飲ませ、オロチが酔ったところを襲い、首を切り落としてオロチを退治するという計画を授けました。スサノオは、8つの酒樽に酒を注いでヤマタノオロチの出現を待ち、オロチが酒を飲んで酔ったところを見計らい、自分の太刀でオロチの8つの首を切り落とし、その大きな尻尾を切った時、尻尾から草薙剣(くさなぎのつるぎ)が出てきたとする話で始まります。この草薙剣が、天皇から天皇へと受け継がれる三種の神器の一つなっている「太刀(たち)」です。このスサノオは、現在、島根県のスサノオ神社に祀(まつ)られています。この後、神話の主人公になるのは、その後、出雲の国の支配者になる大国主の命(おおくにぬしのみこと)です。

大国主の命(おおくにぬしのみこと)は、現在、島根県にある出雲大社に祀られている神です。大国主は、兄弟と結婚相手争いをして、諸国を歩きます。この過程で、大国主は、因幡(いなば)の国の海岸で泣いている、毛をむしられた白ウサギに出会います。そのウサギは、島から海を渡って因幡の海岸に来るために、海に居たワニ達(当時、この地方ではサメをこう呼びました)をだまして、島から海岸まで1列に並べさせました。嘘を言ってワニを並べさせましたが、ウサギが島からワニ達の背中を伝って海岸にたどり着き、海岸に降り立った時、ワニ達をだましたことをワニ達に言うと、ワニ達は怒り出して、ウサギの毛を全て剥(は)いでしまったのです。その痛みに耐えかねて泣いていたところに通りかかった大国主は、ウサギにどうすれば良くなるかを教えました。その教え通りにしたウサギは、みごと元通りの毛をはやしたと言う話です。これは今日では、大国主が、医学的な知識を持っていたことを示す逸話だと考えられています。このあと、大国主は、スサノオの娘と出会い、スサノオが大国主に課す様々な難題(なんだい)を解決して、大国主はスサノオの娘と結ばれる話が続きます。

大国主が出雲の国を平定した後、その支配を子供に譲り、隠居をすると、大和朝廷から使いが来て、出雲の支配を大和朝廷に譲るようにと迫ります。大国主は、自分は隠居の身であるから、子供達に言うようにと伝えます。大和からの使者は、大国主の2人の息子達にそれを伝えます。一人は、使いに来た人と力比べ(相撲をしたとされています)をして負け、現在の長野県の諏訪まで逃げたとされています。もう一人は、魚釣りに出ていましたが、国譲りを迫られ、船の上で自害(じがい)をしたとされています。この神話が意味するところは、大和の勢力と出雲の勢力との間で、し烈な戦いが行われ、結果として出雲の勢力が負けたことを意味すると考えられています。歴史学者によれば、古くからの陸稲稲作を行っていた出雲社会に対して、新しく稲作を取り入れた九州の大和社会は、水稲耕作を採用し、生産性が高かったことから、大和勢が有利だったとしています。勝ったとはいえ、大和側がそのまま出雲の社会を統治することには危険があると考え、出雲に大国主を祀(まつ)る巨大な神社を建設することを約束したのではないかと考えられています。それが、今日の出雲大社です。そのことは、出雲勢の力が、大和勢の予想をはるかに超えていたことを意味しているでしょう。出雲は、当時、先進国であった朝鮮半島に近く、質の良い砂鉄を産出し、たたら製鉄の技術を持った人々が多くいました。

出雲で生産された玉鋼(たまはがね)は、刀を作るために重要な材料です。それを生産するための技術、人材と、質の高い材料の砂鉄を産出する出雲は、当時、先進地域であったはずです。出雲を支配することは、大和朝廷がそれ以後の日本社会の統治(とうち)を確立するうえで、絶対に必要な条件の一つでした。それは、弥生時代以降、武力の維持と、農業生産力の維持が絶対の政治的条件だったからです。この時代の社会では、人口を増やすために農業生産力増大のための技術の開発、即ち鉄の生産のための材料の調達と鉄生産のための人材の育成、鉄を利用した農機具生産のための鍛冶技術を持つ人々の育成、また、農業生産を円滑に行うための天候や気候に関する天文学の知識を持った人材の育成や、水資源の供給と河川の管理に必要な土木建設の知識を持つ人材の育成などです。このうち、鉄に関する様々な知識や技術については、出雲の社会は当時の日本において先端的な地域でした。その出雲の社会を、大和の勢力が支配できたことは、日本における支配を強めるために、きわめて重要なことであったと言えます。

大和の勢力による出雲社会の支配は、「国譲り神話」のように平和裏に行われた可能性は低いでしょう。実際に、大和と出雲との間には、激しい武力闘争があったものと考えられます。その戦いで生まれた両国社会の人々に残された遺恨(いこん)は、簡単には拭(ぬぐ)い去ることはできません。大和勢力は、この出雲勢力の人々の恨(うら)みを減らすために、巨大な神社を建設しました。その社(やしろ)の中心の建築物は、数十メートルの高さをもつ、当時の社会としては想像できないほどの規模を誇るものであったと言われています。その建築物が、現在の出雲大社です。建物自体は、現在の出雲大社よりも巨大であったと考えられています。そのような大国主の命を祀る社を建設することで、大和朝廷が支配した出雲の人々の心情的な恨みを減じる政治的な狙いがあったと思われます。現実にその政治的意図は成功したと言えるでしょう。それが、古事記に記された、大和の勢力が大国主の命に約束した巨大社建設に込めた大和勢力の大国主の決意に対する感謝として表されています。

出雲で神話の国譲りが行われてから数百年の後、東北の地で、似たような事件が起こりました。それが、エミシの反乱と桓武(かんむ)天皇の命による坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の征夷行動でした。エミシ軍を率いて朝廷軍を苦しめたアテルイも、30年に渡る戦いと、朝廷が送った10万の大軍との攻防戦によって、疲弊(ひへい)していました。征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は、アテルイが率いた反乱軍と戦いながらも、エミシ軍の勢力を弱めるための懐柔(かいじゅう)策を講じ、エミシ軍を離反した部族の人々を優遇し、出雲などの離れた場所に移住させました。アテルイは、戦争のこう着状態を打開して平和を取り戻すために、自分の命を投げだし、坂上田村麻呂に降伏する道を選びました。これは、古事記にある出雲の国譲り神話と似ています。さらに、アテルイから離反したエミシの人々の一部が、まさに国譲り神話の地、出雲へと送られたことは歴史の皮肉です。似たような歴史の悲劇を経験した人々の社会へ、エミシの人々を送り込んで、同化(どうか)させようとするやり方を選択したのです。坂上田村麻呂の選択は正しかったのでしょうか。戊辰戦争の歴史的な記憶が、今でもその戦いに関わった人々の子孫に残っているように、数百年間、人々の記憶から消すことはできません。

(つづく)