公開: 2019年7月11日
更新: 2024年10月11日
イギリスの政治哲学者、ベンサムが「最大多数の最大幸福」の原理として推奨した、多数決原理は、功利主義を実践する方法として、民主主義の社会では一般的な方法です。しかし、一般の人々が理解している「投票者の半分以上が支持する案」が多数が賛同する案、とする考えには、誤解が含まれています。そこには、全ての投票者が、「問題と、提案されている全ての解決案を完全に理解している」ことが前提とされています。この前提が満たされていなければ、半分以上の投票者が賛同する案も、多くが賛同する多数の案とは言えません。
今の人間が作る社会には「危うさ」が潜んでいます。その人間の歴史に学んで、人間社会は、できるだけ間違いを起こしにくい社会の建設を目指して、さまざまな人々が知恵を出し合ってきました。普通の国民よりも優秀な人の言葉に従うのではなく、国民一人一人が、自分で考え、社会をどう変えてゆくべきかの意見を述べあい、議論して、国民の総意で「進むべき道」を決める「民主主義」こそが、そのような間違いを起こしにくい社会を建設する方法であると信じ、戦争に負けたドイツや日本は、第2次世界大戦後「民主化」したのです。
しかし、民主化した社会を、正しく営み、発展させるためには、その社会の人々が、有能な政治家や官僚、軍人などの言葉に従って行動するのではなく、自分自身で問題を理解し、考え、他の人々と議論し、できるだけ正しい解決策を見つけようと模索しなければなりません。その問題が、自分には理解できないからと諦め、誰かその問題を理解していると思われる人の話を聴いて、その意見に賛同する、と言うよりはその人を信用して「任せる」と言う態度をとっていれば、折角の民主主義も正しく働かないでしょう。それは、まるで戦前のドイツや日本の国民がやったことと同じなのです。
自分で自分達の社会が直面している問題を考えるためには、その問題に関係した様々な事柄を学ばなければなりません。その努力をしたくないため、今の我々は、自分よりも能力があると考える人間に、「代わりに考えてもらう」と言う選択をする傾向があるのです。それは、本当は、国民が自分達の権利と責任を投げ出していることにほかなりません。それでは民主主義は成り立たないのです。現代の社会では、社会が直面している問題の解決について、政府は2つまたはそれ以上の数の解決案を示し、国民は「投票」によって自分達の意志または考えを示すのが普通です。この時、「多数決」によって「国民の総意」が決められます。
多数決と聞くと、「半分、または一定数以上の国民が賛成した案を採用する」と考えられますが、それは、国民一人一人がしっかりと問題を考え、人々が本当に「最善」と考える案を選択できる場合にのみ、正しく働く方法です。人間は、しばしば誤りを起こします。当然、投票を行うときも誤りを起こす人々がいるはずです。もし、100人の中に5人、間違って「最善」と考える案であるとは言えない方の選択へ投票する人が出れば、「半分以上の賛成票」での案の選択は、国民の選択自身が間違っているかもしれません。確率的に計算すると、その場合、投票の3分の2(厳密には2の平方根の逆数、つまり約1.414分の1)以上が賛成票でなければ、結論が誤っている可能性が出てきます。
結論を言えば、現在の「2分の1の多数決による民主主義」は、簡単に間違いを起こすかもしれない制度と言えます。このような制度は変える必要があるでしょう。また、「どちらが得か」や「どちらが国としてあるべき選択に近いか」のような選択では、「何をもって得と考えるのか」や「国としてあるべき姿とはどのようなものか」について、簡単には答えの出せない問題もあるでしょう。そのような問題では、「どちらの選択が正しいか」という問いに対する適確な答えはなくなります。それは、人間の好みによる選択に近いものだからです。そのような問題を、投票で決めることに意味はあるのでしょうか。