人間、道具、社会

公開: 2019年7月12日

更新: 2024年10月15日

あらまし

古代バビロニアで生まれた数学は、古代ギリシャに伝わり、エウクレイデス(ユークリッドのギリシャ語表現)によって、幾何学(きかがく)としてまとめられました。この「原論」は、その後、イスラム世界に伝えられ、さらに進歩しました。また、イスラム世界では、バビロニアで生まれた代数学も研究され、進歩しました。このイスラムの数学が、西ヨーロッパに伝わり、大きく進歩しました。その進歩の一つに、「機械に計算を実行させる」と言う考えでした。日本でも、和算の研究者によって、数学の研究は為されましたが、「計算は、人間がするもの」と言う考えは、変わりませんでした。

7. 人間はどのように道具を進歩させてきたか 〜(7)数学から歯車式計算機械へ〜

数学的な考え方や知識も、キリスト教の東ローマ帝国から、イスラム教が支配するトルコ帝国に伝わり、イスラム風の数学が進歩しました。ギリシャ時代の数学の教科書だった、ユークリッドの幾何学(エウクレイデスの原論)は、アラビア語に翻訳され、研究が進められました。天文学も、数学を道具として使うので、トルコ帝国で進歩しました。後にコペルニクスが天動説を唱えますが、彼が参考にしたのは、コペルニクスがイタリアで学んでいた時に教えられた、イスラムの天文学が基になったと信じられています。彼の説明が、アラビア語の教科書の内容にそっくりだったからです。

これとは別に、西ヨーロッパの国々では、教会が付近の住民に時刻を知らせるために、塔の鐘を鳴らしていました。この鐘を鳴らす仕事を、人手ではなく機械にやらせることを考え、機械式時計が作られました。高い塔の屋根から吊り下げられた巨大な振り子と、大きなゼンマイを使った機械式時計です。この時計には、たくさんの歯車が組み合わされ、秒、分、時が計算されます。秒の歯車が1周すると、分の歯車が1つだけ進む仕掛けです。後に、金属加工の技術が進んでくると、教会の塔の時計は、家の中の柱時計になってゆきます。柱時計は置時計となり、置時計は懐中時計になりました。歯車はどんどん小さくなり、1つ1つの歯は人間の目には見えないほどの小さなものになりました。

この時計の仕掛けを利用して、音楽を聴けるようにしたのが、オルゴールです。16世紀になると様々なオルゴールが作られるようになり、17世紀末になるとオートマタと呼ばれた「自動人形」も作られるようになりました。オルゴールの音に合わせて、取り付けられた人形が踊る仕掛けです。今でも、ドイツ南部のミュンヘン市に行くと、その市庁舎前の広場に、時々、観光客が大勢集まります。時間が来ると、塔の鐘が時刻を告げ、その後、その鐘の下に作られている舞台で、2体の自動人形が馬に乗り、長い槍を持って戦いをします。最後には、1人の騎馬武者が槍で突かれ、試合が終わるという芝居です。これも、大型のオートマタの一つです。

16世紀になると、ヨーロッパの先進的な国々に、人間と同じように計算を自動的に行う機械を作ろうと考える哲学者・数学者が出てきました。17世紀のフランスで、哲学者パスカルは、計算をする「パスカリーヌ」と呼ばれた機械を作りました。これは、アンティキテラの機械と同じように歯車を組合わせて、足し算をさせるものでした。17世紀の末になると、ドイツの哲学者ライプニッツは、パスカルの計算機を改良した機械式歯車自動計算機を作りました。

18世紀に入り、産業革命がイギリスで始まりました。その産業革命中、18世紀後半のイギリスで、ケンブリッジ大学の数学の教授であったバッベージは、複雑な計算が必要だった問題について、与えられる数と答えの数を対応させる数表を間違いなく作るために、機械式の計算機を作ろうとしました。これは、後に「階差機関(かいさきかん)」と呼ばれる、比較的単純な機械でした。このあと、バッベージは、ビクトリア女王からの経済的な支援を受けて、「解析機関(かいせききかん)」と言う名の計算機械の開発に没頭しました。この新しい機械は、計算の手順を人間が考え、紡績機で使われていた硬いボール紙に穴をあけて機械の動きを決める、プログラムで動く機械で、計算の途中結果を記憶する記憶機械も持っていました。計算結果は、印刷機の原理を使って印刷するようになっていたそうです。

(つづく)