公開: 2022年9月18日
更新: 2023年12月15日
縄文時代の人々は、数十人の家族や血縁関係の人々で作る集落に住み、植物の皮を細く切って作った糸で、布を織り、その布を袋のように仕立てて、衣服を作っていたようです。家は、地面を1メートルほど掘って、真ん中に2本の柱を立て、その柱を1本の梁(はり)でつなぎ、梁と地面の間に木の板を並べて、土を被せた屋根を作りました。「竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)」と呼ばれているものです。大きな村になると、10家族程度で、100人以上の村民が村の中に住んでいたようです。
縄文中期の大規模な村では、一度に何十人もの人々が入ることができる大規模な小屋が作られ、太い丸太を束ねた柱で作られた高い櫓(やぐら)も建てられていました。村人たちは、村の周囲に栗などの植物を植え、秋に収穫して、土器の甕(かめ)に蓄(たくわ)えていたようです。一部の村では、稲作(いなさく)も始められていたことが分かっています。縄文時代を通して、当時の日本人の多くは、主に本州の北部(東北地方)や北海道に、広く散らばって住んでいたと考えられています。
個々の集団の規模は小さくても、集団間での協力や物々交換は、活発に行われていたと考えられています。言葉だけを例にしても、当時の日本列島では、刃の鋭(するど)い石器を作るために必要な黒曜石(こくようせき)、装飾(そうしょく)品を作るための天然石であるヒスイ、祭りに必要な生きたイノシシなど、場所によっては入手が難しい材料や動物は、遠く離れた場所から物々交換(ぶつぶつこうかん)によって入手していたようです。このことは、当時の日本列島に住んでいた人々は、住んでいた地方は違っていても、必要なモノをお互いに融通(ゆうずう)できる程度の意志疎通(いしそつう)ができていたことを物語っています。
縄文時代とは、日本列島で、土で壷の形を作り、それを焼き固めて木の実などの食べものを入れられるようにした、縄文土器を作り、動物や魚の狩猟や、木の実や海藻(かいそう)などを採集して食べていた人々が、日本の各地に点々と住んでいた、1万年くらい続いた時代です。当時は、地球全体の温暖化で、北海道も温暖な気候でした。この人々は、かつて寒冷気候だった時に、陸続きだったアジア大陸から、北回りや南回りの経路で、凍った海を渡って来た人々の子孫です。石器も作り、使っていました。特に、土器は、初めは模様のない円錐形を逆さまにしたような簡単なものでしたが、直ぐに表面に植物の縄を押し付けたような模様を付けるようになり、さらに途中からは、壷の表面をヘラを使って、美しく彫刻したような模様をつけたような土器や土偶(どぐう)も作るようになりました。これは、今から1万3千年くらい前に始まった時代です。
縄文時代の人々は、数十人の家族や血縁(けつえん)関係の人々で作る集落に住み、植物の皮を細く切って作った糸で、布を織り、その布を袋のように仕立てて、衣服を作っていたようです。その様にして作った衣服を頭からかぶり、腰(こし)のところを紐(ひも)で縛(しば)って着ていました。家は、地面を1メートルほど掘って、真ん中に2本の柱を立て、その柱を1本の梁(はり)でつなぎ、梁と周囲の地面との間に木の板を並べて、その板の上に土を被(かぶ)せた屋根を作りました。地面を掘り下げることで、冬でも暖かさを保(たも)つことができたようです。屋根は、まだ、茅葺(かやぶき)ではありませんでした。「竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)」と呼ばれているものです。このような家族が暮らす家と、村の人々が集まれる大きな家を中心に、1つの村ができていました。大きな村になると、100人以上の人々が村の中に住んでいたようです。そのような大規模な村の中に、青森県北部で見つかった「三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)」があります。
縄文中期の大規模な村では、一度に何十人もの人々が入ることができる大規模な小屋が作られ、太い丸太を数本束ねた柱で作られた高い櫓(やぐら)も建てられていました。村人たちは、村の周囲に栗(くり)などの植物を植え、秋に収穫して、土器の甕(かめ)に蓄え(たくわえ)ていたようです。一部の村では、稲作(いなさく)も始められていたことも分かっています。その後、気候が寒冷化したため、北の地方では稲作はできなくなったと考えられています。縄文時代を通して、当時の日本人の多くは、主に本州の北部(東北地方)や北海道に、広く散らばって住んでいたと考えられています。狩猟採集(しゅりょうさいしゅう)に頼っていたため、一つの村に数多くの人々が住むと、その村の人々全員の食料を賄(まかな)うことが難しくなるため、集団全体の人口規模を小さくする必要があったと考えられています。これによって、寒冷化などの影響で食料の確保が難しくなり、日本人全体の人口が極端に少なることを防げるからです。
