公開: 2022年10月3日
更新: 2024年1月28日
優生思想とは、19世紀のヨーロッパで生まれた人類の遺伝と進化に関係した、誤った考え方の一つです。最も有名な考え方に、白人人種の優位性と人類の進化のために良い遺伝子を残すべきとする考え方があります。その理論では、現代の人類、すなわちホモサピエンス(現生人類)は、赤道に近いアフリカ大陸で生まれ、その強い紫外線に対応して、肌の色はメラニンが多く、ゴリラと同じような黒っぽい色をしていました。その人類が、アフリカ大陸を出て、地中海にまで進出すると、太陽の紫外線が弱まり、それに対応して肌の色が薄くなりました。地中海沿岸の現在のトルコ近辺に到着した人類の祖先は、ヨーロッパ大陸へ向かった人々と、アジア大陸へ向かった人々とに分かれました。ヨーロッパ大陸に向かった人々は、さらに弱い紫外線に対応して、肌の色が白くなりました。コーカサス系の「白人」が出現したのです。ある優生思想の場合、この遺伝の違いによって、人種的に能力に差があると考えます。このことが、人種差別の原因を作り出しました。
さらに時代が進むと、人種は同じでも、ある種の遺伝的な病気を持つ人々の存在や、人種による知的能力の違いが問題にされ、そのような遺伝的な問題を持つ人々は、劣った遺伝子を受け継いでおり、子孫を残すことは人類の進化を阻害すると言う思想が出てきました。ナチス・ドイツのヒットラーが、「アーリア系」人種のドイツ人が、民族的に最も優秀な人種であると信じた理由が、そのような間違った思想にありました。ヒットラーは、スラプ系の人種の人々、ユダヤ系の人種の人々は、アーリア系の人種よりも劣っていると考えていました。その極端な例が、ホロコーストの犠牲になったユダヤ人の人々で、アウシュビッツのなどの収容所に集められ、ガス室に閉じ込められて、毒ガスで大量虐殺されました。同じ、ドイツ人やオーストリア人でも、精神疾患を持った子供達も収容施設に集められ、特別な才能を見出すことができなかった場合には、劣等な遺伝をもった子供として殺されました。その診断を行った医師の一人に、アスペルガー症候群を見つけ出した医師、アスペルガーがいました。
明治時代、アイヌの人々は、一般の和人とは「人種的に異なった、劣った人種の人々である」と信じられていました。その理由は、アイヌの人々の容姿が、一般の和人とは違っていたからです。江戸時代にオランダから来たドイツ人医師のシーボルトは、アイヌの人々が日本人のような黄色人種ではなく、西洋系の白人であろうと考えていました。アイヌの人々は、一般の和人と比較すると、目鼻立ちがはっきりしていて、「彫りの深い顔」と言われることが多いようです。弥生時代以降、和人には中国大陸や朝鮮半島から移住して来た渡来系の人々の血が混じり合っており、顔の表情が扁平で、鼻が低く、まぶたは一重まぶたです。髪の毛は、直毛です。アイヌの人々の場合、二重まぶたで縮れ毛が多いと言われています。これらの和人の特徴は、弥生時代以降に日本列島に移り住んだ大陸系や朝鮮半島系の人々の遺伝を受け継いだものだと考えられています。弥生時代に、和人の遺伝や和人が話す言葉(日本語)に変化があったことは否定できません。
優生思想とは、19世紀のヨーロッパで生まれた人類の遺伝と進化に関係した誤った考え方の一つです。最も有名な考え方に、白人人種の優位性と人類の進化のために良い遺伝子を残すべきとする考え方があります。その理論では、現代の人類、すなわちホモサピエンス(現生人類)は、赤道に近いアフリカ大陸で生まれ、その強い紫外線に適応するために、肌の色はメラニンが多く、ゴリラと同じような黒っぽい色になりました。その人類は、6万年ぐらい前に、アフリカ大陸を出て、地中海にまで進出すると、太陽の紫外線が弱まり、それに対応して肌の色が薄くなりました。地中海沿岸の現在のトルコ近辺に到着した人類の祖先は、ヨーロッパ大陸へ向かった人々と、アジア大陸へ向かった人々とに分かれました。ヨーロッパ大陸に向かった人々は、さらに弱い紫外線に対応して、肌の色が白くなりました。コーカサス人系の「白人」が出現したのです。現代の進化人類学では、白い肌と青い目、金髪などの白人に多い身体的特徴は、ネアンデルタール人から受け継いだ遺伝だと言われています。アジア大陸へ進出した人々は、紫外線がそれほど弱まっていない地域だったために、黒い肌と白い肌の中間の色の肌に進化しました。また、シベリアの寒冷な気候に順応するため、手足が短く、顔が扁平(へんぺい)になったと考えられています。現代社会で黄色人種と呼ばれている人々です。ある優生思想では、この遺伝の違いによって、人種的に能力に差が生じたと考えます。このことが、人種差別の理論的な根拠とされ、近代世界での人種差別を生み出しました。
