縄文人と私達


再考: アテルイと坂上田村麻呂

公開: 2022年10月5日

更新: 2024年1月28日

あらまし

坂上田村麻呂は、エミシ軍との戦いにおいて、数の優位性を活かした武力対決だけでなく、エミシ軍を切り崩すための懐柔(かいじゅう)策を使い、戦いを有利に進める戦略をとりました。エミシ軍に対する懐柔策は、長期に渡る戦いで疲弊(ひへい)していたエミシ社会のいくつかの部族に、エミシ軍からの離反を勧めるなどして、一定の成果を達成しました。それでも、アテルイが率いたエミシ軍の抵抗は激しく、征夷軍が決定的な勝利を得ることはできませんでした。

光仁天皇とその子の桓武天皇が、なぜ、これほどエミシの制圧に固執したのかについては、いくつかの説がりますが、明確ではありません。光仁天皇もその後を継いだ桓武天皇も、その血統に劣等感を抱いていて、国土の拡張によって、自分達の権威を高めようとする意図があったためではないかと言われています。また、朝廷の領土を拡大することで、税収を増やすことができると考えたとする説もあります。桓武天皇は、当時、平安京への遷都と新しい都の建設に多額の出費を必要としていたことが関係していたと考えられています。

光仁天皇が最初に征夷を命じた時、天皇は、東北に大軍を送れば、エミシの人々はすぐに天皇の統治を受け入れるだろうと考えていたのでしょう。兵の数だけを比較しても、征夷軍は3倍以上の兵力を投入していました。エミシ軍には地の利があったはずですが、2倍以上の兵力に対抗することは難しかったはずです。そのためもあって、天皇は戦況が好転しないことに強い不満を抱いていました。将軍が、戦費の増大を懸念して、征夷の中止を進言しても、桓武天皇はその進言を聴かずに、戦いの継続を命じました。

桓武天皇が、征夷の戦いに勝利することに執着していることをよく理解していた坂上田村麻呂は、朝廷軍が勝利したと言う形式がとれなければ、停戦はあり得ないと考えていました。その朝廷軍勝利の形式を成り立たせるためには、敵将のアテルイを捕らえ、平安京へ連れ帰らなければなりません。アテルイを京につれて行けば、民衆も天皇も、アテルイの死刑を要求するでしよう。このため、アテルイとの停戦交渉で、坂上田村麻呂が最も苦心したことが、アテルイの処分でした。アテルイも田村麻呂も、エミシ軍が負けを認めれば、天皇がアテルイの死刑に処すことは分かっていたでしょう。

それでも二人の将軍は、朝廷軍の勝利を認めると言う結論で一致しました。二人は、これ以上の損害・死者を出すことは、無意味だと考えたからでしょう。

再考: アテルイと坂上田村麻呂

光仁(こうにん)天皇から天皇の位を継いだ桓武(かんむ)天皇は、光仁天皇のエミシ制圧の遺志(いし)を引き継ぎ、エミシの族長であるアテルイ(大墓公阿弖流為(たもきみ・あてるい))が率いたエミシ軍を攻めるために、渡来系の将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)にエミシ制圧(征夷(せいい)と呼びます)を命じました。坂上田村麻呂が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の位に就き、宮城県の仙台近くにあった多賀城(たがじょう)に向かい、エミシ軍と対峙(たいじ)するまで、20年以上も続いた戦いで、征夷軍は数の少ないエミシ軍との戦いに苦戦をしてきていました。

坂上田村麻呂は、エミシ軍との戦いにおいて、数の優位性を活かした武力対決だけでなく、エミシ軍を切り崩すための懐柔(かいじゅう)策を使い、戦いを有利に進める戦略をとりました。エミシ軍に対する懐柔策は、長期に渡る戦いで疲弊(ひへい)していたエミシ社会のいくつかの部族に、エミシ軍からの離反を勧めるなどして、一定の成果を達成しました。それでも、アテルイが率いたエミシ軍の抵抗は激しく、征夷軍が決定的な勝利を得ることはできませんでした。坂上田村麻呂は、水面下でアテルイと停戦交渉を進めていたと考えられています。それは、朝廷の征夷軍とエミシ軍の衝突が始まった時点では、アテルイは両軍の軍事的な衝突に消極的だったことが関係していると考えられています。

