公開: 2022年5月9日
更新: 2022年6月6日
100年戦争は、14世紀末までヨーロッパ大陸を支配していた神聖ローマ帝国の流れをくむ、フランスのカペー朝が、シャルル4世の死で、継承者がなくなったことが原因でした。フランス王の王位は、その従弟のフィリップが継承することになりましたが、イングランド王であったエドワード3世は、その母がシャルル4世の妹であったことから、自分に王位継承権があると主張したのです。
このフランスの王位継承問題がきっかけとなり、その後、100年に渡って継続的に戦われるイングランド王とフランス王との間の「100年戦争」が、勃発しました。この戦争には、スコットランドの支配権や、現在のベルギー地方を中心とするフランドル地方の支配権など、両国の利権に関わる問題も関係していました。
10世紀末のユーグ・カペーの国王即位で始まったフランスのカペー朝は、1328年にシャルル4世が死ぬと、男子の継承者がなく、その従弟のフィリップが即位することになりました。このフィリップのフランス国王への即位に対して、当時、イングランド王であったエドワード3世は、自分の母がシャルル4世の妹であったことから、自分のフランス国王への「王位継承権」を主張しました。しかし、フランスの諸侯達が、それを認めなかったため、1329年に、エドワード3世は、仕方なくフランスの一地方のギュイエンヌ地方を治める貴族、ギュイエンヌ公として、フィリップ6世の王位継承を認め、その臣下となるこにしました。
このフランスの王位継承をめぐるフィリップ6世とエドワード3世の争い事は、その後、100年間に渡ってイギリスのイングランドとフランスの両国間で争われた有名な「百年戦争」の始まりとなりました。この当時、イングランドとフランスとの間には、このフランスの王位をめぐる争いの他にも、現在のベルギー周辺の都市を意味する「フランドル地域」の支配権をめぐる争い、イングランドの北側に接しているスコットランドの王位をめぐる争いなどがあり、互いに相反する利害をもつ立場にありました。
現代のベルギーやオランダの一部を含むフランドル地域は、11世紀頃から、イングランドで生産された羊毛から毛織物を生産し、紡績業で経済的に潤っていました。この関係から、この地域を支配する貴族のフランドル伯は、羊毛の主要な産地であったイングランドの王、エドワード3世と同盟を結んでいました。しかし、フランス王のフィリップ6世は、このフランドル地域の支配権をねらい、フランスによるフランドル地方の併合を強行しました。しかし、フランドル地方の各都市の市民達は、イングランド王の支援を後ろ盾として、フィリップ6世が命じたフランス国王の治世に反対し続けました。
また、イングランド王のエドワード3世は、隣国スコットランドの支配をねらって、1334年にスコットランドに攻め込んだため、当時のスコットランド王デービッド2世はフランスへ亡命しました。エドワード3世は、フランス国王のフィリップ6世に対して、スコツトランド王デービッド2世の引き渡しを求めましたが、フィップ6世は、スコットランドのデービッド2世を守って、それを拒否しました。
14世紀のイングランドとフランスの間には、以上のようないくつかの重要な問題がありました。フランス国王のフィリップ6世は、ローマ教皇に仲裁を頼もうしていましたが、失敗に終わりました。そのため、1337年、フィリップ6世は、エドワード3世に与えたギュイエンヌ公領などのフランス国内の領地の没収を宣言しました。これに対抗して、エドワード3世が、自らがフランス国王であると改めて主張したため、両国間に戦争が始まりました。