縄文人と私達


おわりに: 私達と縄文人

公開: 2022年10月7日

更新: 2024年1月29日

あらまし

江戸時代に、幕府の大老であった田沼意次は、北海道の資源に注目し、アイヌの人々を支配し、幕府による北海道の支配権を強めれば、幕府の財政立て直しができると考えていたようです。薩摩と長州の討幕軍がその幕府を倒し、明治新政府を設立して以降、明治政府は田沼意次の計画を参考にして、北海道開拓と支配を進めようと考えました。当時の日本政府の知識水準は、現代の我々の目から見ると、とても幼稚な水準で、坂上田村麻呂の時代に、和人がエミシの人々を見ていたような認識の水準で、アイヌ人は我々、和人とは異なる人種に属する人々であり、サハリンのアイヌ人をルーツとし、独特なアイヌ語を話している人々であるとする認識でした。

日本では、弥生時代に大陸から稲作文化と鉄器文化が日本列島に導入され、稲作の生産性の高さに助けられて、弥生文化を推進していた和人の人口が急速に増加し、その人口増と鉄器を使った武器の力によって、弥生文化を推進していた大和の勢力が国内における政治的な権力を握り、大王による支配が始まりました。大王は、自分達の勢力圏を拡大するため、大和の地域だけでなく、東西に勢力を伸ばす戦略をとりました。その結果、西南は九州地域、東北は現在の福島から南部宮城の多賀城まで、支配地域を拡大しました。この支配地域の拡大は、朝廷・大和政権の税収を増やし、大和朝廷の支配力を増大させました。坂上田村麻呂とアテルイが戦ったエミシの反乱も、そのような朝廷勢力の拡大戦略の文脈の中で起こったと考えられます。

この日本社会の農業優先思想が、異文化に対する日本社会の許容性を低下させ、明治以降の政府と国民によるアイヌの人々への差別を生んだと言えます。縄文人は、農耕を知らず、「未開の人々で、劣った人々で、弥生人によって淘汰された人々である」と言う固定観念を生み出したと言えるでしょう。その延長線上に、明治以降のアイヌの人々に対する誤った対応がありました。最近になって、ネアンデルタール人の遺伝が、ホモサピエンスの私達にも残されていることや、縄文人の遺伝が、現代日本人の私達の中にも残っていることが、分かってきました。人類の知識の拡大とともに、肌の色の差、住んでいる地域の差、話す言葉の違いによって、他の人々を差別するのではなく、対象の人々との違いを理解する姿勢が大切であることを理解し始めています。

私達と縄文人

人類は、今から4万年ぐらい前、氷河期が終りに近づいた頃、大陸から陸続きだった現在の日本列島へ、マンモスなどの大型動物を追って、凍った海を越えて日本列島へ渡って来たようです。縄文人は、その後、そのまま留まった、その石器時代の人類の子孫達です。そして、その縄文人は、現代の日本に住む私達の、遠い祖先でもあります。しかし、その見た目(容姿)は、現代の私達とは、かなり違っています。それは、ネアンデルタール人とホモサピエンスほどの違いではないにしても、骨格も背の高さも、顔かたちも、かなり違っていて、現代の日本の町で、私達が縄文人と出会ったとしても、日本人だとは思わないでしょう。もちろん、話す言葉も、全く違っていたでしょう。似たような服装をしていても、「外国人」としか思えないでしょう。外見では、縄文人が、現代日本人の祖先であるとは思えないほど、違っていたはずです。

それは、平安京(現在の京都)から東北の仙台の近くの多賀城へ来て、最初にエミシの人々に出会った時の坂上田村麻呂の驚きと同じでしょう。容姿が違っていて、まるで北海道のアイヌのような姿で、持っていた武器もアイヌの武器のようなもので、エミシの独特な言葉を話し、京から下って来た坂上田村麻呂らには、全く理解できない言葉を話していたからです。とても同じ大和の国の民だとは信じられなかったでしょう。そのため、進んだ朝鮮半島からの渡来人の子孫であった坂上田村麻呂の目から見れば、エミシの人々は、古代に生きていた未開の人々のように見えたはずです。そのような未開の人々と戦っていた坂上田村麻呂にとって、しっかりとした武器をもち、組織的な戦いを行うことができる朝廷の征夷軍が、エミシ軍との戦いに「手こずる」はずはないと考えても不思議ではありません。

