縄文人と私達


エミシと出雲人(2)

公開: 2022年10月1日

更新: 2024年1月27日

あらまし

774年に光仁天皇は新しい将軍に任命して征夷(せいい)に向かわせました。朝廷軍の指揮を執ることになった将軍は、前任者が立案した征夷計画を実行に移すべく準備を始めました。この時、現在の岩手県盛岡市にあったエミシの村、胆沢で、反乱が起こりました。これに対して、朝廷軍は関東地方の戦力を動員して、胆沢(いさわ)を攻めました。これをきっかけに胆沢のエミシが朝廷軍に対する反発を強めました。779年、エミシ軍と朝廷軍との間で、戦いが始まりました。この戦いでは、エミシ社会側に分断が生じ、朝廷側につくエミシの人々も出たようです。780年、将軍が朝廷側についたエミシの将軍を連れ、胆沢のエミシ制圧に赴いた時、味方のエミシ軍が反乱を起こし、将軍を包囲し、殺戮(殺戮)しました。

781年、光仁天皇は退位し、その子の桓武(かんむ)天皇が即位しました。朝鮮半島からの渡来系の母の血統に劣等感を抱いていた桓武天皇は、父の光仁天皇と同じく、領土の拡大による朝廷内での権力掌握を期待し、征夷軍の立て直しに注力しました。一方、エミシ社会では、胆沢の将軍アテルイがエミシ軍の総帥(そうすい)に推薦(すいせん)されました。桓武天皇は、782年、大伴家持(おおとものやかもち)を鎮守(ちんじゅ)将軍に任命して、エミシの征服を命じました。その大伴家持が、785年に没した直後、長岡京では、朝廷内で事件が多発し、大伴家持も皇太子の暗殺計画に関わっていたとされ、自殺した皇太子の祟り(たたり)だと言われた事故が多発し、桓武天皇は長岡京の建設を断念、平安京(現在の京都)への遷都(せんと)を決定しました。

789年、征夷軍は衣川に進軍し、開戦を待ちました。戦いが始まると、エミシ軍を率いたアテルイが活躍し、4,000の朝廷征夷軍を800ほどのエミシ軍で迎え撃ち、大敗に陥れました。その後の戦いでも朝廷軍は苦戦しました。激しい戦闘が続きましたが、征夷軍にもエミシ軍にも大きな成果はありませんでした。特に激しい戦闘の場になった胆沢のエミシ社会には、打撃が大きく、アテルイは窮地(きゅうち)に立たされていました。坂上田村麻呂とアテルイは、791年頃から、水面下で和平交渉を始めていたようです。796年頃から、アテルイとの和平交渉では、征夷に拘りのある桓武天皇の意向を考えて、「アテルイの投降」が必須の条件になりました。802年、坂上田村麻呂とアテルイは、アテルイが征夷軍に投降することで、戦争を終わらせることに同意しました。

エミシと出雲人(2)〜アテルイと坂上田村麻呂

光仁(こうにん)天皇がなぜ、大和朝廷のエミシ支配を強めようと考えたのかの理由は定かではありません。ただ、朝廷が財政的に苦しんでいたことは事実です。光仁天皇は、朝廷の財政を立て直すために、エミシの人々を大和朝廷の支配下に置き、彼らから税を集めることで、朝廷の税収を増やせると考えたようです。稲作からの税を増やすことを期待していたからです。しかし、気候の寒冷化の影響で、稲作の収穫は減退していたので、税収増にはならなかったのでしょう。それでも光仁天皇は、エミシ制圧のために何人もの将軍を次々と送り続けました。戦闘は、一進一退が続きました。62歳の高齢で即位した光仁天皇は、自分の名誉のためにエミシ征服の戦果を欲していました。光仁天皇の母親は、朝鮮半島から渡来した人々の子孫でした。天皇はそのことに劣等感(れっとうかん)をもち、エミシ制圧の業績を必要としていたとも言われています。

774年に光仁天皇は紀広純(きのひろすみ)を将軍に任じて征夷(せいい)に向かわせました。朝廷軍の指揮を執ることになった紀広純は、前任者が立案した征夷計画を実行に移すべく準備を始めました。この時、現在の岩手県盛岡市にあったエミシの村で、反乱が起こりました。この反乱に対して、朝廷軍は関東地方の戦力を動員して、胆沢(いさわ)を攻めました。これをきっかけに、もともと朝廷側に友好的だった胆沢のエミシが、朝廷軍に対する反発を強め始めました。胆沢のエミシ軍の中に、アテルイと言う名の将軍がいました。779年、エミシ軍と朝廷軍との間で、戦いが始まりました。この戦いでは、エミシ社会側に分断が生じ、朝廷側につくエミシの部族も出たようです。その結果、エミシの身分を免じられ、「公民(こうみん)」とされた人々も出現しました。天皇は直々の命令で、「胆沢のエミシ集団こそ征服しなければならない」と宣言しました。780年、紀広純が朝廷側についたエミシの将軍を連れ、胆沢のエミシ制圧に赴いた時、その味方についたエミシ軍が反乱を起こし、紀広純を包囲し、紀広純を殺戮(さつりく)しました。

