公開: 2022年9月25日
更新: 2024年1月26日
古墳時代、和人たちが鉄を作ることができるようになると、アイヌの人々は、物々交換による和人との交易で、石器ではなく、鉄の刃物を得ることができるようになりました。また、本州でとれる米を得て、酒を造ることができるようになりました。刃物は、動物の肉を切るための道具として使われるようになり、酒は、アイヌの神々を祀る行事で飲まれるようになりました。熊やラッコの毛皮は、和人にとって貴重なものとして、鉄や米、漆の器などと交換されるようになりました。
アイヌの社会は、お金で物を売り買いする貨幣経済(かへいけいざい)の導入を拒み、通常の交易を嫌いました。アイヌの人々と和人の交易は、アイヌの一部の人々と、和人の中で松前藩によって認められた商人だけが、松前藩が認めた地域の中に住み、互いに疑似(ぎじてき)的に知り合いとなって、物々交換を行う形式をとりました。千島のアイヌの中には、和人や北海道アイヌとの直接的な接触を嫌って、「沈黙交易」(ちんもくこうえき)と言う方法で、互いに合うことなく、物々交換を行っていました。千島アイヌの人々は、伝染病を怖れていたため、この方法をとっていたと考えられています。
アイヌの人々と和人との交流は、最近までほとんどありませんでした。とは言うものの、アイヌの人々が、数少ない和人との接触や交流から得た知識は、膨大なものであったと思われます。アイヌの有名な「コルポックル(小人)」伝説は、それをよく物語っています。当初、アイヌ固有の伝説と考えられていましたが、専門家の分析によって、この小人伝説は、北海道に移住した和人によってアイヌの人々に伝えられ、その小人の話に基づいてアイヌのユーカラ伝説になったものだと考えられています。
アイヌの人々は、古代から近代まで、縄文文化の影響を守ってきた人々と言えますが、彼らは、ただ頑(かたく)なに新しい文明を拒否していたとは言えません。鉄や木綿の織物など、暮らしを良くするものは取り入れました。また、貨幣経済への移行は拒んだものの、物々交換のために便利な「金」を使うなどの取り組みは、少しずつ取り入れていました。それでも、伝染病の予防のために、外部の和人との自由な接触を制限するなど、和人との同化には消極的でした。このことが、明治以降の和人のアイヌの人々や文化に対する偏見を生み出した原因のようです。
縄文時代を特徴づけるのは、縄文土器、土偶(どぐう)、黒曜石(こくようせき)の石器、ヒスイの装身具、竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)、貝塚(かいづか)などです。縄文土器は、土を焼く温度が低いため、弥生時代の土器と比べると肉厚で、表面のかざりが派手なところに特徴があります。主に食べ物を入れる容器などとして用いられていたようです。土偶は、人形の形をした土器の一種で、呪術的(じゅじゅつてき)な目的で使われた物だと考えられています。黒曜石の石器は、ガラス質の石を割って、その鋭い切片(せっぺん)の特徴を活かして、刃物や矢じりの材料にしたものです。ヒスイは、新潟県の糸魚川(いといがわ)河口で取れる緑白色(りょくはくしょく)の美しい石を磨(みが)いて腕輪や勾玉(まがたま)を作り、飾り物として身につけるものを作りました。特に黒曜石とヒスイは、産地が限定されているため、すでに縄文時代から、それを国内に流通させるための交易ネットワークが形成されていたことを示しています。
縄文時代の遺跡を発掘すると、当時の人々の生活習慣などが分ってきます。竪穴式住居跡からは、そこに住んでいた人の遺骨(いこつ)が発掘される例があります。そのような遺骨から、縄文時代の人々は、家族に死者が出ると、一定の期間、その死者の遺体(いたい)とともに過ごし、その期間を過ぎると、その住居を捨てて、新しい住居に移動したと考えられます。このように。死者の遺体と一定期間を共にする習慣を「もがり」と呼びます。縄文時代の集落の中には、1つの住居跡から数体の遺骨が出土する例もあり、その住居に住んだ家族の墓地のようになっている例もあるそうです。また、当時の人々が動物を食べた後に残った骨などを捨てた「貝塚」(かいづか)から、動物の骨と一緒に人間の遺骨が出土する例もあり、縄文時代の人々が人の遺体をどのように扱っていたのかは、詳細には分かっていません。犬の骨が、人間の遺骨と同じように、竪穴住居跡から出土する例もあります。
