公開: 2019年7月11日
更新: 2024年10月10日
人間社会の規模が拡大するに従って、自分たちが必要とするものを、直接は知らない人々が作り出したもの(製品)として買うやり方が生まれました。最初は、直接、会った人たちが、互いに所有しているものを交換するだけでしたが、お金が生み出されたことで、モノと金銭が交換されるようになり、経済の効率は大きく進歩しました。そして、お金がお金を生み出す、利子の概念が誕生しました。
古代バビロニアの社会では、既に、物や土地を貸す場合、その「お礼」の量(りょう)が必要(ひつよう)以上に多くなるという問題が出始めていました。そうすると、土地を借りて作物を作っている人が、その土地の所有者に約束した「お礼」の量が多すぎて、大洪水(だいこうずい)などで、作物の収穫量(しゅうかくりょう)が思っていたよりも少なくなった時、約束した「お礼」を支払(しはら)うことができなくなります。また、そうでない場合でも、借りた人が渡した「お礼」の量が、最初に所有者に約束(やくそく)した「お礼」の量よりも少ないと所有者が主張(しゅちょう)する問題も出始めました。
古代バビロニアの社会では、約束(やくそく)した「お礼」の量と、受け取った「お礼」の量が違うという争(あらそ)いを解決(かいけつ)するため、土地や物を貸(か)す前に、何を約束したのかを粘土板(ねんどばん)に記録(きろく)する方法(ほうほう)が生み出されました。そして、そのような記録が残されている粘土板を、政府(せいふ)が特別な場所に保管(ほかん)する制度(せいど)もできました。これは、中世のヨーロッパにあった「公文書館(こうぶんしょかん)」の始まりです。争い事が起こった時は、両者がその公文書館へ行って、「何が約束されていたのか」を確認することができます。
このことは、現代の我々が、「契約(けいやく)」や「契約書(けいやくしょ)」と呼んでいるものの、最初の形です。「契約」は、「所有(しょゆう)」の概念(がいねん)と同様に、資本主義(しほんしゅぎ)の根幹(こんかん)をなす、大変重要な概念です。人間の祖先は、5千年以上も前から、このような社会を円滑(えんかつ)に営(いとな)むための決まりごとや、概念を作っていたのです。ただ、そのような概念や決まりごとは、我々が目で見たり、直接感じることができるものではありません。つまり、人間の祖先達が偶然(ぐうぜん)に生み出した言葉(ことば)の世界だけのことなのです。つまり、人間の祖先達が、言葉を使い始めたということは、それほど大きな変化だったと言えます。
このようにして人間は、血縁(けつえん)からなる人々の集団から初めて、複数の血縁集団(けつえんしゅうだん)をまとめた社会を作り出しました。さらに人間の祖先は、言葉を使うことを学び、言葉を使って、知識(ちしき)や情報(じょうほう)を共有(きょうゆう)することで、より大きな社会を作り出すことに成功しました。そして、人間の祖先達は、そのことによってネアンデルタール人にもできなかった、多くの人々からなる社会を作り、その中で人々が新しい知識を生み出し、道具や料理・狩りなどの仕方(しかた)などを少しずつ進歩(しんぽ)させ、進歩した道具ややり方で狩りを行うことで、より多くの人々が食べられるほどの食物を得られるようになり、女性は子育(こそだ)てに専念(せんねん)できるようになり、産(う)み育てられる子供の数も増えたため、急速に集団の大きさを大きくしてきました。
さらに人間の祖先達は、大きな社会の中で、自分の作ったものや所有する物と、他人が作ったものや所有する物を、直接(ちょくせつ)交換(こうかん)する方法を考え、行うようになりました。「物々交換(ぶつぶつこうかん)」です。この物々交換は、両者にとって必要性(ひつようせい)の高いものを直接交換できるという良いところはありますが、売り手側には「余(あま)っている」物でも、買い手側には今すぐに必要な物でなければ、交換は成立しません。そのような問題があることに気づいた人間の祖先は、買う側が売る側に渡(わた)す物の代(か)わりに、誰にも必要性が高い麦や米などを渡して、交換を行うようになりました。
ただし、米や麦は、量がかさばるので、買った物の対価(たいか)として支払(しはら)う方法としては問題があります。そこで、米や麦に代わるものとして、多くの人々が大切にしている金(きん)などの貴金属(ききんぞく)を使うことを考えました。つまり、買った人はその代金(だいきん)として一定の重さの「金」を売り手に手渡(てわた)すのです。売り手は、その「金」を受け取り、次の機会(きかい)に自分に必要な物が出てくると、その「金」を売り手に渡し、自分が必要な物を手に入れるのです。これは、今日の我々が言う、「貨幣経済(かへいけいざい)」の始まりです。最初は、金そのものの重さを測(はか)り、売り手に手渡(てわた)される「代金(だいきん)」として支払われました。
この方法は、大変便利なやり方でしたが、エジプトの人々は、金の重さ自身を支払額(しはらいがく)とするのではなく、その代わりに支配者(しはいしゃ)が「この金貨(きんか)はある量の金と同じ価値(かち)があるとする」と宣言(せんげん)した、金で作ったものではありますが、重さはその価値よりも少ない、「金貨(きんか)」を作りだしました。クレオパトラが自分の顔を彫(ほ)って作ったクレオパトラ金貨は、そのような公的(こうてき)に通用(つうよう)した貨幣(かへい)として歴史的に有名な物の一つです。金貨を流通(りゅうつう)させることで、実際には限(かぎ)られた量の金しかなくても、持っている量(りょう)以上の金貨(きんか)を作り、国内で流通させ、物や土地などの売買(ばいばい)の支払(しはら)いに使うことができます。これによって、その国の経済(けいざい)の効率(こうりつ)が高まるのです。
お金を使うようになって、人間の祖先達の間には、豊(ゆた)かな人々と、貧(まず)しい人々が生まれました。豊かな人々の数は、貧しい人々の数に比(くら)べると、非常に少ないのが普通です。豊かな人々は、自分達がその豊かさを失(うしな)わないように、自分達が集めた物やお金(貨幣)をうまく利用して、さらに多くの物やお金を集めようと考えるようになりました。そのために、一部の人々は、自分が集めたお金を、別(べつ)の人に貸(か)し、一定の期間が過ぎたら、貸した量のお金と、その貸したお金に対する「お礼」のお金を足して、貸した人に返すことを約束(やくそく)させるようになりました。これが、現在の我々が言う、「利子(りし)」です。