坂上田村麻呂は、田村麻呂の父親が、征夷大使として数十年前にエミシ軍と戦っており、エミシ軍が手ごわい相手であることを聞いていたはずです。ですから、他の征夷に向かった将軍達とは違って、エミシ軍の戦力をある程度正確に知っていたはずです。朝廷軍は、エミシ軍の数倍以上の戦力を持っていましたが、坂上田村麻呂は、用心深く戦いを準備し、その戦いを慎重に進めました。田村麻呂は、戦いを繰り返すことで、エミシ軍を率いたアテルイが有能な指揮官であることを理解しました。アテルイ軍との戦いでは、数倍の軍勢をもってしても、勝つことが簡単ではないことを理解しました。田村麻呂は、アテルイとの戦いを、和解によって停戦に結びつけることを考え、アテルイと秘密裏の交渉を続けました。そして、アテルイを説得して、「朝廷軍勝利」の形式をとって、その戦を終わらせることに合意しました。これは、田村麻呂が戦いの敵であるアテルイの能力を理解し、両軍にとって停戦が双方に利益のある解決策であることについて、アテルイ対してに時間をかけて説得したからでしょう。

江戸時代に、江戸幕府の大老であった田沼意次(たぬまおくつぐ)は、北海道の資源に注目し、アイヌの人々を支配し、幕府による北海道の支配権を強めれば、幕府財政の立て直しができると考えていたようです。薩摩と長州の討幕軍が幕府を倒し、明治新政府を設立して以降、明治政府はこの田沼意次の計画を参考にして、北海道開拓と支配を進めようと考えました。当時の日本政府の北海道やアイヌの人々に関する知識水準は、現代の我々の目から見ると、とても幼稚な水準で、坂上田村麻呂の時代に、和人がエミシの人々を見ていたような程度の認識水準でした。それは、アイヌ人は我々、和人とは異なる人種に属する人々であり、サハリンのアイヌ人をルーツとし、独特なアイヌ語を話している人々であるとする程度の理解でした。アイヌ人は、農耕を知らず、狩猟採集を中心とした古い文化を守っていると考えていました。アイヌの人々が、イレズミをしていたことも、和人による偏見を助長しました。研究者達も、政府や民衆のこれらの偏見を是正するのではなく、偏見を正当化するような理論を作り上げました。

日本では、弥生時代に大陸から稲作文化と鉄器文化が日本列島に導入され、稲作の生産性の高さに助けられて、弥生文化を推進していた和人の人口が急速に増加し、その人口増と、鉄器を使った武器の改善によって、弥生文化を推進していた大和の勢力が国内における政治的な権力を握り、大王(おおきみ)による支配が始まりました。大王は、自分達の勢力圏を拡大するため、大和の地域だけでなく、東西にその勢力を拡大する戦略をとりました。その結果、西南は九州地域、東北は現在の福島・南部宮城の多賀城まで、その支配地域を拡大しました。この支配地域の拡大は、朝廷・大和政権の税収を増やし、大和朝廷の支配力を増大させました。坂上田村麻呂とアテルイが戦ったエミシの反乱も、そのような朝廷勢力の拡大戦略の背景の下で起こった事件であったと考えられます。また、光仁天皇は、無知からエミシ軍の戦力を過小評価していました。その結果、我が国の歴史上に稀な、30年以上の期間に渡る戦乱が始まりました。

この日本社会の、弥生時代以来の農業優先思想が、異文化に対する日本社会と人々の異文化・異民族に対する許容度を低下させ、明治以降の政府と国民によるアイヌの人々への偏見を生んだと言えます。縄文人は、農耕を知らず、「未開の、劣った人々で、弥生人によって淘汰された人々である」とする正しくない固定観念を植え付けたと言えるでしょう。その延長線上に、明治以降のアイヌの人々に対する誤った対応がありました。最近になって、ネアンデルタール人の遺伝が、ホモサピエンスの私達にも残されていることや、縄文人の遺伝が、現代日本人の私達の中にも残っていることが、分かってきました。人類の知識の拡大とともに、肌の色の差、住んでいる地域の差、話す言葉の違いによって、他の人々を差別するのではなく、対象の人々との違いを、正しく理解する姿勢を持つことができるようになっています。教育現場でも、そのような姿勢を育てるような教師の姿勢を推進する傾向が出始めています。私達は、縄文人の血も引いていますが、少しずつ新しい知識を得て、一歩一歩、着実に進化しているはずです。

縄文人の見た目が、弥生人に比較すると、南太平洋の未開の人々に似ていて、その縄文人が現代のアイヌの人々に似ていることから、南太平洋の未開の人々に似ているはずの「アイヌの人々の知的水準が、弥生人の直接の子孫である現代日本人より低いはずである」と言う論理は、成り立ちません。私たちは、自分が生まれ、育った環境から様々な知識を学び、その知識から大きな影響を受けて生きています。その知識が常に正しいとは言えません。そのような「正しくない知識」が、しばしば「偏見のもと」になります。私たちは、そのような偏見に注意して、物事を考えなければなりません。このことは、縄文人にも現代日本人にも、共通に言える、普遍的な真実です。

(おわり)