縄文時代の遺跡からは、焼かれた若い猪(いのしし)の骨が出土する例が数多く報告されています。これは、春先に山で捕らえた子猪を集落へ持ち帰り、秋まで育てて、殺し、焼いた痕跡であると考えられています。これは、猪の肉を食べるためにではなく、何らかの宗教的な意味を込めたお祭り行事のために、育てた子猪を殺し、焼いたものであると考えられています。この風習は、猪が居ない北海道でも行われた形跡があり、子猪を本州の東北地方から、生きたまま北海道へ運び、育てていたと考えられています。つまり、縄文時代の人々にとっては、大切な宗教行事のためのものであったと思われます。「もがり」の習俗も、この「子猪を育てて殺す」習俗も、人間の日常生活のためではなく、縄文的な宗教行事のために行われていたようです。
縄文時代の土偶を見ると、人間の顔に当たる部分に、細かく彫られた線などの傷が残されています。専門家は、これを縄文時代の人々の入れ墨(イレズミ)をかたどった模様であると考えています。中国に残された文献にも、「倭人(わじん)」がイレズミをしていたことが記されています。縄文人は、広く入れ墨をしていたと考えられています。入れ墨の模様は、集団別に異なる模様になっていて、どの集団の人であるかが一目でわかるように、集団認識のために入れていたと考えられています。似たような風習は、最近まで、南太平洋の島々に住む人々の間でも行われていたので、古代の人々のアイデンティティを明確にする方法として、世界的に共通する方法であると言えるでしょう。また、日本社会でも、九州地方の島の漁師の人々などの間では、数十年前まで、体に入れ墨を入れる習慣があったそうです。
弥生時代になると、和人の社会では、人が死ぬと、「もがり」はせずに、土葬をするようになりました。特に、奈良時代に仏教が広まると、その傾向は著しくなりました。しかし、北海道ではアイヌの人々が長い間、「もがり」の習俗を守り続けていたことが分かっています。アイヌの人々は、家族の誰かが死ぬと、その遺体を一定期間、竪穴住居に安置(あんち)し、その後で住居近くに作った台の上に安置する方法をとっていたようです。時代が下ると、家族の中の女性を選んで、喪に服させ、その女性が遺体から内臓を取り出して、内臓を取り出した遺体を1年間、毎日、洗って、腐(くさ)らないようにして、ミイラにする方法をとる風習を守る人々もいたと伝えられています。この方法は、サハリン・アイヌにも見られる方法だそうです。サハリン・アイヌの中には、ミイラの遺体を日本の神社に似た小さな小屋に移し、葬るやり方を採っている人々もいたそうです。
縄文人が行っていた「子猪を育てて、秋に殺し、焼く儀式」は、猪が居ない北海道では、アイヌの人々が、春に冬眠していた熊の親子を捕らえ、子熊を村に持ち帰って、秋まで育て、育てた熊を殺して食べる、「熊祭り」に変わりました。最近まで行われていた「イオマンテ」の祭りです。縄文時代の儀式が、少し形態を変えて、最近まで、アイヌの習俗として残っていました。本州では、弥生時代以降、「猪の子を育てて、秋に殺して焼く」儀式は行われていません。農耕社会になって、稲を育てるようになった弥生時代以降の日本人は、野生の猪を育てて殺す習俗を、行わなくなったのです。特に、奈良時代になって仏教が日本社会に定着すると、動物を殺すことを忌(い)み嫌う風習が社会に広まり、野生の動物を殺して食べる習慣はほとんどなくなっていきました。ただ、マタギのような動物狩りをする人々の間では、かろうじて鹿、猪、熊、ウサギなどの狩りをして、獲物の肉を食べる習慣が残りました。
古墳時代になって、和人たちが鉄を作ることができるようになると、アイヌの人々は、物々交換による和人との交易によって、石器ではなく、鉄の刃物を得ることができるようになりました。また、本州でとれる米を得て、酒を造ることもできるようになりました。刃物は、動物の肉を切るための道具として使われるようになり、酒は、アイヌの神々を祀る行事で飲まれるようになりました。熊やラッコの毛皮は、和人にとって貴重なものとして、鉄や米、漆の器などと交換されるようになりました。さらに、平安時代になると、ワシの尾羽が弓矢の矢羽に使われるようになり、高価なものとして交易品になりました。中世になると、北海道の中部で金が採掘できるようになり、かなりの数の和人が日高地方に定住するようになったそうです。それでもアイヌの人々と和人たちは、別々に住み、混血することは、例外的だったようです。
アイヌの社会は、貨幣経済の導入を拒み、通常の交易を嫌いました。アイヌの人々と和人の交易は、アイヌの一部の人々と、和人の中でも松前藩の人々に認められた商人だけが、松前藩が認めた地域の中に住み、あたかも、互いに親戚であるかのような関係になって、物々交換を行う形式をとりました。千島のアイヌの中には、和人や北海道アイヌとの直接的な接触を嫌って、「沈黙交易」と言う方法で、互いに面会することなく、物々交換を行っていました。この方法は、一部のサハリン・アイヌも行っていたそうです。千島アイヌの人々は、伝染病に感染することを怖れていたため、この方法をとっていたと考えられています。異なる社会に属する人々との接触には、新しい伝染病に感染する危険が高いため、特に人口の少ない人間集団では、その集団の存続に危機を引き起こす可能性があります。アイヌの人々が、外部の人々との、交易のための接触さえも嫌っていた理由がここにあったと思われます。東北地方の蝦夷(えみし)の人々が、アイヌの人々から得た交易品を、和人が持ち込んだ鉄などとの交換することで、富を得ることができた理由が、そこにあったと考えられます。