光仁天皇とその子の桓武天皇が、なぜ、これほどエミシの制圧に固執したのかについては、いくつかの説がありますが、明確ではありません。光仁天皇もその後を継いだ桓武天皇も、自分達の血統に劣等感を抱いていて、国土の拡張によって、自分達の権威を高めようとする意図があったためではないかと言われています。実際には、征夷軍がこの戦いに投じた戦費と、この戦いで受けた損害を考えると、この戦いで朝廷側が得た利益は極めて小さかったと言えます。また、朝廷の領土を拡大することで、税収を増やすことができると考えたとする説もありますが、実際には、税収を増やすことはできませんでした。桓武天皇は、当時、平安京への遷都と新しい都の建設に多額の出費を必要としていたことも関係していたと考えられています。しかし、エミシの人々が住む地域は、寒冷で、稲作に不適だったため、実際には税収の増加はなかったようです。

光仁天皇が最初に征夷を命じた時、天皇は、東北に大軍を送れば、エミシの人々はすぐに天皇の統治を受け入れるだろうと考えていたのでしょう。征夷軍の兵の数だけを比較しても、3倍以上の兵力を投入していました。エミシ軍には地の利があったはずですが、2倍以上の兵力に対抗することは難しかったはずです。そのためもあって、天皇は戦況が好転しないことに強い不満を抱いていました。送り込んだ将軍達の戦術的な失敗や、将軍達の不慮の死、指揮下にあったエミシ軍の反乱など、事前には想定できなかった出来事も数多くありましたが、何よりも数の少ないエミシ軍との戦いに勝利することができなかったことが、天皇にとっては不満だったのでしょう。将軍が、戦費の増大を懸念して、征夷の中止を進言しても、桓武天皇はその進言を聴かずに、戦いの継続を命じました。その時点で、桓武天皇は、このエミシの人々との戦いが、簡単には勝てない戦争であることには気づいていたはずです。それでも、桓武天皇は、戦争の継続を命じました。

桓武天皇が、征夷の戦いに勝利することに執着していることをよく理解していた坂上田村麻呂は、朝廷軍が勝利したと言う形式が成り立たない場合の停戦はあり得ないと考えていたようです。その朝廷軍勝利の形式を成り立たせるためには、敵将のアテルイを捕らえ、平安京へ連れ帰らなければなりません。アテルイを京につれて行けば、民衆も天皇も、アテルイの殺害を要求することは明白でした。このため、アテルイとの停戦交渉で、坂上田村麻呂が最も苦心したことが、アテルイの処遇でした。アテルイも、自分が征夷軍を敗退させた将軍であるため、天皇が斬首(ざんしゅ)を命じるだろうことは理解できたでしょう。坂上田村麻呂は、アテルイに対して、「一旦は京に連れ帰るが、その後は東北に帰すことを天皇に進言する」ことを約束しました。実際に、坂上田村麻呂は、天皇や他の貴族達に対して、「アテルイを釈放し、東北に帰す」べきであると主張したことが、記録に残っています。それでも、天皇はアテルイの斬首を命じました。

この桓武天皇の決定は、坂上田村麻呂が率いた征夷軍が、アテルイが率いたエミシ軍を破り、征夷の戦いに勝利したことを国内の人々に示すためには、「政治的に必要な儀式」であったと言えるでしょう。そのため、坂上田村麻呂も、それ以上の強い主張はできなかったのでしょう。桓武天皇も、自分が朝鮮半島からの渡来人の母を持つと言う劣等感をもち、坂上田村麻呂も同じ朝鮮半島系の渡来人の血を引いていることから、貴族達の面前で、桓武天皇に強くアテルイの釈放を主張することはできなかったのでしょう。そのこと自体、アテルイも事前に予想していたことだったのでしょう。アテルイは、自分の命を投げ出しても、征夷軍とエミシ軍との間の、無意味な戦いを終わらせなければならないと考えていたのでしょう。

平安時代初期のエミシの反乱に対する征夷の戦いも、江戸時代初期の松前藩のシャクシャイン戦争も、明治から平成にかけての日本政府のアイヌの人々とその文化・言語に関する政策も、根底には、和人のエミシやアイヌの人々に対する優越意識や、差別意識があったと言えます。それは、農耕を主たる産業とする人々が多数を占める社会が、農耕以外の活動を生業とする少数者の社会に対して、その少数社会の人々を「自分たちとは違う人々」として差別する、人間が自然に抱く排他的な感情を、自然で妥当な感情として、社会的な習慣や制度にしてしまう性質を持つことを表しています。それは、現代の世界では、是正されなければならない、「悪しき慣習」なのですが、是正は簡単ではありません。優生思想に基づき、人類の祖先に近い、肌の黒い人々を見て、その人々が「我々よりも劣った人々である」と考えることは、自分達と異なる人々を差別する態度に基づく「人間の性(さが)」ですが、それは誤ったものであり、現代の世界では受け入れられるものではありません。

(つづく)