781年、光仁天皇は退位し、その子の桓武(かんむ)天皇が即位しました。朝鮮半島からの渡来系の母の血統に劣等感を抱いていた桓武天皇も、父の光仁天皇と同じく、領土の拡大による朝廷内での権力掌握(けんりょくしょうあく)を期待し、征夷軍の立て直しに注力しました。一方、エミシ社会では、アテルイがエミシ軍の総帥(そうすい)に選ばれました。桓武天皇は、782年、大伴家持(おおとものやかもち)を鎮守(ちんじゅ)将軍に任命して、エミシの征服を命じました。その大伴家持は、785年に没しました。その直後、長岡京では、朝廷内での事件が多発し、大伴家持も皇太子の暗殺計画に関わっていたとされ、自殺した皇太子の祟り(たたり)だと言われた事件が多発し、桓武天皇は長岡京の建設を断念し、平安京(現在の京都)への遷都(せんと)を決定しました。桓武天皇は、外戚(がいせき)関係にあった渡来系の百済俊哲(くだらしゅんてつ)を鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)に任命し、エミシの制圧を命じました。ところが、鎮守府内における不正問題が明るみに出て、百済俊哲は、失脚しました。桓武天皇は、征夷軍指揮官に佐伯葛城(さえきのかつらぎ)を指名し、征夷軍は岩手県の衣川(ころもがわ)へ進軍しました。

789年、征夷軍は衣川に進軍し、開戦を待ちました。その間に、突然、佐伯葛城が現地で死去しました。佐伯葛城の後継となった古佐美(こさみ)は、征夷軍に進軍を命じ、戦いが始まりました。この戦いでは、アテルイが活躍し、4,000の朝廷征夷軍を、800ほどのエミシ軍が大敗に陥れました。その後の戦いでも朝廷軍は苦戦しました。劣勢が続いた朝廷軍では、「懐柔(かいじゅう)」を主張する首脳陣と、「武力制圧」を主張する首脳陣の対立が始まっていました。791年、征夷軍指揮官の古佐美は、天皇に征夷の中止を進言しました。その理由は、兵士の食料不足でした。しかし、桓武天皇は、将軍らの不忠を非難し、戦争の継続を指示しました。桓武天皇は、792年、渡来系の外戚に当たる坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に命じました。坂上田村麻呂とアテルイの戦いが始まると、エミシ社会への打撃が拡大し、アテルイも苦戦し始めました。一度失脚した百済俊哲(くだらしゅんてつ)が791年から再び征夷軍に参戦していましたが、795年、俊哲は死去しました。

激しい戦闘が続きましたが、征夷軍にもエミシ軍にも大きな戦果はありませんでした。特に胆沢のエミシ社会には、打撃が大きく、アテルイは窮地(きゅうち)に立たされていました。坂上田村麻呂とアテルイは、791年頃から、水面下で和平交渉を始めていたようです。796年頃から、坂上田村麻呂は、積極的にエミシ軍の懐柔(かいじゅう)策を展開しました。エミシ軍の中には、坂上田村麻呂の懐柔策に従って、投降(とうこう)する人々も出現しました。大和朝廷は、投降したエミシの人々を関東や出雲の地へ移住させ、優遇したと言う記録が残っています。アテルイとの和平交渉では、征夷に拘(こだわ)りのある桓武天皇の意向を考えて、「アテルイの投降」が必須の条件になりました。802年、坂上田村麻呂とアテルイは、アテルイが投降することで戦争を終わらせることに同意しました。アテルイは、坂上田村麻呂に従って、東北から平安京へ連行されました。桓武天皇は、アテルイの処刑を命じ、アテルイは斬首(ざんしゅ)の刑に処されました。

このエミシによる反乱と朝廷軍のエミシ東征は、その後のエミシの乱を未然に防ぐため、特に、関東の各地へエミシの人々を分けて移住させる政策が採用され、その後、類似の戦乱はなくなりました。しかし、平安時代の平将門(たいらのまさかど)の乱、平安時代末期の後三年の役奥州藤原氏と鎌倉幕府との戦い、戦国時代末期の豊臣軍と九戸(くのへ)氏との戦い、幕末の戊辰(ぼしん)戦争での会津の戦い・山形庄内の戦いなど、中央政府の軍と東北地方の地元軍との大きな戦いは、何度か繰り返されました。似たような戦いは、九州地方でも豊臣軍と島津軍との戦いや西郷隆盛の西南戦争など、何度か経験されています。注目すべきは、東北の地元軍と中央政府軍との戦いでは、地元の人々を巻き込んだ壊滅的な戦いに拡大する傾向が見られることです。エミシの血を引いた東北の人々の戦いでは、政府側の戦い方が残虐になる傾向が見られます。それは、逆の見方をすれば、地元軍の抵抗が激しくなることを示していたと言えるでしょう。

筆者は大学生の時、インターンシップで、大手製薬会社において、実験テータを解析するコンピュータ・プログラムの設計と開発の仕事を担当しました。その時、インターン生だった私達を、専門家として指導してくれた方は、業界でも有名な専門家でした。その方が、何かの折に、「山口県出身の人は信頼できない」と言ったことが強く印象に残りました。後で分かったことですが、その方は東北の出身で、明治維新の戊辰戦争で、先祖が会津藩側につき、官軍と戦った歴史を100年後でも「ネに持っていた」ことを知りました。それほど、東北南部での明治維新の戦いは、し烈なもものだったようです。その戦いの記憶のあった祖父や祖母の言葉を聴いて育った人々にとっては、100年の時間では水に流すことができない歴史だったようです。その根底には、関西や中央の支配層の人々に対する怨念のような感情があったように感じられました。戦後の時代に、関東で教育を受けた筆者には、理解できない感情があることを知りました。

(つづく)