公開: 2022年5月7日
更新: 2022年6月3日
中世のヨーロッパでは、大陸では、神聖ローマ帝国が支配する世界が続いていました。イングランドがあるブリテン島では、最初、デンマーク王家の血を引いた王がイングランドを支配していました。しかし、11世紀頃になると、フランスのノルマンディー地方を支配していたバイキングの血を引いた貴族のギョームがイングランドを攻め、ノルマン系の王がイングランドを支配するようになりました。「ノルマン人の征服」です。
イングランドを支配したフランス系の王は、イングランドの社会に新しい風を吹き込み、社会の制度を大きく変えました。それによって、イングランドは、フランスと比較すると、より近代化された国家に変化しつつありました。このフランスのノルマンディー地方にも勢力をもったイングランド王と、フランスの国王は、フランス国王の座を争うことになりました。フランス国王とイングランド国王には、血のつながりがあったからです。それが、14世紀に始まった、「100年戦争」でした。
11世紀にフランス人の貴族が、現在のイギリスの一部であるイングランド王に即位するまで、イングランドは、ゲルマン系のデンマーク王家の子孫が支配していました。1066年に、バイキングの子孫であり、フランスのノルマンディーを支配していたギョーム2世は、フランス軍を率いて、イングランドのアングロ・サクソン王、ゴドウィンソンが率いていたイングランド軍を破り、フランスのノルマン人が決定的な勝利を得ました。その後、ギョームはイギリス王、ウィリアム1世となり、イングランドを支配することになりました。これを、歴史では「ノルマン人の征服」と呼んでいます。
イングランド以外のイギリスの地方では、ケルト系民族の子孫が多かったウェールズ、スコットランド、そしてアイルランドなどでは、11世紀の「ノルマン人の支配」は、ほとんど影響がありませんでした。元々、これらの地域では、ゲルマン系民族の血を引いた人々が少なかったからだと言われています。デーン人王朝の後、イングランドではアングロ・サクソン系の王、エドワードが、フランスのノルマンディー公国の支援を得て、イングランド王に即位しました。
イングランド王になったウィリアム1世は、この「ノルマン系の王朝」の確立によって、フランスのノルマンディー地域から多数の貴族を招き、イングランドを支配するようになりました。さらに言葉も、フランス語の影響や、ラテン語の影響を受けて、ゲルマン語の影響が強かった古語の英語から変化したと言われています。また、ウィリアム1世は、大陸の支配制度とは異なる制度を導入し、国王による統治の権力が強く、中央集権的で近代的な色彩の濃い、社会を作り上げたととも言われています。
10世紀から15世紀の中央ヨーロッパの政治情勢は、イギリス国王が、イングランドとウェールズ、さらにドーバー海峡を越えて、現在のフランス北部地域まで、支配することとなりました。これは、それまでイギリスを支配していたフランスのノルマンディー公国系の王家が、現在のフランスの北部地域も支配していたことによります。イギリスのノルマンディー系王家は、日本ではバイキングと呼ばれている人々の子孫でもあり、北ヨーロッパでは、ヨーロッパ大陸の海岸線やイギリスを攻め、その結果、イギリスのイングランドと、北フランスの海岸沿いの地域を支配していました。
この状況は、15世紀まで続き、フランス北部地域は、結果的にイングランド国王の支配下にありました。その頃、ヨーロッパ大陸では、近代的な王国的国家が確立する前段階にあり、各地域を治めている領主の力が強く、それらの領主たちの承認がなければ、国王は国王の座に就くことはできませんでした。そのような背景から、フランス国内の政治情勢は混乱しており、北部フランスは、有力な領主たちと、一部の地域を支配していたイングランド国王との同盟によって、フランス国王の力はその地域までは、行き届いていませんでした。
このため、14世紀から15世紀のフランスでは、イングランド国王を中心とする軍隊と、フランス国王を中心とした軍隊が、100年間に渡って戦争を繰り返す、「100年戦争」を戦っていました。当時、現在のフランス、ノルマンディー地方では、その名前が暗示している「北方(ノルマン)系の」人々や、それ以前にこの地域に定住していたケルト系の人々が話していた言葉の影響が残る言葉が話されていました。同じことは、イギリスにも当てはまっていたため、中央フランスや南フランスの人々とは、違った言葉、違った文化を守っていたと考えられます。
北フランスの農民の家に生まれた「アルクのジャンヌ(ジャンヌ・ダルク)」は、その「100年戦争」で、窮地に陥っていたフランス国王、シャルルを助けるために、少女でありながら鎧を身にまとい、剣をとつて、イギリス軍と、オルレアンで戦い、フランス軍を勝利に導きました。このことから、ジャンヌは、「オルレアンの少女」と呼ばれるようになりました。シャルルは、この戦いの勝利によって、フランス国王に認められました。このシャルルにローマ教会が王冠を授ける「戴冠式」には、ジャンヌだけでなく、農民であるジャンヌの父も招かれていたとの記録が残っています。
このことは、ジャンヌの功績がいかに大きなものであったかを物語っています。領主でもなく、貴族でも騎士でもない、ジャンヌの父が、領主達やローマ教会を代表する神父達だけが参列する儀式に参列したのですから、普通ではありえないことであったと言えます。それほど、国王やその側近達は、ジャンヌの功績を高く評価していた証です。ローマ教会の代表もその式に参列していたことは、後にジャンヌが「男装」の罪で「宗教裁判」にかけられた事実と、つじつまが合いません。