さらに時代が進むと、同じ人種の中でも、ある種の遺伝的な病気を持つ人々の存在や、人種による知的水準の違いが問題にされ、そのような遺伝的な問題を持つ人々は、劣った遺伝子を受け継いでいるからであり、子孫を残すことは人類の進化を阻害(そがい)すると言う思想が出てきました。ナチス・ドイツのヒットラーが、「アーリア系」人種のドイツ人が、民族的に最も優秀な人種であると信じた理由が、そのような間違った思想にありました。ヒットラーは、スラプ系の人種の人々、ユダヤ系の人種の人々は、アーリア系の人種よりも劣っていると信じていました。スラプ系のロシア人や、スラブ系のスロバキア人などに対して強い偏見を持っていたのです。その極端な例が、ホロコーストの犠牲になったユダヤ系の人々で、地上から抹殺すべき人種と考え、アウシュビッツの様な収容所に集められ、ガス室に閉じ込められて、毒ガスのチクロンで大量虐殺されました。同じ、ドイツ人やオーストリア人でも、精神疾患を持った子供達は、特別な収容施設に集められ、特別な才能を見出すことができなかった場合には、劣等な遺伝をもった子供として殺されました。その診断を行った医師の一人に、アスペルガー症候群を見つけ出した医師、アスペルガー博士がいました。似たような思想は、当時の米国社会でも広く受け入れられており、アングロサクソン系やスカンジナビア系の人々が最も知的な水準が高く、中国や日本の人々が知的には劣っていると言われていました。
明治以後の大日本帝国政府も、このヨーロッパの優生思想の影響を受け、遺伝病を持った人などを特別な施設に収容し、社会から隔離する政策をとりました。そのような病気の一つに、ハンセン(かつてはライと呼ばれていました)病があり、患者の家族も差別された例が数多くありました。ハンセン病は、キリスト教の聖書にも記述されている古い伝染病です。伝染病ですが、その伝染性は著しく弱く、ほとんどの場合、他人に伝染することはありません。過去の日本では、ハンセン病の患者は、人々から隔離されて、離島や人里離れた場所に作られた施設に収容され、一生、その場所で過ごすことを強制されました。それだけでなく、ハンセン病患者には、子供を産ませないようにする手術なども行われ、最近では、そのことが人権侵害であったとして、裁判が提訴されています。特に、1940年に制定された「優生保護法」は、ヨーロッパの優生思想の影響を強く受けた法律で、日本社会に、ある種の病気や精神疾患を持つ人々に対する差別意識を植え付けたと言えます。ハンセン病患者に対する差別は、その顕著な例だったと言えます。
明治時代、アイヌの人々は、一般の和人とは人種的に異なった人々であると信じられていました。その理由は、アイヌの人々の容姿が、一般の和人とは違っていたからです。江戸時代にオランダから来たドイツ人医師のシーボルトは、アイヌの人々が日本人のような黄色人種ではなく、西洋系の白人であろうと考えていました。アイヌの人々は、一般の和人と比較すると、目鼻立ちがはっきりしていて、「彫りの深い顔」であると言われることが多いようです。弥生時代以降、和人には中国大陸や朝鮮半島から移住して来た渡来系の人々の血が混じり合っており、顔の表情が扁平で、鼻が低く、まぶたは一重まぶたです。髪の毛は、直毛です。アイヌの人々の場合、二重まぶたで縮れ毛が多いと言われています。これらの和人の特徴は、弥生時代以降に日本列島に移り住んだ大陸系や朝鮮半島系の人々の遺伝を受け継いだものだと考えられています。遺伝子の分析からも、現代日本人の遺伝子には、3分の2から5分の4の渡来系の人々の遺伝が残っています。弥生時代に、和人の遺伝や和人が話す言葉(日本語)に変化があったことは否定できません。遺伝的には、一般の日本人の場合、縄文人よりも大陸系・朝鮮半島系の人々の遺伝的影響の方が強く残っています。
