縄文人と私達


エミシと出雲人(1)

公開: 2022年9月29日

更新: 2024年1月27日

あらまし

蝦夷(エミシ)とは、古墳時代から平安時代にかけて、東北地方に住み、アイヌの人々や和人との交流をもち、大和の大王(現在の天皇制)の支配に従わなかった人々を指す言葉です。人種的には弥生系の和人の遺伝を受け継ぐ人々でしたが、話していた言葉は、関西の人々との言葉とは違っていて、アイヌ語に近かったのかもしれません。

エミシの人々を、大和政権の人々が明確に認識したのは、大和政権の軍が政権に服従していなかった東北より北に住む人々を攻めた、4世紀ごろからのようです。「日本書紀」の神武天皇に関する記事に「毛人(えみし)を攻めた」とする記述があります。ただし、また、5世紀末頃、倭王武が中国の宋時代に、宋の皇帝へ送った武の上表文に「東は毛人を征すること55国」と記した文がありました。

しかし、この頃の大和政権の東北地方支配は完全な統治ではなく、アイヌの人々との交易を行うために、エミシの人々の力が必要だったことが、和人とエミシの間の物々交換、エミシとアイヌの間の物々交換の、2段階物々交換を可能にするための損得勘定に従った関係だったと考えられます。すなわち、エミシの人々は、アイヌの人々との昆布、熊の毛皮、海獣の毛皮などの物々交換で得た商品を、和人との交易で売ることによって、富を得ていたのです。

8世紀の終り頃、それまで長期に渡りエミシ社会を統治していた一族の力が弱まり、陸奥国内における政治刷新に勤めていた称徳(しょうとく)女帝が770年病没すると、その跡継ぎとして光仁(こうにん)天皇が即位しました。称徳朝末期の政治改革は停滞し、エミシ制圧のために渡来系の将軍が任命されました。エミシ社会を統治していた一族は称徳帝時代に僧の道教(どうきょう)に支援されていましたが、京都では天皇の後ろ盾を失った道教が失脚し、将軍はその一族を衰退させようとしました。しかし、その将軍は、在任期間わずか6か月で転出し、後任に別の将軍が任じられました。結果的にエミシ社会を率いていた一族は、勢力を取り戻しました。光仁天皇がなぜ、大和朝廷のエミシ支配を強めようと考えたのかについての理由は明確ではありません。その目的のために光仁天皇は、エミシ制圧に、何人もの将軍を送り続けました。その戦争は長引き、朝廷は戦費の負担にも苦しみ始めました。

エミシと出雲人(1)〜大和朝廷とエミシ社会との関係

蝦夷(エミシ)とは、古墳時代から平安時代にかけて、まだ、大和朝廷の統治が及んでいなかった、現在の東北地方に住み、アイヌの人々と和人との交流をもち、大和の大王(現在の天皇)の支配を受け入れていなかった人々を指す言葉です。エミシは、人種的には弥生系の和人の遺伝を受け継ぐ人々でしたが、彼らが話していた言葉は、関西の人々が話す言葉とは違っていて、東北地方に住んでいた、アイヌ語に近かったのかもしれません。少なくとも、エミシの人々が、アイヌ語を理解できたことは分かっています。エミシの人々の生活は、稲作よりも、アイヌの人々に似ていた、狩猟採集を中心としたものだったようです。弥生文化の影響を受けていたエミシの人々の中には、当時の東北他方には珍しかった、鉄の生産稲作農耕の技術を持った人々もいたようです。

エミシの人々を、大和政権の人々が明確に認識したのは、大和政権の軍が、政権に服従していなかった東北より北に住む人々を攻めた、4世紀ごろからのようです。日本書紀」の神武天皇即位前記に「毛人(えみし)を攻めた」とする記述があります。ただし、この記述には誤りがあり、神武天皇の時代のことではなく、本当はもっと後の時代のことのようです。また、5世紀末頃、倭王武が中国の宋時代に、宋の皇帝へ送った倭王「」の上表文に「東は毛人を征すること55国」と記した文がありました。倭王武とは、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた「獲加多支歯(わかたける)大王」、すなわち和名では雄略(ゆうりゃく)天皇のこととされています。この鉄剣が作られたのは、471年のこととされています。その頃までには、大和政権は、エミシの人々が住んでいた東北地方まで、勢力を伸ばそうと考えていたと推定されます。

しかし、その頃の大和政権の東北地方支配は完全な統治ではなく、アイヌの人々との交易を行うために、エミシの人々の能力を利用して、和人とエミシの間の交易、エミシとアイヌの間の物々交換の、2段階物々交換を可能にするための損得勘定に従った関係だったと考えられます。すなわち、エミシの人々は、アイヌの人々との昆布、熊や海獣の毛皮、などの物々交換で得た商品を、和人と交易するによって、富を得ていたのです。アイヌの人々は、貨幣経済を拒み、見ず知らずの人々との交流を嫌っていたため、和人が直接、アイヌの人々と接触することができなかったからです。