アイヌの人々と和人との直接的な交流は、最近までほとんどありませんでした。とは言うものの、アイヌの人々が、数少ない和人との接触や交流から得た知識は、膨大なものであったと思われます。アイヌの有名な「コルポックル(小人)」伝説は、それをよく物語っています。当初、アイヌ固有の伝説と考えられていましたが、専門家の分析によって、この小人(こびと)伝説は、中国から日本へ伝えられた話が、北海道に移住した和人によってアイヌの人々に伝えられ、その小人の話に基づいてアイヌのユーカラ伝説が作られたものだと考えられています。このコルポックルを最初に記録したのは、1613年のイギリス人のセーリスによる日本渡航記です。セーリスは、日本の北に小人が住んでいると言う話があると記録しました。その後、1662年にエトロフ島に漂着した和人から役人が聞き取った話の中に、アイヌ人から聴いた話として、小人島の小人の話が記録されていました。この話から発展してコルポックル伝説ができたようです。その伝説の成立には、世界各地にある小人伝説が影響しているようです。
コルポックル伝説の他に、和人との深い交流を物語る伝説として、板倉源次郎が1739年に出版した「北海随筆」に収録されている話があります。それは、国土創造神のオキクルミが、アイヌの大王の娘と結婚し、その大王の宝物であった「トラの巻物」を盗んで逃げたとする話しです。アイヌが文字を持たない理由は、この巻物をオキクルミが盗み取ったからだとされています。このオキクルミが、岩手の衣川の戦いで、鎌倉幕府軍に敗れた源義経(みなもとのよしつね)だとされています。この話は、中世の日本の説話を集めた御伽草子(おとぎぞうし)に収められている「御曹司島渡(おんぞうししまわたり)」の話しが基になっています。この御曹司島渡の話しと、コルポックル伝説には似た部分があり、それは南北海道の日本海側にある小砂子(ちいさご)の名前の由来が記されている「蝦夷談筆記」(1710年)に見られます。それは小人伝説に関するものです。それは、昔、土器を作るための土を、千島の小人島から密かに盗みに来た小人達がいたことを伝えています。小人達は集団で手をつないで行動していたとされ、他の集団の人々には姿を見せなかったとされています。
世界的に見ると、小人に関する記述は、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスが、アフリカのビグミー族に関する記述を『動物誌』に残したことを、プリニウスが『博物誌』に紹介しています。さらに、ホメロスが叙事詩イリアッドで、小人伝説を書きました。この話に触発されたイギリスの小説家、スイフトは、「ガリバー旅行記」の中に、小人国「リリパッド」の話しを書きました。また、アメリカの小説家、ヴァン・ダイクは、「リップ・ヴァン・ウィンクル」で、ウィンクルが山の小人達と暮らした日々について書きました。これは、日本の浦島太郎のおとぎ話に似ています。そのようなことから考えると、小人伝説は、アイヌ文化に特有のおとぎ話ではなく、世界中に見つけられる不思議な話しの一つと言うことになるでしょう。そして、そのアイヌの逸話の成立には、交流のあった和人社会から伝わった義経伝説なども影響を与えていたと考えられます。アイヌ文化が特異なものであるとする、明治から昭和にかけての日本の常識は、行き過ぎていたと言えるでしょう。
アイヌの人々は、古代から近代まで、縄文文化の影響を守ってきた人々と言えますが、彼らは、頑(かたく)なに新しい文明を拒否していたとは言えません。鉄や木綿の織物など、暮らしを良くするものは取り入れました。また、貨幣経済への移行は拒んだものの、物々交換のために便利な「金」を使うなどの取り組みは、少しずつ取り入れていました。それでも、伝染病の予防のために、外部の和人との自由な接触を制限するなど、和人との同化には消極的でした。このことが、明治以降の和人のアイヌの人々や文化に対する偏見を生み出した原因のようです。和人とは違う風俗や習慣をもったアイヌの人々を理解できなかった和人は、アイヌの人々が未開の人々であるに違いないと、勝手に思い込んだのです。それは、アメリカ大陸に進出したヨーロッパ人が、アメリカ原住民だったアメリカ・インディアンの人々を未開人と見なしたことに似ています。そして、それが原因で作られた様々な偏見は、今日でも修正されずに残っています。