個々の集団の規模は小さくても、集団間での協力や物々交換は行われていたと考えられています。そのことは、異なる集団の間でも意思疎通(いしそつう)ができるくらいの共通の言語などの手段があったと考えられています。特に、言葉だけを例にしても、当時の日本列島では、石器を作るために必要な黒曜石(こくようせき)、装飾品を作るための天然石のヒスイ、祭りに必要な生きたイノシシなど、地域によっては入手が難しい材料や動物は、遠く離れた場所から物々交換(ぶつぶつこうかん)によって入手できるほど、互いに話ができていたようです。このことは、当時の日本列島に住んでいた人々は、住んでいた地方は違っていても、必要なモノをお互いに融通(ゆうずう)できる程度の意志疎通ができていたことを物語っています。特に、黒曜石やヒスイのような石材は、産地が限定されていました。その材料が、日本中の集団に渡っていたことは、縄文時代の人々のネットワークがいかに大きかったかを物語っています。
縄文時代の人々には、抜歯(ばっし)の習慣があり、子供から大人になる時、歯を抜く風習(ふうしゅう)があったと言われています。それは、遺跡から発掘された人々の頭蓋骨(ずがいこつ)に残された歯に、その痕跡(こんせき)が残っていたことから分かりました。また、中国の文献や土偶(どぐう)の顔に残された文様(もよう)から、成人の男性にも女性にも、顔にイレズミが施されていたことが分かっています。このイレズミの習慣は、縄文時代の後の弥生時代にも残っていましたが、時代と共に少しずつなくなり、九州の島々に残った漁民(ぎょみん)と、北海道のアイヌの人々を除いて、その風習はなくなりました。縄文時代のイレズミは、ある人がどの集団に属しているのかを示す目印とする役目もあったと言われています。また、本州で発見された縄文時代の遺跡では、数多くの焼かれたイノシシの骨が出土しています。イノシシは、若いイノシシで、捕まえられて、村で育てられて、祭りで殺され、焼かれたものと分析されています。そのような焼かれたイノシシの骨は、伊豆七島や北海道からも出土しています。
縄文時代の人々は、血縁(けつえん)の成人が死んだ場合、一定期間、喪(も)に服(ふく)する習慣がありました。この喪の期間は、結婚相手の男性が死んだ場合、その妻の女性であれば、3年程度の期間であったと考えられています。この喪の期間、遺体(いたい)はその家族が暮らしていた竪穴式の住居の中や入口に安置(あんち)されていたようです。この風習を「喪(も)がり」と呼びます。地方によっては、この遺体の安置期間が終わると、その住居を遺体と一緒に捨てる習慣もあったようです。また、地方によっては、遺体を家型の小屋に入れ、それを墓にする例もあったようです。このことは、住居跡を発掘したとき、人骨が出土する例があったことから、推理(すいり)されたものです。また、他方によっては、住居の中や小屋に安置(あんち)されていた遺体を、一定期間の後、焼いて墓に葬(ほうむ)るやり方をしていた場所もあったようです。これも、遺跡の中から掘り出された人骨に、焼かれた跡があるかどうかで分かります。
縄文時代の物々交換とは、どのようなものだったのでしょう。ある集落で作られる道具や、ある集落で獲(と)れる食物、ある集落でしか取れない材料から作られる飾り物など、他の村の人々の手に渡り、さらにそこから別の村の人々の手に渡ることで、モノの流通(りゅうつう)が行われました。しかし、「お金」のない時代、どのようにして、それが為(な)されたのでしょう。現代の研究者達は、次のように考えています。縄文時代の人々にとって、ある人が得たモノは、その人がよく知る血縁関係の人には、「ただ」で「あげる」ことができます。しかし、それを貰(もら)った人は、そのお礼に何か、同じくらいの価値のものを、もらった人にあげなければなりません。この贈物(おくりもの)と返礼(へんれい)の習慣にならって、近親者(きんしんしゃ)ではない他の集団の人とも、贈物と返礼の儀式(ぎしき)をならった行為(こうい)を行うことができます。この近親者ではない人との贈物・返礼の儀式を真似た行為が、物々交換だと考えられています。このようなことから、物々交換は、神聖(しんせい)な場所で行われていたようです。
似たような物々交換は、江戸時代まで、和人(わじん)とアイヌの人々との間で行われていました。アイヌ人の中の特別な人々が、アイヌが得たラッコの毛皮、ヒグマの毛皮、オオワシの尾羽などを、チャシと呼ばれていた特別な場所に運び込み、和人の商人と会い、アイヌの人々には貴重だった鉄製品、漆器(しっき)、米、塩などと交換しました。アイヌのチャシはお城のように、村からは離れた場所にあり、村の人々の墓や、動物の解体(かいたい)場所にも使われていたようです。アイヌの人々は、全ての和人をチャシに招いたわけではなく、限られた人々だけを、決まった時だけ、招き入れてたようです。これは、アイヌの人々が、和人との交流を限定しようとしていたことの現れでもあります。江戸時代にアイヌの人々との交易(こうえき)を行っていた松前藩(まつまえはん)では、限られたアイヌの人々を領地内に住まわせ、和人と交流させていましたが、その特別な場所から外に出てアイヌと交流できる和人は、限定されていたようです。これは、縄文時代からの物々交換の風習を踏襲(とうしゅう)したものと思われています。