公開: 2022年9月18日
更新: 2024年1月28日
アイヌ文化の研究者である瀬川拓郎氏は、著書「アイヌと縄文」において、日本語の古語である縄文語とアイヌ語には強い関係があると主張しています。瀬川氏は、言語学者の木田章義(きだあきよし)氏が主張する、抱合語がこう着語から変化して生じる可能性は考えにくいとする説から、数万年前にアフリカ大陸を離れて北アジアに到達した人々が話していた言葉が、抱合語であったと考えるのが自然であるとしています。瀬川氏は、アイヌ語が縄文時代の人々が話していた言葉に近いであろうと主張しています。
抱合語であるアイヌ語には、日本語などのこう着語にある、名詞や動詞の直後に付く「〜が」や「〜する」のような助詞がありません。そのため、文の意味は、単語の語順だけで決まります。つまり、「AがBする。」や「AがBした。」と言う意味の文は、「A B。}となります。たとえば、「雨」は、アイヌ語では「ルヤンペ」であり、「降る」や「降った」は、アイヌ語では「ペイ」なので、日本語で「雨がふる。」や「雨が降った。」をアイヌ語では、「ルヤンペ・ルイ。」となります。これは、中国語の表現、「雨降」と同じです。
「雨が降る。」や「雨が降った。」の反対の意味を表現する時、アイヌ語では、動詞である「ルイ」の前に「ソモ」を付けて、「ソモ・ルイ」と表現します。「ルヤンペ・ソモ・ルイ。」は、「雨は降っていない。」や「雨は降らなかった。」を意味します。アイヌ語の抱合語としての特徴は、「私は阿寒へ行った(行く)。」のような意味を表現する時に、よりはっきりと出ます。それは、「私は行った(行く)」の表現が、代名詞(私)と動詞(行く)の対となって表現されるからです。それは、「ク=オマン」です。「アカン・オレン・ク=オマン」となります。「オレン」は、方向(〜へ)を示す単語です。
アイヌ文化の研究者である瀬川拓郎(せがわたくろう)氏は、著書「アイヌと縄文」において、日本語の古語である縄文語とアイヌ語には強い関係があるのではないかと主張しています。瀬川氏は、言語学者の木田章義(きだあきよし)氏が主張する「アイヌ語が属している抱合語が、日本語が属している「こう着語」から生じる可能性は考えにくい」とする主張から、古い時代にアフリカ大陸を離れて北アジアに到達した人々が話していた言葉は、抱合語であったと考えることが自然であるとしています。このことを根拠に、瀬川氏は、アイヌ語が縄文時代の人々が話していた言葉に近い言葉であろうと推論しています。
抱合語であるアイヌ語には、日本語のような「こう着語」の特徴である、名詞や動詞の直後に付く「〜が」や「〜する」のような助詞がありません。そのため、アイヌ語の文の意味は、基本的に単語の語順だけで決まります。つまり、「AがBする。」や「AがBした。」と言う意味の文は、「A B。」となります。たとえば、「雨」を意味する言葉は、アイヌ語では「ルヤンペ」であり、「降る」や「降った」を意味する言葉は、アイヌ語では「ペイ」なので、日本語で「雨がふる。」や「雨が降った。」をアイヌ語で表現すると、「ルヤンペ・ペイ。」となります。この場合、中国語の表現、「雨降」と同じです。中国語でも、「降った」(過去)と「降る」(現在)の区別はありません。中国語の場合、過去を表現するために「了」を付して、「雨降了」と書くこともできます。中国語は、孤立語の部類に属しています。アイヌ語でも、状態が終わっていることを現わす表現として、文末に「オケレ」を付ける方法があります。例えば、「ルヤンペ・ペイ・オケレ。」で、「雨は降り終わっている。」を意味します。
「雨が降る。」や「雨が降った。」の反対の意味(否定)を表現する時、アイヌ語では、述語である「ペイ」の前に「ソモ」を付けて、「ソモ・ペイ」と表現します。「ルヤンペ・ソモ・ペイ。」は、「雨は降っていない。」や「雨は降らなかった。」を意味します。対象を限定する「この」を意味するアイヌ語の「タアン」を、鹿を意味する「ユク」の前に置いて、「この鹿は、女鹿です。」をアイヌ語で表現すると、「タアン・ユク・アンク・メマンペ・ネ・ナ。」となります。ここで、「アンク」は、「AがBである」の「が」を意味する、主語の対象を限定する言葉に相当します。「メマンペ」は、「女鹿」を意味し、「ネ」は、「です」を意味する日本語の形容動詞に相当します。「ナ」は、断言を表現するための語尾です。この文の否定は、「タアン・ユク・アンク・メマンペ・ソモ・ネ・ナ。」となります。
これらの例文を見ると、アイヌ語は日本語に「似ている」ことが分かります。中国語であれば、「彼鹿是女鹿」となるので、「です」を意味するアイヌ語の「アンク」は、「メヤンペ(女鹿)」の前に来なければなりません。次に、アイヌ語が抱合語とされる典型的な表現について例を示します。「私が」や「私は」を意味するアイヌ語は、「ク」です。「行く」「行った」を意味するアイヌ語は、「オマン」です。「私は行く」を意味する文をアイヌ語で表現すると、「クオマン」となります。日本語では、「ワタシ・ハ・ユ・ク」の4語での表現ですが、アイヌ語では、主語と動詞が結びついた、「クオマン」の1語になります。「あなた」を意味するアイヌ語は、「エ」なので、「あなたが行く。」は「エオマン」の1語での表現になります。主語と動詞が結合して、1つの語になるのが、抱合語であるアイヌ語の特徴です。