この社会的背景から、明治政府は北海道内に散在していたアイヌの人々から土地を奪い、特定の地域に集めて移り住まわせ、日本人として和名を名乗るように強制しました。これを同化(政)策と呼びます。明治32年(1899年)、北海道土人保護法が制定されると、アイヌの人々に移住する土地を与えました。その土地は、当時、住んでいる人のいなかった土地で、政府が与えた場所で、アイヌの人々に農耕をするように勧めました。しかし、与えた農地は農耕に向かない荒れ地だった例も少なくなかったようです。また、アイヌの人々は農耕作業を嫌う傾向もあったため、耕地は和人に貸し出される例もあったようです。例えば、現在の旭川の町はずれにいくつかのアイヌ村が作られました。旭川周辺に今でもアイヌ系の人々が多いのは、このためです。多くのアイヌの人々は、自分達がアイヌの血を引いていることを隠し、子供達をあたかも和人の子供たちのように育てるように努力したようです。アイヌ語を話さず、日本語だけを話し、貧しい生活に耐えた人々も多かったようです。子供達も小学校で、高い学力を示すと、「アイヌの子供なのに頭が良い」と、先生達に言われることもあったそうです。アイヌ語には文字を書いて残す習慣がなかったので、多くの和人は「アイヌの人々は未開の民で、知識の水準が低い人達である」と言う誤った固定観念を持っていたようです。つまり、優生思想で言う「劣った人種」とする差別的な視点で、アイヌの人々を見ていました。
明治時代から第2次世界大戦が終わるまで、日本政府のアイヌの人々、文化、言語に対する姿勢は変わりませんでした。この政府の姿勢は、第2次世界大戦後、日本国憲法が制定され、新しい法制度が施行されても、本質的には変わりませんでした。北海道土人保護法は、そのまま残りました。ハンセン病患者の隔離政策についても、特に優生保護法は1996年まで、法律として残り続けました。少数民族に対する国家の対応については、国際社会からの批判があったにも関わらず、1997年にアイヌ文化振興法が成立するまで、日本政府の対応は変わりませんでした。100年以上に渡りアイヌ文化に対する抑圧的な政策が続いたため、アイヌの習俗や言語は、存続が危ぶまれる状態にまで、近づきました。似たようなことは、日本が占領し、統治していた朝鮮半島でも試みられました。しかし、朝鮮半島では、その民族に属していた人々の数も多かったため、日本政府の同化政策は、失敗に終わりました。アイヌ民族の場合、元々、アイヌの人々の数が少なかったこともあり、同化政策によって、言語についていえば、言語を使える人々が急速に減少した結果、今日、存続の危機が迫ってきています。
最近になって、アイヌ系の人々の中に、特に若い世代の人々の中に、自分達のアイデンティティーとして、アイヌ民族を自認し、民族の誇りをもって生きようとする人々が出始めています。これは、米国社会で、もともとアメリカ大陸に居た人々の子孫、アメリカ・インディアンの血を引く人々が、民族の誇りをもって、インディアンの文化を守り、インデアン語を守ろうと活動するようになったなど、世界的な動向に影響されたものだと思われます。特に、アイヌの人々の場合、縄文人の遺伝子を強く受け継いでいます。その意味でも、我々、日本人のルーツを明らかにするためにも、アイヌの人々が守ってきた文化・習俗、そして言語を、将来の時代に残してゆくことは、日本社会として、日本人として、そしてアイヌの血を引いた人々の子孫として、重要な責務であると言えるでしょう。そして、それは日本人の誇り、アイヌ人の誇りを祖先から受け継ぎ、将来へ伝えることができる、好機であることも事実です。明治政府のアイヌの人々に対する政策と、日本の国民に対するアイヌ文化・民族理解の教育は、誤りだったと言えます。この社会的誤りは、数十年と言う短期間では、是正が難しいでしょう。