奈良時代になると、大和政権でもの需要が高まり、金の採集が国家的な事業になってきました。奈良大仏の建立では、大仏の表面を覆う金箔(きんばく)の生産のために、大量の金が必要になりました。この時、その金を手当てするために、宮城県北部や岩手県南部の地方の川で産出される砂金が採集されるようになりました。この砂金採集に関わったのが、東北地方の山々に籠(こも)っていた和人の修験者(しゅげんしゃ)や、エミシの人々だったようです。修験者は、山岳信仰のために山にこもっていた人々で、東北の金の採集などにも積極的に関(かか)わっていました。後に、北海道の日高地方で砂金が取れることが分かると、数多くの和人の修験者が、北海道へ移り住みました。東北のエミシの人々は、修験者の人々から砂金採集の方法や、金の精錬法を学んだようです。

10世紀頃になると、エミシの人々が住んでいた東北地方は、日本を代表する金の産地になってゆきました。エミシの血を引いたと言われる東北の支配者であった奥州藤原氏(おおしゅうふじわらし)は、朝廷が中国の宋へ輸出していた金が、東北地方で大量に産出されるようになったことで莫大な富を築き、源頼朝の鎌倉政権にも対抗できたと言われています。ローマから 中国の元帝国に渡って来たマルコ・ポーロが、「日本は金の国」と称したのも、この奥州藤原氏が建立した中尊寺金色堂の話を聞いたことが基になったと考えられています。しかし、9世紀まで、エミシの人々と大和朝廷との間での争いは、断続的に続きました。朝廷は、エミシを制圧できなかったのです。その争いの中でも、最も有名な争いが、8世紀末のエミシ軍を率いたアテルイと光仁天皇・桓武天皇が送った大和朝廷軍との戦いです。

それまで長期に渡りエミシ社会を統治していた道嶋宿禰(みちしますくね)一族の力が弱まり、それまで陸奥(むつ)国内における政治刷新に勤めていた称徳(しょうとく)女帝が770年に病没すると、その跡継ぎとして白壁王が皇太子になりました。白壁王は光仁(こうにん)天皇として即位しましたが、称徳朝末期の政治改革は停滞し、エミシ制圧のために渡来系の将軍坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)が任命されました。道嶋氏は称徳女帝時代に僧の道教(どうきょう)から支援を受けていましたが、苅田麻呂は後ろ盾を失った道教を失脚させ、道嶋一族を衰退させようとしました。しかし、苅田麻呂は、在任期間わずか6か月で転出し、後任に佐伯美濃(さえきのみの)が任じられました。その結果、道嶋一族は、再び勢力を取り戻しました。光仁天皇は、朝廷の財政を改善することを目的に、道嶋一族の陸奥支配体制への抑圧を始め、朝廷の介入を強めることになりました。

光仁天皇がなぜ、大和朝廷のエミシ支配を強めようと考えたのかの真の理由は明確ではありません。ただ、朝廷が財政的に苦しんでいたことは事実です。光仁天皇は、朝廷の財政状態を改善するために、エミシの人々を大和朝廷の支配下に置き、彼らからを集めることも考えたようです。それは、光仁天皇より前の天皇の時代に、東北の農地を増やして、稲作からの収穫を増大した過去の経験があったからです。稲作からの税を増加させることを期待したのです。実際には、地球全体の気候の寒冷化の影響もあり、稲作の収量は全国的に減っていました。その目的のために光仁天皇は、エミシ制圧に向けて、何人もの将軍を送り続けました。戦闘は、一進一退が続き、朝廷は戦費の増大にも苦しみ始めました。62歳の高齢で即位した光仁天皇は、エミシ征服の戦果を必要としており、追い詰められていました。774年に光仁天皇は紀広純(きのひろすみ)を将軍に任じて征夷(せいい)に向かわせました。

その理由は、エミシ社会全体が不安定になっていたからです。その頃、エミシの各部族の首長たちは、京に上り、朝廷に朝貢(ちょうこう)する儀式が取り止めになり、朝廷の支配に首長たちが従う利点がなくなり、自分達の権威が低下してきたことを危ぶんでいました。道嶋氏の影響力が低下し、エミシ社会を統治する力が弱まっていたこと、エミシ社会と朝廷側社会との交易上の立場の違いからくる矛盾が表面化し始めていたことが、原因でした。朝廷軍は、現在の宮城県に侵攻のための新しい城(多賀城(たがじょう))を建設し、774年にエミシへの攻撃準備を始めました。この朝廷軍のエミシ攻撃計画は、エミシの人々の目から見れば、不理尽(ふりじん)なものでした。ところが、この計画が実行される直前に、送られた将軍は急死してしまい、攻撃計画は延期になりました。

(つづく)