公開: 2019年7月11日
更新: 2024年10月10日
17世紀にイギリスで産業革命が起こると、特別に訓練を受けたわけではない数多くの労働者を集めて、分業によって製品を大量に生産する工場制の生産方式が生み出され、それまでは高価であった製品を、低価格で生産し、売ることができるようになりました。この新しい社会では、生産手段を所有し、労働者を雇う資本家が富を得るようになりました。そして、経済が発展したため、一般の市民の生活も、豊かになりました。
人間の祖先は、馬車が走れる道を作ったり、水道を引いたり、城や教会のような大きな建築物(けんちくぶつ)を作ったりすることができるようになりました。古代ローマ帝国の時代になると、巨大な競技場(きょうぎじょう)や遠くの水源池(すいげんち)から飲(の)み水のために、水を流す細い水路(すいろ)を作ることもできるようになりました。さらに、それから数百年が過ぎたころ、中世の修道院(しゅうどういん)では、古代ギリシャや古代ローマの人々が書き残した書物(しょもつ)を、修道士(しゅうどうし)達が手分(てわ)けして人手で書き写し、「写本(しゃほん)」と呼ばれる本のコピーを作れるようにもなっていました。15世紀に印刷機(いんさつき)が発明されて、人手で本を書き写す必要がなくなっても、何台かの印刷機を使って、1台の印刷機で同じページを何枚も印刷し、それを組合わせて本にする、「出版(しゅっぱん)」の準備ができていました。
このように難(むずか)しい仕事でも、それをたくさんの小さな部分に分けて、それぞれを別々の作業者(さぎょうしゃ)に任(まか)せることで、特別に教育され、訓練(くんれん)を重ねた人々(職人)がいなくても、しっかりと製品を完成させることができるようになったのでした。これは、今日、「分業(ぶんぎょう)」と呼ばれる仕事のやり方で、特に18世紀ごろから、様々な分野で行われるようになり、良い物を、それほど高額(こうがく)にしなくても作れるようになり、社会の多くの人々が、良い物を安く手に入れることができるようになりました。例えば、綿(めん)の布は、綿を紡(つむ)いで糸を作り、その糸を染(そ)めて、機織(はたおり)り機で少しずつ編(あ)み続け、衣服を作れるくらいの大きさの布になるくらいまで編んで、その布で衣服を作ることができます。
特に、古代の社会のように、これらの作業を、一人だけで、それも手作業(てさぎょう)でやると、一着の服を作るのに、数か月から1年という長い期間が必要になります。日本でも、かつて、綿の絣(かすり)の着物を作るためには、このような作業をしなければならず、1年ぐらいの時間がかかっていました。この一連の作業を、糸をつむぐ紡績(ぼうせき)機や、糸を編んで布を作る機織(はたお)り機、布を糸で縫って服にするミシンなどの機械を使えば、特に職人のような専門家がいなくても、別々の人がそれぞれの仕事を担当(たんとう)することで、極端(きょくたん)に言えば、1日程度の時間で、1着の服を作ることができます。かかる時間を減らすことができれば、作った物の値段(ねだん)は、それに比例(ひれい)して安くなります。その製品を買える人の数も多くなります。
分業によって、特定の仕事に特化(とっか)して、それを繰(く)り返していれば、特別な人がやらなくても、少しずつ作業の仕方(しかた)がうまくなってゆきます。これを「学習効果(がくしゅうこうか)」と言います。つまり、習(なら)いたてで、仕事を始めたばかりの頃は、1日の労働(ろうどう)で、成果(せいか)として作り出せる製品の数は少ないのですが、その仕事を何日も繰(く)り返していると、1日の労働で、成果として作り出せる製品の数や量は、少しずつ増(ふ)えてゆきます。このように、一定の量の製品を作り出すのに必要な仕事時間は、作業に従事している総時間が増加(ぞうか)するにつれて、「学習効果(がくしゅうこうか)」で少しずつ短くなることが知られています。
18世紀のイギリスで産業革命(さんぎょうかくめい)が起こると、蒸気(じょうき)エンジンを使った機械で、紡績(ぼうせき)機や機織(はたお)り機を動かすようになり、分業(ぶんぎょう)で仕事をするやり方が一般化したため、綿の布の価格は、どんどんと下がってゆきました。そして、誰でもが綿の布で作った服を買い、着ることができるようになりました。その典型(てんけい)が「Gパン」とか「デニム」と呼ばれている「デニム織のジーンズパンツ」です。厚い綿の布でできたデニム織の生地(きじ)は、摩擦(まさつ)にも強いため、作業着(さぎょうぎ)にピッタリのものでした。アメリカのゴールドラッシュ時代に、幌馬車(ほろばしゃ)の幌(ほろ)を作っていたデニムで、作業用のズボンを作ったのが、ジーンズパンツの始まりだそうです。