縄文人と私達


遺伝子の分析から

公開: 2022年9月24日

更新: 2022年1月28日

あらまし

今から半世紀ほど前に、研究者達は、その遺伝子と名付けた物質が、たった4種類の核酸と呼ばれる物質(DNA)が長くつながってできた「帯」のようなものであることを突き止めました。4種類の核酸の組合せは、長い帯の複雑な模様のように見えます。この長い帯の部分部分に親から子への遺伝を伝える情報が書き込まれています。人間の場合、そのような核酸の帯の模様は、母親と父親から、半分ずつ受け継ぎます。受け継ぎ方はバラバラに半分ずつではなく、かたまりごとに、この部分は母親から、この部分は父親からとなります。ですから、肌の色は母親に似ていて、目の形や大きさは父親に似ていると言うように、部分別に、半分ずつ受け継ぎます。高等動物の場合、性格に関する特徴や、病気になり易い特徴なども、そのような核酸の帯の一部として遺伝します。

旧人と呼ばれているネアンデルタール人が持っていた遺伝的な特徴が、ヨーロッパの古い洞窟で見つかったネアンデルタール人の骨から得られた遺伝子の、核酸の帯の模様を分析して分かりました。そのような研究成果から、現代のヨーロッパ人やアジア人の場合、その遺伝を決めている帯の全体の2パーセンとから3パーセントが、ネアンデルタール人から受け継いだものだと分かっています。興味深いことは、縄文時代人の骨や歯から取り出した核酸の帯の模様を調べると、縄文時代人は、現代のヨーロッパ人よりも、ほんの少しだけ多く、ネアンデルタール人に近い特徴が残っていたようです。これは、縄文人が、ホモサピエンスと呼ばれる我々に近いヒトに進化して、あまり時間が経っていない時に、日本列島に到着していたと考えられている根拠です。

現代のアイヌの人々と縄文人を遺伝子の模様で分析すると、アイヌの人々は、現代の日本人よりも縄文人に近いのですが、詳しく調べると、アイヌの人々の中には、北方アジア系の人々の影響を受けている例も多いようです。それは、サハリンから移り住んできたサハリン・アイヌの人々と、北海道アイヌの人々との間に、混血があったことの証拠と言えます。それに比べると、和人と呼ばれた弥生人との混血は、少なかったようで、遺伝的な強い影響は発見されていません。古墳時代からアイヌの人々との交流が確認されている東北地方の「蝦夷(エミシ)」の人々とアイヌの人々との遺伝子違いを見ても、エミシとアイヌの人々の混血例は少なく、エミシは、遺伝的には「和人」であったようです。しかし、奈良時代のエミシの言葉は、大和地方の方言と全く異なっていて、ほとんど意思疎通ができなかったと記録されています。

遺伝子の分析から

動物は、親から子へと、生物学的な性質を引継(ひきつ)ぎます。つまり、人間の子供の場合、姿・形・声・肌の色などの特徴が親に似ています。この親の身体的特徴などが親から子へと伝わってゆくことを「遺伝(いでん)」と言います。親の背が高いと、子供の背も高くなるのが普通です。ただ、犬や猫や、サルや人間は、有性生殖と言って、男親(父)と女親(母)の遺伝子の組合せから子供の特徴が生まれます。それは、一人の親から子供が生まれるよりも、二人の親から子供が生まれる方が、その種類全体としては、病気が流行したときなど、生き残れる可能性が高くなるからだと考えられています。これは、母親と父親の両方から、身体的な特徴や病気に対する耐性を半分ずつ引き継ぐことができるからです。これによって、人間社会に好まない性質や病気の遺伝の影響を少なくしてゆくことができるからです。

オーストリアの生物学者であったメンデル(1822-1884)は、今から200年ぐらい前に、エンドウ豆を使って、親のエンドウ豆の性質が、次の世代の子供の豆達に伝わってゆくことを発見しました。そして、直接、親から子に伝わっていなかった性質でも、その前の世代の、親の親から孫に伝わる性質もあることを発見しました。このメンデルの研究と同じ時代に、イギリスの生物学者であったダーウィン(1809-1882)は、船に乗って世界を旅をしたとき、ガラパゴス諸島の島々で、同じ種類の動物でも、島が違うと少し違った特徴を持っている動物がいることを発見しました。この特徴の違いを調べると、その性質がその動物にとって、その場所で生き易くなるように、変わっていることに気づきました。さらに、ダーウィンは、そのような生物の特徴の変化が、「なぜ起こるのか」を考え、数多くの動物の中に、多くの動物が持っている特徴とは異なる特徴をもった動物が、「たまたま」(偶然に)生まれるのではないかと考えました。

そのような新しい特徴をもって「たまたま」生まれた個体の特徴が、その動物たちが生きている環境で、他の個体達よりも「うまく」生きられる特徴である場合、その新しい特徴を持った個体は、周りの個体達よりも有利なため、数多くの子孫を残す可能性が高くなります。このように、「たまたま」新しい特徴をもった子供が生まれることを、「突然変異(とつぜんへんい)」と言います。そして、その突然変異で生まれた子供が、その生物たちが生きている環境でうまく生きることができるために多くの子供達を残すことを、「適者生存(てきしゃせいぞん)」と呼びました。しかし、「たまたま」新しい特徴を持って生まれた子供の全てが、うまく生きられるわけではありません。実際には、「適者生存」で生き延びることができる子供より、そうでないために子孫を残せない子供の方が多いのが現実です。つまり、生物を「種(しゅ)」の目から見ると、「適者生存」は、動物の種を「進化(しんか)」させる方法になっていると考えられます。この適者生存の原則で、動物の種を進化させる法則のことを、ダーウィンは、「自然淘汰(しぜんとうた)」と名付けました。

