公開: 2019年7月11日
更新: 2024年10月11日
人間社会が拡大して大きくなると、複数の集団の間で利害が対立し、そま利害の対立を解決する方法が必要になります。動物の世界でも、同じことが起こります。ゴリラやチンパンジーの社会では、そのような場合、利害が対立する集団の間で、武力による抗争が、その解決策になります。人間の社会でも、最初同じような方法が採られるようになりました。
ある社会が、別の人間集団の社会と出会い、争(あらそ)いごとが生まれた場合、その争いを解決する必要がでます。二つの社会に共通した「法」があるとは限りません。つまり、社会の大きさが大きくなると、他の社会との対立を解決するのが、より難しくなります。そこで生まれたのが、「戦争」を争いごとの解決法にすると言う、野蛮(やばん)な考えでした。
1つの社会と、別の社会の間に生まれた対立を解消(かいしょう)する方法として、人類の祖先が生み出した方法が、「戦争(せんそう)」でした。「戦争」では、対立するそれぞれの社会で、普通以上の力を持った人々が「兵士(へいし)」となって、兵士の集まりである軍隊(ぐんたい)を作り、対立する相手社会である「敵(てき)」の軍隊と戦(たたか)います。初期の戦争では、木の枝や石で相手をたたき、傷つけたり、殺す方法が使われたようです。
このような「戦い」は、勝たなければ意味(いみ)がありません。人類の祖先が行った戦争では、負けた側の社会に属(ぞく)す人々は、皆殺(みなごろ)しになったり、勝った社会の奴隷(どれい)になったりしました。さらに、歴史が進むと、勝った社会が負けた社会を包(つつ)み込み、より大きな社会を作るようになりました。この時、負けた社会の人々は、勝った社会の人々の支配下(しはいか)で働く、奴隷になったり、勝った社会の一員として、働くようになりました。
このようにして、「国」や「国の集まり」が作られてゆきました。ギリシャ時代のアレキサンダー大王や、その後の古代ローマの時代のローマ帝国は、戦争に勝つと、負けた国の人々を治(おさ)める人を決め、その人の下で負けた国の人々(特に農民)が自由に活動することを許しましたが、その人々に「税(ぜい)」を収(おさ)めるようにさせました。また、兵士などの場合は、勝った国は、その人々を奴隷として、自分たちの国に連(つ)れ帰ったようです。
紀元前の時代の終わりごろから500年間に渡って栄(さか)え、地中海沿岸(ちちゅうかいえんがん)から、現在のドイツ南部、イギリス南部までを支配した古代ローマ帝国は、ローマの歩兵(ほへい)を中心にした大軍隊(だいぐんたい)を使い、地中海世界(ちちゅうかいせかい)に存在していた国々と次々に戦争し、相手を打ち負(ま)かして、ローマ帝国に組み入れてゆきました。その過程(かてい)で、北アフリカにあり、繁栄(はんえい)していた古代エジプトや、カルタゴを攻(せ)めて、滅(ほろ)ぼしてしまいました。
なぜ、ローマの軍隊はそれほど強かったのでしょう。それは、ローマ人達が考え出した「大きなもの」をたくさんの「小さなもの」の集まりと考え、命令が行き届く「小さなもの」の指揮(しき)を執(と)る、隊長(たいちょう)に有能な兵士を使う方法を考え出したからです。「小さなもの」は、ローマ軍で言えば、一つの歩兵隊で、十人から数十人の兵隊の集団(「部隊(ぶたい)」と呼びます)で、横に並んで相手に向かって進む集団です。
この歩兵の「部隊」をいくつかまとめて、それを指揮する隊長を決めます。その隊長は、部隊の隊長よりも、有能な人を使います。この部隊の集まりを「中隊(ちゅうたい)」と呼びます。さらにいくつかの中隊を一つにまとめて、「大隊(だいたい)」を作ります。このように「小さなもの」をいくつか集めて、「大きなもの」をつくることを繰り返せば、数の少ない有能な人々をうまく利用して、大きな軍隊全体を、うまく動かすことができます。
この方法は、ローマ軍だけでなく、古代ローマ帝国が支配した数多くの国や地方を治める方法としても使われました。この「賢く戦い」「賢く人々を治める」方法は、現代では、「分割統治(ぶんかつとうち)」と呼ばれています。特に、現代では、難しい数学などの問題を解決する方法としてよく利用されています。また、現代の大企業を経営する方法としても、よく使われる方法の一つです。
しかし、国と国がある問題で対立するとき、その対立を解決するために、武力を使って戦うことで、問題を解決すると言うのは、乱暴すぎる方法です。これは、小さな子供が、他の子供と、お互いに対立した立場にある時、その問題を議論によって解決するのではなく、暴力によって、力がより強い子が利益を得るようにすることと似ています。例えば、「おもちゃ」の取り合いです。そこには、人間の理性が全く働いていません。それで良いのでしょうか。