公開: 2022年9月14日
更新: 2023年12月31日
1990年代の末のある年、山陰地方で開催された、ある中央省庁が支援した地域振興の委員会で、数十名の地域代表委員が参加していた、定例の会議が実施されました。その会議は、島根県最西端の町にある施設で開催されました。この委員会が開かれた後、夕方から同じ施設内で、ささやかな懇親会(こんしんかい)が開かれました。その懇親会の席上、私は、その市町村で市会議員をしている参加者の一人から、自己紹介とあいさつを受けました。その人の名刺を受け取って、私は驚きました。その人の名前(姓)は、私と同じ「大場」でした。
私は、島根県に私と同じ「おおば」の姓を名乗る人が少なくないことは既に知っていました。ただ、その姓の漢字表記は、「大庭」が普通です。私が当時住んでいた都市の中にも、戦前に島根県から移住してきた材木屋さんで、私と同じ姓の「大場」を名乗っている人がいました。しかし、それは決して普通の例ではありませんでした。
お互いの自己紹介の後、私たちは「大場」の名前の起源について話し合いました。私達の推理はこうでした。江戸時代から北海道で獲(と)れた昆布や毛皮などの特産品を運ぶ船、北前船(きたまえぶね)が、北海道の函館から山形県の酒田、石川県の金沢、などを経由して、島根県の松江や浜田を通って、山口県の下関を経て、瀬戸内海の尾道などを回って、大阪の堺へ向かっていました。この北前船に乗って、東北の秋田・山形や新潟の大場姓を名乗った人々の一部が、西日本に渡って来ても不思議ではありません。
このことがきっかけになって、私は日本海側の東北地方と出雲地方の関係について、強い興味を持ちました。その後、日本語の方言について学んでいた時、出雲の方言と東北の方言に、共通な特徴が残っていることも知りました。
あの頃、私は中国地方の中心的な都市にある大学の教員をしていました。その都市には、国の各省の出先機関である地方局が置かれています。私が大学の教員であったことで、私は、そのような国の出先機関に設置されている各種専門委員会の一部の委員長も務めていました。そのような地方の委員会の一つに、島根県の西部地域で高速インターネットを整備し、その情報通信網を利用した新しい使い方を実験するために、関係する各地域から13の地方公共団体の代表者達が参加する委員会がありました。
その委員会は、1990年代末のある年の5月に始まり、翌年の3月まで、ほぼ毎月、数十名の地域代表委員が参加して実施されました。この委員会が終盤になり、島根県最西端の町にある施設で「まとめ」の委員会が開催されました。この最終回の委員会が開かれた後、夕方から同じ施設内で、ささやかな懇親会が開かれました。この懇親会の席上、私は、その地方都市で市会議員をしている参加者の一人から、自己紹介とあいさつを受けました。その人の名刺を受け取って、私はびっくりしました。その人の名刺にあったその人の姓が、私と同じ「大場」だったからです。
私は、島根県に私と同じ「おおば」の姓を名乗る人が少なくないことを、以前から知っていました。ただ、その漢字表記は、「大庭」が普通です。その委員会の事務局を担当していた、ある省の地方局の職員の中にも課長を担当していた「大庭さん」がいました。私が当時住んでいた都市の中にも、数十年前に島根県から移住してきた材木屋さんで、私と同じ「大場」の姓を名乗っている人はいました。しかし、それは決して普通の例ではありませんでした。ですから、「私も大場といいます。」との自己紹介を受けた時、私は少し驚きました。
自己紹介の後、私たちは「大場」の姓の起源について話し合いました。私の推理はこうでした。江戸時代から北海道で獲れた海産物や毛皮などの特産品を運ぶ船、北前船(きたまえぶね)が、北海道の函館から山形県の酒田、石川県の金沢、などを経由して、島根県の松江や浜田を経由し、山口県の下関から瀬戸内海へ入り、尾道などを経て、大阪の堺へ向いました。この北前船に乗って、北部日本に多かった、新潟や山形の大場姓を名乗った人々の一部が、北日本から西日本に渡って来て、定住しても不思議ではありません。私の祖父は、戊辰戦争に敗れ、明治の初期に山形の米沢から東京に出てきた人の子供でした。、
このことがきっかけになって、私は東北と出雲地方の関係について、深い興味を持ちました。その後、日本語の方言について学んでいた時、出雲の方言と東北の方言に、共通な特徴が残っていることを知りました。さらに最近、遺伝子分析の研究が進んで、現代の出雲地方の人々と、東北の人々のDNA配列(遺伝子の組合せ)に、共通する部分があることを知りました。つまり、言語的にも遺伝子的にも、出雲の人々と一部の東北の人々との間には、よく似た特徴が残っていると言えるのです。さらに言えば、遺伝的な特徴については、アイヌの人々と共通する点もあり、その傾向は、古代の縄文人にも共通するものだそうです。
これらの近年の研究で分かってきた事実に基づくと、出雲や東北の人々は、60年前までは日本人とは人種的に違うと言われていたアイヌの人々に、遺伝的に近く、さらにアイヌの人々は、縄文時代に日本列島に暮らしていた縄文人に近い人々であることも分かってきました。それでは、現代の関西や関東に住む、多くの現代日本人は、遺伝的にはどのような人々に近いのでしょうか。結論から言えば、現代社会の日本人は、朝鮮半島に住んでいる人々や、中国大陸の南部に住んでいる人々の特徴と共通した特徴を持っていることも分かっています。
このことは、縄文時代が終わって、弥生時代になって、中国大陸や朝鮮半島から日本列島に移ってきた人々の子孫が、もともと日本列島に暮らしていた縄文人の子孫と混血した結果、両方の血を受け継いだ人々が増えたことが原因です。それは、中国大陸や朝鮮半島から来た人々が、稲作や鉄を持ち込み、稲の生産量を大幅に増大したことにより、その子孫が爆発的に増えたことが原因です。縄文時代の人々は、稲以外の農作物の耕作はしていたようですが、稲作のような栄養価の高い作物を大量に作ることはできませんでした。そのため、縄文人の人口はそれほど増えませんでした。
弥生時代が終わって、古墳時代、奈良時代になり、西日本に、現在の日本の天皇家の祖先である大和の大王(やまとのおおきみ)が生まれ、強大な権力が誕生しました。これも農耕によって、食物生産能力が拡大したため、人口の大きなグループが誕生し、数多くの小さなグループを支配するようになったからです。しかし、日本の東北や南の九州・沖縄では、稲作をしない人々が残りました。これらの人々は、縄文時代の生き方を続けていたと考えられています。奈良時代から平安時代に変わった頃、大和朝廷は東北地方で縄文時代とかわらない生き方をしていた「エミシ」と呼ばれていた人々を攻めて、征服しようとしました。
東北のエミシは、北海道や東北の北部にいたアイヌの人々と、物々交換で得た、熊の毛皮や、ワシの尾羽、昆布やアワビなどの北海道の特産物などを大和政権の人々に売って、豊かな暮らしをしていた、アイヌの言葉も話すことができた人々です。遺伝的には「和人」と呼ばれる弥生人の子孫のようですが、アイヌの血を引いていた人々もいたようです。この人々は、農耕をせず、アイヌとの物々交換で得た特産物を、東北南部の現代の仙台地域にまで運び、「和人」に売ることを生業(なりわい)としていました。大和朝廷は、このエミシを支配しようとして、有能な渡来人系(とらいじんけい)の将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を送り、関東の兵を集めて戦わせました。