このダーウィンの突然変異と自然淘汰によって、生物は進化してきたとするダーウィンの「進化論」は、人間も、生物としての根源をたどれば、サルから進化した動物であるとの結論を導くため、特にキリスト教が中心の西洋社会では、なかなか受け入れられませんでした。キリスト教では、聖書に書かれているように、「神が世界(宇宙)を造(つく)った。」とされているからです。つまり、人間は、最初から人間でなければならないのです。今でも、アメリカ合衆国の一部の人々は、ダーウィンの進化論は聖書の教えに反しているとして、学校などで教えるべきではないと主張しています。とは言っても、化石を調べると、地球上の生物は、数十億年をかけて、宇宙から飛んできた簡単な「たんぱく質」から始まって、単細胞生物、そして多細胞生物に進化してきたことが分かります。さらに、多細胞生物がウイルスや菌、植物、そして動物へと進化してきました。人類は、100年ほど前から、その進化が起こる仕組みを研究しています。そして、その進化が、細胞の中にある「遺伝子」の変化で決まることを発見しました。

そして、今から半世紀ほど前に、その遺伝子と名付けた物質が、たった4種類の「核酸」と呼ばれる物質が長くつながってできた「帯」のようなものであることを突き止めました。4種類の核酸の組合せは、長い帯の複雑な模様のように見えます。この長い帯の部分部分に親から子への遺伝を伝える情報が記(しる)されています。人間の場合、そのような核酸の帯の模様は、母親と父親から、半分ずつの部分を受け継ぎます。受け継ぎ方はバラバラに半分ずつではなく、「かたまり」ごとに、この部分は母親から、この部分は父親からとなります。ですから、肌の色は母親に似ていて、目の形や色、大きさは父親に似ていると言うように、部分別に、半分ずつ受け継ぎます。高等動物の場合、性格に関する特徴や、病気になり易い体質なども、そのような親の核酸の帯の一部として遺伝します。現代のヨーロッパ人やアジア人の場合、ヒトの祖先であるネアンデルタール人の遺伝も引き継いでいる人々が少なくありません。そのような遺伝の中には、ネアンデルタール人が獲得していた、ある種の伝染病へのかかり難(にく)さの遺伝なども含まれています。

そのようなネアンデルタール人が持っていた遺伝的な特徴は、ヨーロッパの古い洞窟で見つかったネアンデルタール人の骨から取り出された遺伝子の、核酸の帯の模様を分析して分かったのです。そのような研究結果から、現代のヨーロッパ人やアジア人の場合、その遺伝の帯の長さの2パーセントから3パーセントが、ネアンデルタール人から受け継いだものだそうです。興味深いことは、縄文時代人の骨や歯から取り出した核酸の帯の模様を調べると、縄文時代人は、現代のヨーロッパ人よりも、ほんの少しだけ多く、ネアンデルタール人に近い特徴が残っていたようです。これは、縄文人が、ホモサピエンスと呼ばれる我々に近いヒトに進化して、あまり時間が経っていない時に、日本列島に到着していたと考えられている根拠です。縄文時代人に「そばかす」が多かったと言うことや、「ウィンクができた」と言う特徴なども、そのような遺伝子の分析から分かったことです。

現代のアイヌの人々と縄文人を遺伝子の分析で比較すると、アイヌの人々は、現代の日本人よりも縄文人に近いのですが、詳しく調べると、アイヌの人々の中には、北方アジア系の人々の遺伝子の影響も受けている例も多いようです。それは、サハリンから移り住んできたサハリン・アイヌの人々と、北海道アイヌの人々との間に、混血があったことの証拠と言えます。それに比べると、和人と呼ばれた弥生人とアイヌ人との混血は、少なかったようで、弥生人の遺伝的な影響は発見されていません。古墳時代からアイヌの人々との交流が確認されている東北地方の「蝦夷(エミシ)」の人々とアイヌの人々との遺伝子の違いを見ても、エミシとアイヌの人々の混血例は少なく、エミシは、遺伝的には「和人」であったようです。しかし、奈良時代のエミシの言葉は、大和地方の方言と全く違っていて、ほとんど意思疎通ができなかったと記録されています。エミシは、アイヌ語かアイヌ語に似た言葉を話していたのかも知れません。

弥生時代の人々と縄文時代の人々とを、遺伝子の分析結果から比較すると、弥生時代の人々は、縄文時代の人々よりもはるかに現代の日本人に近い遺伝的な特徴を持っています。弥生人は、現代日本人と同じように、朝鮮半島や中国大陸南部の人々と共通する遺伝的な特徴が見られます。このことは、弥生人は、縄文人と、朝鮮半島や中国大陸の南部から、日本列島に移り住んできた人々の子孫との混血で、縄文人からの遺伝よりも、朝鮮半島や中国大陸から来た人々の持っていた遺伝の影響を強く受けていたことになります。さらに、現代の日本人は、その弥生人の直系の子孫です。現代の日本人の中でも、東北地方や出雲地方に住んでいる人々は、関東地方や関西地方に住んでいる現代の日本人に比較すると、縄文人の血を色濃く残しているようです。また、現代のアイヌの人々は、現代の日本人よりも、縄文人に近いことも分かっています。

(つづく)