アイヌ語は、日本語と異なり、「書き言葉」がありません。声で話される「話し言葉」だけの言葉です。アイヌ語では、日本語の「私は行く」のような意味を表現する「文」は、日本語の場合のように主語の「私は」と、動詞の「行く」のような2つの言葉(名詞と助詞、動詞と助詞)に分けて表現するのではなく、「クオマン」のような1語での表現になります。これは、フランス語の「リエゾン」を使った表現と似ています。英語でも、口語表現では、"I'll go."のような省略表現があります。しかし、アイヌ語を教える教科書では、書き言葉として「ク=オマン」と表記するやり方もあります。これは、「私が行く」を意味する「クオマン」や、「あなたが行く」を意味する「エオマン」のような表現の場合、「私が行く」と「あなたが行く」の二つの例に対して、「クオマン」「エオマン」の2語を憶える必要があります。つまり、「ク」と「エ」、そして「行く」を意味する「オマン」を3の要素に分割して憶えるのではなく、抱合語の「クオマン」と「エオマン」の2つの別の言葉として憶えます。しかし、「ク=」と「エ=」の代名詞と、「オマン」の「行く」を意味する動詞を分離して表記すれば、他の動詞と代名詞の場合にも応用できるようにできます。
アイヌ語の抱合語としての特徴は、「私は阿寒へ行った(行く)。」のような意味を表現する時に、よりはっきりと出ます。それは、「私は行った(行く)」の表現が、代名詞("私"」))と動詞("行った")の対となって表現されるからです。それは、「ク=オマン」ですから、「アカン・オレン・ク=オマン」となります。日本語の表現の仕方通りであれば、「ク・アカン・オレン・オマン」の語順になりそうですが、私を意味する「ク」と「行く」を意味する「オマン」を切り離すことができないので、「ク=オマン」が文の最後尾に来ます。ところで、「オレン」は、「場所」を意味する「オル」と、「方向」を意味する「ェン」が結合した、日本語の「〜へ」を意味する語で、「オレン」と発音されます。この場合も、フランス語のリエゾンと同じで、1つの語のように発音されます。この代名詞が主語として出てきたときに、動詞との対になって、主語と動詞が1語になるところが、アイヌ語の特徴です。
瀬川氏によれば、言語学者のヴォヴィンは、古代日本語の中にアイヌ語を語源と考えられる言葉が数多くあると主張しているそうです。例えば、関東地方の「武蔵(むさし)」や「足柄(あしがら)」は、日本語であると考えると、その意味が不明ですが、アイヌ語であると考えれば、「草の野原」や「清い場所」と解釈できるそうです。また、万葉集に収録されている東国歌や防人歌(さきもりうた)の中に、動詞の後に付く名詞で『とき』を意味する『しだ』が出てきます。アイヌ語には、似たような使い方ができる「ヒ」と言う名詞があり、「タ」を伴って「ヒタ」として使われます。このヒタは、発音では「ヒダ」となり、東国方言(とうごくなまり)では「シダ」となるそうです。さらに同じ言葉は、九州の肥前の国の風土記(ふどき)にある歌謡にも表れているようです。ヴォヴィンは、「古代の日本列島で広く話されていた日本語は、アイヌ語に近い言葉であった。」としているそうです。
ヴォヴィンは、アイヌ語に近い古代日本語と、弥生時代に朝鮮半島から渡来した渡来人が話していた「こう着語」の朝鮮語が混ざり合って、弥生時代に日本列島で話されていた「こう着語」の日本語に変化していったと考えています。日本人の遺伝情報が、弥生時代になって縄文人の遺伝子配列から、新しい弥生人の遺伝子配列に変化したと同時に、話されていた言葉も、アイヌ語に近い縄文語から、現代の日本語に近いこう着語の日本語に変わっていったものと考えられます。弥生人の遺伝子配列は、現代の日本人に近く、朝鮮半島の人々の遺伝子配列や、中国大陸北部の人々の遺伝子配列とも共通点があることが知られています。ところで、九州の肥前地方の島しょ部に住んでいた漁民は、中世までイレズミをして、抜歯をする習慣を維持していました。顔つきも、弥生人とは違って、縄文人のような顔つきだったことが知られています。アイヌの人々と似ていたのではないでしょうか。
また、現代の日本人の中でも、東北地方北部の人々や、出雲地方の人々の遺伝子配列は、縄文人の遺伝子配列に近く、関東や関西の現代人とは、少し違っていることも分かっています。さらに、方言を調べると、東北北部の人々の方言と、出雲地方の人々が話している方言に共通点が多いことも分かっています。東北地方に特有な方言が、縄文時代の日本人が話していた言葉に近いとすれば、東北地方や出雲地方の人々の遺伝子配列が、縄文人と近いことも含め、縄文人との関係を理解することができます。それは、東北の人々が、北海道地域の特産品を運んだ北前船に乗って、日本海側の港町を渡り歩き、その一部の人々が、山陰地方に移り住んだことの影響かも知れません。または、古墳時代に大和を中心とした王権と対立していた出雲の支配者が、大和との勢力争いに敗れたものの、人々は弥生化・ヤマト化することを嫌って、縄文語や縄文の文化を守ろうとしたのかも知れません。
東北地方には、大和の勢力が届いていなかったため、縄文語や縄文文化が残っていました。さらに、アイヌの人々が、北海道から東北北部にまで進出してきて、蝦夷(えみし)と呼ばれた東北の人々との物々交換による交易をしていたため、その影響もあって、縄文語や縄文文化の影響が色濃く残っていました。関東や東北地方に、アイヌ語の地名が今でも多く残っているのは、そのためだと言われています。その取り残された東北地方と、大和政権に負けた出雲地方に、縄文語や縄文文化の影響が、他の地方よりも色濃く残ったのは、偶然ではないでしょう。