公開: 2019年7月13日
更新: 2024年10月26日
人間の作る集団の規模が大きくなるにつれ、私たちの祖先には、数多くの人々が、一つの社会としてまとまって生活するだけの食料の生産が必要になりました。そして、農業生産が始まりました。農業生産には、数多くの人々の労働力が必要です。そのため、人間社会には、身分制度が生まれ、人々の身分は、親から子へと引き継がれるようになりました。世襲制です。これらの制度が確立すると、人間社会には、古代文明が生まれ、巨大な帝国が生まれることになりました。そして、それらの巨大な帝国を修めるための、制度も整備されるようになりました。
今から数万年前ぐらいになると、私たちの祖先達が作る集団は、数千人から数万人の規模になるものも出てきました。そのような巨大な集団を維持するためには、それまでの人間のように、狩りで動物を取ってきたり、植物の根や木の実を集めて食物にするだけでは、食料が足らなくなります。人間は、草原にあった草の種から、次の世代の草を育て、それを収穫できることを知り、どのような草の種が、人間の食物としてより望ましいものであるかを調べ、その植物の種を、自分達が整えた土地にまいて、秋に収穫する、農耕の技術を作り上げました。特に、ヨーロッパから北アフリカ地域では小麦の栽培が始まり、少し遅れてインド南部から東の地域では、高温多湿の気候に合った米の栽培が始まりました。
麦を作るのにも、米を作るのにも、数多くの人間が、ほとんど同じ時期に、一斉に同じ作業に従事しなければなりません。そのような必要性から、人間の祖先達は、自分達の集団の中に、実際の農耕作業を行う数多くの人々の集団と、作業の開始を命じ、その進め方を決め、作業の終わりを告げる、少ない数の人々に、分けるようになりました。この人間社会で、人間達をその社会における役割で分けるやり方は、その後、身分制度として定着してゆきました。そして、親の身分がその子供にも引き継がれるような決まりが、ごく自然にできたようです。封建制度です。
この身分制度に関する決まりごとは、人間社会の規模が数万から数十万の規模になると、それぞれの身分ごとの決まりごとを、これも人間が作り出した言葉と文法で表し、それを書きものにして広く伝え、後世にも残すようになりました。これが古代文明の始まりと言えます。身分制度の頂点に立つ「王」は、人間の祖先達が考え出した「神」が決めたものであるとされました。そして、その王が、自分の家臣たちを選び、その家臣たちが普通の人々に命令を出すと言う、複雑な社会が出来上がりました。さらに、この王、家臣、普通の人々と言う身分とは別に、王の権威を守るために、宗教的な行事を取り仕切る「神官(しんかん)」や、天文学や建築や土木工事の専門家である「学者」などの、特別な身分も生まれました。一部の社会では、この神官や学者の身分も、世襲と言う、親子の関係で引き継がれる例もありました。
人間社会の決まりごとは、この特別な身分にあった神官や、法を専門的に考える学者達が、その役目として、必要になった新しい決めごとを、決めていたようです。例えば、ある王が、自分の次に誰が王の座を継ぐべきかを決める方法は、王が勝手に決められものではなく、その国に特有な決まりごとである法を定め、それに基づいて王が決定する必要がありました。その決まりごととしての法は、神官や学者によって案が作られ、王がその案を認めるという形で、その国の法(ほう)になりました。古代エジプトやバビロニアなどの社会では、そのようにして法律が作られ、王と王の家臣らによって、政治が行われるようになりました。
その後、ギリシャのアレキサンダー大王が、地中海世界から東に軍を進め、現在のインドにまで攻め進み、巨大な帝国を作りました。その帝国では、様々な人種や民族が一つの帝国の中で、暮らすことになりました。アレキサンダー大王は、そのような多くの種類の人々と、その人々がそれまでに作り上げた、それぞれの社会の決まりごとを、自分達のギリシャ的な決まりごとで置きかえさせることはしませんでした。アレキサンダー大王の国になっても、社会の決まりごとは、ほとんど今まで通りにしたわけです。このことは、それぞれの社会で暮らす普通の人々には良かったのですが、広大な地域に広がった帝国の政治を「取り仕切る」役人たちにとっては、全てのことを一つの決まりで行うことができないため、問題が数多く発生したはずです。そのため、アレキサンダー大王の帝国は、国王の死後、すぐに消滅しました。