人間、道具、社会

公開: 2019年7月13日

更新: 2024年10月26日

あらまし

古代ローマ帝国が、当時の地中海世界全体に留まらず、北は現在の南部イギリス、北部フランス、南部ドイツからオーストリアに至るまで、帝国支配の範囲を広げました。それは、ローマ人たちが考え出した、新しい支配の道具(方法)があったからこそ、可能になったものです。それは、現代の数学者たちも、複雑な問題を証明するために使う、分割統治(ぶんかつとうち)と呼ばれている方法です。

9. 知と社会の発展 〜 (3)帝国を統治する方法 〜

アレキサンダー大王の失敗の歴史に学び、その後、地中海世界を統一して一大帝国を作り上げた古代ローマの人々は、征服した広大な土地に住む人々に対して、自分達の決まりごとを守って暮らすことを許す一方で、ローマ帝国の決まりを守るようにも命じました。そのローマ帝国の決まりである法律を守らせるため、ローマ帝国は、征服した各地方に軍隊を置き、住民たちがローマ帝国の法律を破った場合には、破った人を捕らえ、罰(ばつ)を与えました。人々が神の前に平等であることを説いたキリストは、その罪によってローマの兵士に捕らえられ、ユダヤの人々の手で、磔(はりつけ)にされ、殺されました。ローマ帝国が支配した地域では、ローマの役人は、その地域の住民に対して「何をしてはならないのか」の原則を明確に伝えていました。

地中海沿岸に広がった広大な地域に住む、多種多様な人々を、古代ローマの人々は、このようにして従わせ、帝国全体を一つの秩序でまとめ上げました。このため、ローマの兵隊は、地中海沿岸の各都市だけでなく、現在のイギリスや、南部ドイツまで行き、都市に城を築いて留(とど)まりました。その名残は、現代でも、イギリスのバースやロンドン、フランスのストラスブール、南ドイツのアウクスブルクなどの都市に遺跡が残されています。このように、各地域に軍の部隊を配置して、少ない数の兵士で、広大な地域を支配する方法をローマ帝国は作り出しました。それは、現代の数学でよく利用されている「分割統治(ぶんかつとうち)」と呼ばれる方法です。ローマ帝国はこの方法と、各支配地域の中心にある都市に、円形劇場を作り、水道工事をしたりしました。それによって、ローマ帝国に属していることの良い点を人々に知らしめたのです。そして、各地域で起きている事件や、地元民の反乱などについての情報を、暗号化して記録し、密かに主都のローマへ送る方法なども考えました。

その結果、古代ローマ帝国は、西側のローマを中心とした西ローマ帝国がほぼ千年の間、そして東側のビザンチン(コンスタンチノープル)を中心とした東ローマ帝国が2千年近くの期間、東地中海沿岸地域を支配しました。西ローマ帝国が滅亡した後でも、キリスト教のカトリック教会は、古代ローマ帝国の支配の方法を引き継ぎ、カトリック教で、実質的に西ヨーロッパの社会を千年以上支配し続けました。そのカトリック教会の方法は、大きな組織を運営する方法として、現代では、各国の軍隊や、世界中の巨大企業の組織運営に取り入れられています。

人間の祖先達は、一人ひとりでは力が弱い個々の人間でも、自然の中で他の動物と対等に戦い、生き抜けるように、一人ひとりの肉体的な力の弱さを補うため、道具を使うようになりました。最初は、身の回りにある木の枝や、地面に落ちていた石を使っていたでしょう。しかし、その後、さらに自分達の利用の目的に合わせて、道具を作るようになりました。槍(やり)や石斧(いしおの)などは、石の破片を木の枝に縛(しば)っただけのものですが、石の破片を手に握って動物にたたきつけるよりも、木の枝の先に括り付けることで、腕の長さに枝の長さを足した分、回転の中心である肩の関節からの距離が長くなるため、動物に与える衝撃を大きくできます。つまり、より強い力で、相手に打撃を与えられます。

このようにして、人間の祖先達は、自分達が行う様々な活動をやりやすくするように道具を進歩させました。集団の大きさが大きくなると、ある道具をより便利にする考えは、小さな集団の時よりも多くの人々が一つ一つのアイデアを出すため、短い時間で、道具を良くできることは、しばしばあります。ですから、集団の大きさが小さかったネアンデルタール人と比較すると、同じ期間に人間の祖先達が行った道具の改良は、ネアンデルタール人のそれとは比較にならないほどでした。このことによって、人間の祖先達は、ネアンデルタール人の集団に比べて、より多くの動物を捕らえ、よりたくさんの食物を得ることができました。

(つづく)