学校では教えない歴史


ジャンヌ・ダルクは、なぜ火あぶりにされたのか

公開: 2022年5月7日

更新: 2022年6月3日

あらまし

ここでは、ジャンヌが生きた時代の社会がどのような社会であったのか、について考えてみます。中世のヨーロッパは、身分制度がはっきりとしていた階級社会でした。戦場で戦う貴族と、ジャンヌが生まれた農民では、社会における役割が全く違っていました。にも拘らず、ジャンヌは、貴族のように鎧を着て、戦いに参加したのです。ジャンヌは、字も知らなかったと記録されています。、

この時代に、貴族と農民では、どのような知識の差があったのかについても、考える必要があります。ジャンヌが話したフランス語には、まだ、しっかりとした書き言葉はありませんでした。正式な記録は、カトリック教会で使われていたラテン語で書かれました。印刷技術も確立されていなかったので、キリスト教の聖書も、ラテン語で書かれていて、普通の人々には、読むこともできませんでした。

中世ヨーロッパの世界

中世ヨーロッパの社会は、完全な階級社会で、国を治める「王様」、王様から土地を支配する権限を認められた各地の領主である「貴族」、貴族を守り、鎧をまとい、剣や槍をもち、馬に乗って戦う「騎士」、騎士の馬の世話や、騎士について戦場で戦う「従者」、領主から土地を借り、畑を耕し、そこで育てた作物の一部を「税」として、領主である貴族に治める「農民」、そして、その農民から畑を借り、作物を育てる「農奴」などに分けられていました。この身分は、親から子へと代々、受け継がれることになっていました。

貴族の中で、特に力のある貴族が、周囲の貴族から認められ、いくつかの領土(地方)からなる国を治める国の国王に推薦され、それをローマのカトリック教会が認め、王として選ばれた貴族に王冠を授けることで、国王が決まりました。ほとんどの貴族は、自分が治めている地方で、最も武力のあった人の子孫で、戦争に負けてその家族の人間がいなくなるまで、その地域の領主の地位に留まっていました。そのような貴族の中には、国王の子供や兄弟で、国王の地位に就けなかった人々も数多くいました。

中世のヨーロッパ社会では、王家に生まれることは、神からその国を治めることを認められた、「特別な人々」であると考えられていました。ローマのカトリック教会が、王として選ばれた人に王冠をかぶせるしきたりは、そのような考えに基づいていたようです。これを現代の我々は、「王権神授説」と呼んでいます。このような考え方に基づくと、国王の地位に就くべき人々は、王家の子孫でなければなりません。そして、国王になれるのは、男性だけでした。中世のヨーロッパでは、ラテン語を学ばなかった女性には、王になる資格がなかったと考えられていました。

中世後期のヨーロッパ社会には、11世紀頃から、各地に大学が生まれ始めていました。最初は、イタリアのボローニャや、フランスのパリ、イギリスのオクスフォードなどの都市が有名です。その後の100年で、ヨーロッパの各地で、30を超える都市に大学ができました。大学は、そこで学ぶ学生と、学生に学問を教える教員、それらの人々の生活を支える人々が作る都市で、領主や教会に支配されない自治を認められていました。学生たちは、学問を教えてもらうために、授業料を支払いました。教員は、いずれかの大学で学び、学位を与えられた人々で、ラテン語で講義をしました。

10世紀までのヨーロッパ社会では、知識の集積は、修道院を中心に行われていました。修道院の僧は、10歳前後で修道院に入り、ラテン語の読み書きや議論の仕方などを学び、一部の人々は、ラテン語の能力を使って、書物を書き写す仕事に就いていました。古代の歴史的な書物を、人類が中世から近代にうけ継ぐことができたのは、これらの修道院の僧侶による「書き写し」のおかげでした。その後、知識の集約の一部が、大学で行われるようになると、この「写本」の作業は、専門的な職業として行われるようになり、その分業制度を応用して、印刷業が生まれました。

中世ヨーロッパでは、各国には話し言葉としての言語は確立されていましたが、それを書くための書き言葉はありませんでした。物事を書き残すためには、キリスト教の教会で使われていたラテン語を使うしかありませんでした。中世後期に生まれたヨーロッパの大学では、この修道院の伝統を受け継いで、全ての知識は、ラテン語で教えられ、学ばれていました。物事をしっかりと説明するための論理学や、人間がどう考えるかを教える哲学などは、全てラテン語で教えられました。

中世の人々は、キリスト教の考え方を教える神学、数学や天文学、物の運動を理解する物理学などは全て、ラテン語で学びました。このため、大学で学ぶ学生たちは、自分がどの国に生まれ、何語を母国語としているかには関係なく、全てをラテン語で表現し、ラテン語で理解する力を必要としていました。このようなことから、世俗社会でも、中世のヨーロッパでは、約束事などをラテン語で書き残す習慣が成立しました。16世紀の日本で、戦国時代の人々がどのような生活をしていたのかが分かる理由の一つは、ポルトガルの宣教師達が、ラテン語で書き残した資料が残っていたからてす。

大学で学ぶためには、衣食住だけでなく、学費を支払わなければならないので、かなりの金額を支払わなければなりませんでした。そのため、大学で学べる人々は、かなり裕福な家庭の生まれでなければなりませんでした。貴族の子供たちが多かったのは、そのためでした。一部の裕福な商人の子供も大学で学んでいました。12世紀を過ぎると、イタリアの商人の間でも、契約書などの読み書きをしたり、ものの売り買いのための計算をする能力が重要であることが理解され、ラテン語や算術を学ぶ子供たちが増えてきました。

中世のヨーロッパに生きていた普通の人々にとっては、文字の読み書きはとても難しいものであり、レオナルド・ダビンチのような、貧しいとは言えない家の生まれの人々でも、ラテン語での読み書きはできなかったようです。そのため、中世の社会には、村や町に、ラテン語の読み書きができる人が居て、村や町の人々のために、手紙や契約書、遺言書などの読み書きをすることをすることを職業とする、日本の「公証人」や「司法書士」のような職業の人がいました。そのような人々が作成した文書の多くは、裁判や事件の記録などと一緒に、町や村の「公文書館」に保管されました。

(つづく)