人間、道具、社会

公開: 2019年7月11日

更新: 2024年10月10日

あらまし

農耕によって食料の増産に成功した私たち人間の祖先は、より多い食料の生産を目指して、広大な平地を開発するとともに、農耕に必要な水を求めて、耕作地に水を引き込む技術を開発しました。これらの事業には、数多くの人々の力を必要とするため、人間の社会は、それまでよりも、より大きな集団を作ることが重要になりました。

4. 人間は何のために社会を作ったか 〜(2) 所有と資本の誕生: 経済の起源〜

麦や米など、人間の主食となる作物をうまく作るためには、肥沃(ひよく)な土地が必要になります。肥沃な土地は、平地で、水はけのよい土が望まれます。水を得るためには、近くに大きな川がなければなりません。大きな平地を流れる大きな川は、雨が多い時期にしばしば氾濫(はんらん)して、大洪水を起こします。ですから、人間の祖先達は、最初、低い土地よりも少し高い丘の上に住むことが普通でした。しかし、それでは農作業をするためには不便なので、人間の祖先は、高い丘から、低い平地に降りてきて住むようになりました。

雨が多い時期など、洪水(こうずい)で家などが流されるので、人間の祖先達は、川の両側を高い土手で囲い、自分達の住む場所は洪水の被害(ひがい)を受けにくくすることを考えました。川が流れているところから、少し離れたところに土を盛り上げて、堤(つつみ)をつくります。そのためには、数多くの人々が、長い時間をかけて、少しずつ堤防(ていぼう)を作ってゆかなければならないので、自分達の今の生活のためではなく、将来の生活を守るための仕事になります。

これは、田や畑に作物の種をまいたり、苗(なえ)を植えたりして、その年の収穫(しゅうかく)のために仕事をするのと似ていて、狩りのように、今、食べる食べ物を得ようとしているのではなく、将来に必要になる食べ物を得るために、働いていることになります。氾濫(はんらん)する川に堤防を作るのは、さらに遠い将来を考えて行う仕事になります。こうして、人間の祖先達は、少しずつ将来のことを考えて生活するようになりました。

このようにして、人々の力を、長い期間に渡って投入して作り上げた耕作地(こうさくち)や住居地(じゅうきょち)は、自分達の生活のために欠かせないものとなりました。そのため、移動しながら狩りをして生活していた頃とは違って、人間の祖先達は、少しずつ、長い期間に渡って同じ場所で生活するようになっていったようです。せっかく、川の両側に堤防(ていぼう)を作って、川の氾濫(はんらん)から被害(ひがい)を少なくするようにしたのですから、そこから簡単に、別の場所に移ることは損(そん)になるからです。そのようなことから、人間は、土地や、作物、自分達が作った家や家の中で使う道具などに対して、「自分の物」と考えるようになったようです。

狩りをして生活をしていた頃は、獲物を追って、人間の祖先達はさまざな土地に移動しながら、簡単な住まいを作り、生活をしていました。他の動物たちと同じように、そのような生活をしていた時には、自分が獲った獲物を「自分だけの食べ物」とは考えていなかったようです。自分が獲った獲物は、最初に自分が食べたでしょうが、残れば、それは他の人が食べても気にしなかったでしょう。チンパンジーやゴリラ、そしてライオン達と同じように、集団の仲間と獲物を分(わ)かち合っていたのです。

しかし、農耕(のうこう)を始めてから、人間の祖先達には、「自分の物」「自分達の土地」というような、「所有(しょゆう)」と言う概念(がいねん)が誕生(たんじょう)しました。そうすると、他の集団との間には、土地の利用について、「これは自分達の土地である」と言うそれぞれの言い分がぶつかり合い、「争い事(あらそとごと)」になる例が出始めました。大きな規模になると、それは大きな集団同士の戦争(せんそう)になります。また、個人の間でも、自分達が耕して作った畑については、「自分達の物」ということになり、他の人々がそこで、食物を作ろうとすれば、「自分達が所有する畑で、勝手に作物を作るな」と主張(しゅちょう)し、争(あらそ)いごとになる例も出てきました。

チグリス川とユーフラテス川の合流地点(ごうりゅうちてん)にできた平野に集まってきた人々が作った古代バビロニアでは、すでにそのような争い事があったため、その国を治(おさ)めた王の一人であったハムラビ王は、そのような争(あらそ)い事を治(おさ)めるための決まりごとを決めました。そして、争い事が起こると、その決まりごと(今で言えば「法律」)に基(もと)づいて、裁判(さいばん)を行い、その争い事を解決(かいけつ)しようとしました。

古代バビロニアの人々が、粘土板(ねんどばん)に書き残した記録によれば、この頃、すでに誰かが所有している物や土地を使って、所有者(しょゆうしゃ)ではない人が仕事をして、その成果(せいか)を得ている時、その時に使った物や土地の所有者が、それを利用した人から、その成果の一部を報酬(ほうしゅう)として受け取っていたことが記されています。これは、所有者ではない人が、所有者から何かを「借(か)り」、それを利用して何かを達成(たっせい)するという、同じ集団に属する人々の間で、「貸(か)し借(か)り」の関係(かんけい)が生まれていたことを示しています。

この貸(か)し借(か)りは、所有者(しょゆうしゃ)が所有していても活用(かつよう)できていない物や土地を、別の人に貸(か)して、その貸した土地を効果的(こうかてき)に利用して、成果(せいか)を得ることで、その集団の社会全体としては、そうしない場合よりもより豊(ゆた)かになることを理解していたと言えます。この時、借りていた物や土地の所有者には、得られた成果の一部が「お礼」として渡されます。例えば、耕作地でできた麦の一部を渡(わた)すなどです。そうすると、物や土地の所有者は、それを貸して得られる「お礼」の価値(かち)が大きい方の借り手に、物や土地を貸すようになります。これが、後に資本主義(しほんしゅぎ)と呼ばれる経済制度(けいざいせいど)の始まりになりました。

(つづく)