公開: 2022年5月7日
更新: 2022年6月3日
14世紀のイングランドとフランスとの間で起こった100年戦争は、フランスの王位継承をめぐる争いで、神聖ローマ帝国の流れを組む王が死んだ後、フランス国王の血を引いた当時のイングランド国王が、フランスの王位継承者であることを主張したことが原因で始まりました。フランス国内でも、誰が王位を継ぐべきかについては、いくつかの案があり、各派の間での争い事が続いていました。
15世紀になって、劣勢に立たされていたフランス軍は、イングランドとの間で、イングランド国王とフランス国王の子供達を結婚させ、その子をフランスとイングランドの連合国の王にする約束をしました。しかし、イングランド王が幼かったことを理由に、フランスのシャルル7世は、自分がフランス国王の座に就くことを宣言しました。もちろん、イングランドは、それに反対して、イングランド軍はフランスに上陸し、フランス軍を攻めました。
フランス軍がいくつかの戦いに負け、窮地に立たされていた時、フランスの農民の娘、ジャンヌは、国王に対して、「自分をイングランド軍との戦いで指揮官に任命する」ことを提案しました。国王は、その提案を受け入れ、ジャンヌがオルレアンの戦いに参加することを許しました。ジャンヌは、その戦いで勇敢に戦い、フランス軍に勝利をもたらしました。その後も、ジャンヌは、フランス軍を率いて、戦いに勝ち続けました。
しかし、その後の戦いで、ジャンヌがフランス王の軍を率いて、国王に反対するブルターニュ公国の軍と戦っている時、ジャンヌは敵の矢に当たり、落馬し、敵の兵士に捕らえられ捕虜になりました。捕虜になったジャンヌは、イングランド軍に身柄を引き渡され、宗教裁判にかけられ、「男性の服装をした罪」で火あぶりの刑にされました。戦争で、女性とは言え、ジャンヌが男性の兵士のように鎧を着ることは、不思議ではありません。なぜ、ジャンヌは火あぶりの刑に処されたのでしょう。
皆さんが生まれ、育った日本の社会では、仮に『戦国時代の姫に、鎧を着て、太刀を手に、馬に乗って、敵の武士と戦った人がいても、そのこと自体を認めることができない、「許すこと」ができない』、と考える人は、ほとんどいないでしょう。しかし、カトリック教の教えが、現代でも根強く生き残っている西洋のキリスト教社会では、このようなことは、見過ごすことができません。なぜでしょうか。
キリスト教の教えを書いた聖書には、「人間には、男と女しかなく、男は男として振舞い、女は女として振舞わなければならない」と書かれています。これは、キリスト教を生み出したユダヤ教の教えの中にあったものです。ローマ時代の思想家アウグスティヌスが男性の女装や女性の男装を、「人間がしてはならない行い」としたことから、現代でもキリスト教社会では、それをタブーと考える人が多く、ジェンダー差別の原因にもなっています。
似たような問題に、男性の同性愛があります。江戸時代までの日本では、一部の男性僧侶が若い男性を相手に性の欲望を満たしたり、戦国時代の武将が、戦いの場に若い侍を連れて行き、性の欲望を満たしたりしたとする記録が残されているようです。これに対して、中世のヨーロッパでは、そのような行いは、「人間としてしてはならない行い」とされて、近代まで、そのような事実があっても、記録されることはありませんでした。九州に布教に来ていたキリスト教宣教師たちが、「日本の若い仏教僧たち(bonz(坊主))の中に、村の若者達を性の相手とする者がいて、非倫理的である」とローマ教会に報告していました。
ここで議論する中世フランスの農家の娘、アルクのジャンヌ(ジャンヌ・ダルク)、は、貴族ではないにもかかわらず、鎧をまとい、馬に乗り、剣をかざして、敵のイギリス軍兵士やイギリスの貴族と戦い、フランス軍の兵士や将軍を率いて、いくつかの戦いに勝利しました。しかし、この農民の娘は、イキリス軍に味方した北フランスの領主の裏切りなどもあって、イギリス軍に捕らえられてしまいました。
中世社会でも、戦争で捕らえられた兵士や将軍たちは、「戦争で捕らえられた人々」として裁判にかけられ、必要であれば罰せられました。多くの場合、それらの「捕らえられた人々」は、休戦の時の交渉で、元の国や軍隊に渡され、帰ってきました。しかし、ジャンヌは、当時としても特別な「宗教裁判」にかけられ、「異端(いたん)である」として、火あぶりの刑を言い渡され、町の広場で、火あぶりにされました。そのとき、ジャンヌは19歳だったと記録されています。なぜ、ジャンヌは、火あぶりになったのでしょうか。
ジャンヌが「異端」とされた理由は、彼女が「鎧を身にまとい」、男性の格好をしていたからでした。この宗教裁判には、ローマ教会から派遣された神父も加わっていました。つまり、ローマ教会も、正式に「ジャンヌがキリスト教の教えに反している」行いをしていたと、認めていたわけです。しかし、ローマ教会は、後の時代になって、この宗教裁判の判決が「誤りであった」ことを認め、「異端」とする判決を撤回して、ジャンヌを『聖女』の一人として認めました。
このジャンヌ・ダルクの事件は、600年間、ローマ教会だけでなく、多くのキリスト教徒にとって、明らかにされなければならない事件の一つとして、記憶されてきています。最近、医学の進歩もあり、この問題の解明が、ヨーロッパやアメリかの専門家によって進められ、新しい説が出されました。それは、LGBT研究の専門家である人々から提起された、「ジャンヌは、遺伝的には「男性」として生まれたが、「女性」として育てられた」人の一人であったとする説です。
中世の世界では、完全に禁じられていた、生まれた時の性別とは違う性別を言って、反対の性別の服装をまとい、反対の性別の人間として生きている人間は、神の教えに従わない、「悪魔の仲間」と見なされ、火あぶりに処されなければなりませんでした。ジャンヌは、少女でありながら、男性しか身にまとわない鎧をまとい、剣をもって、男性の兵士と戦いました。鎧をまとった敵の兵士は、鎧をまとって剣を振りかざすジャンヌが女性だとは思いません。戦っている相手が女性だと気づいた兵士や将軍は、自分達が「悪魔」と戦っていると思い、戦い続けることができなくなります。それほど、中世の人々にとって、悪魔は怖い存在だったのです。だからこそ、捕らえられたジャンヌは、「悪魔」として、火あぶりにされなければならなかったのです。