原子爆弾とは

公開: 2019年8月26日

更新: 2023年11月30日

あらまし
ここでは、アメリカ合衆国の政府と軍による広島への原子爆弾投下命令の決定が、どのようになされ、実施されたのかについての歴史をさかのぼります。ここでは、満州事変の後、中国大陸では中華民国(国民党政権)が満州以外の地域を支配し、満州は実質的に日本の支配下となりました。しかし、中国へのさらなる侵攻を進めたい日本軍(陸軍)は、中華民国軍との戦いを続け、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まると、ドイツと連携して、アメリカ合衆国、イギリスなどとの戦争を開始しました。ここでは、第2次世界大戦が始まるまでの期間に、中国大陸で続いた日本と中華民国との戦争について振り返ります。
アジア太平洋における日本の戦争(2) 〜日中戦争

1932年に、日本の支援で満州国(まんしゅうこく)が建国され、溥儀(ふぎ)がその皇帝の座に着きました。1933年に塘沽(たんくう)協定が結ばれ、万里の長城の南側に非武装地帯(ひぶそうちたい)が設けられ、その北側にある領域を日本軍が占拠し、満州国は事実上中華民国によって、その独立が黙認された状態になりました。中華民国を治めていた国民党(こくみんとう)は、共産党(きょうさんとう)との戦いを優先して、国内を統一した後に、「日本との戦いを行う」とする基本方針を固めました。日本政府も、柔軟路線(じゅうなんろせん)を採用して、排日運動(はいにちうんどう)も鎮静化(ちんせいか)の傾向にあり、日中両国は相互にそれぞれの公使館(こうしかん)を大使館(たいしかん)に格上(かくあ)げしました。

1935年、日本陸軍の関東軍は、天津日本租界事件(てんしんにほんそかいじけん)が起こると河北省(かほんしょう)からの国民党排除(こくみんとうはいじょ)を図って、中華民国と協定を締結し、河北省主席(かほくしょうしゅせき)の罷免(ひめん)を実現させました。中華民国政府は、和睦政策(わぼくせいさく)を基本として、排日行為を禁止しました。その後に起こった日本人拘禁事件(にほんじんこうきんじけん)で、関東軍は軍の一部を河北省に進め、駐留(ちゅうりゅう)させました。そして、現地の中国人を利用して、現地に独立政権を樹立(じゅりつ)させ、中華民国からの分離を図りました。中華民国政府は、この自治運動に対抗して政務委員会(せいむいいんかい)を設立し、自治独立運動を阻止(そし)しようとしました。このため、関東軍は防共自治政府(ぼうきょうじちせいふ)を成立させることになりました。

1935年末になると、中華民国では、日本軍が支援している自治政権反対の運動が始まったことをきっかけに、中国国内の国民党と共産党との間の戦いを一時的に停止して、対日本の戦いに勢力を集中すべきとする考えが広まりました。共産党軍も「抗日救国」(こうじつきゅうこく)をスローガンとして、統一戦線(とういつせんせん)を呼びかけました。周恩来(しゅうおんらい)は張学良(ちょうがくりょう)の説得に応じて、抗日(こうじつ)の姿勢を強めました。その後の共産党軍の侵攻(しんこう)に対抗するため、日本軍はその兵力を増強せざるを得なくなりました。日本政府は、中華民国政府に対して対日政策の変更を求めましたが、交渉は平行線をたどり、最後には決裂(けつれつ)してしまいました。その結果、1937年の初頭には国民党と共産党が合同で対日戦争(たいにちせんそう)を戦うことが決まりました。

1937年に発足した広田(ひろた)内閣は、中華民国に対する軍事的威嚇(ぐんじてきいかく)をやめ、平和交渉を重視する方針に転換することにしました。それでも関東軍は、中国に対して一撃(いちげき)を与えると言う方針は変えませんでした。中華民国は、イギリスに対して財政基盤(ざいせいきばん)の強化を目的に、資金供与(しきんきょうよ)を要請(ようせい)しました。これに応じて、イギリスは、日本にも資金の一部分担(いちぶぶんたん)を要請しました。この後、日本では林内閣が総辞職(そうじしょく)し、近衛内閣(このえないかく)が誕生しました。イギリスからの資金要請があったことを告げる電報は、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が発生する前日に政府へ届きました。

1937年7月、中国の北京近くに駐屯していた一部隊が、北京市街から10キロほど離れた場所で夜間訓練を行っていた時、二度の発砲を受けました。現地の司令官は、中国軍に対して抗議(こうぎ)をしましたが、次の日にも中国側からの発砲があり、日本軍が応戦(おうせん)して、部隊間の戦闘(せんとう)に拡大しました。その後、停戦(ていせん)が合意されて、一旦、鎮静化(ちんせいか)しましたが、再び出所不明(しゅっしょふめい)な銃撃(じゅうげき)があり、日本軍は、現地の日本人居留民(にほんじんきょりゅうみん)の保護を目的に駐留していましたが、相互に銃撃があった場所は、日本人居留民の保護のための軍事的な活動が認められない地域でした。そのため、日本軍は大規模な軍事行動をとることができない状態でした。

この日本軍と中国軍部隊との武力衝突(ぶりょくしょうとつ)に対して、蒋介石はすぐに軍隊の先行派遣、総勢力20万人の動員令(どういんれい)を発しました。1937年7月11日、関東軍と河北省を統治する中国軍との間で協定が結ばれ、盧溝橋事件での中国側の発砲責任者(はっぽうせきにんしゃ)の処罰、盧溝橋からの中国軍の撤退(てったい)、中国政府による排日運動(はいにちうんどう)の取り締まりを約束しました。この協定で、日本から中国への派兵は中止なりましたが、朝鮮半島からの軍隊の増強案は実施されました。近衛内閣は、戦争不拡大方針(せんそうふかくだいほうしん)を閣議決定(かくぎけってい)しましたが、現地軍による自衛権(じえいけん)の行使を可能とするために、朝鮮半島からの軍隊を増派したと弁明(べんめい)しました。このような背景から中華民国は、共産党と協力して対日戦争開戦への準備を始めることに合意しました。

その後、日本人の犠牲者(ぎせいしゃ)が出る事件が続き、事態は少しずつ悪化し続けました。蒋介石は、積極的な開戦は避けたいとしながらも、必要があれば徹底抗戦(てっていこうせん)すると宣言しました。7月20日、盧溝橋の日本軍に対する攻撃があり、双方の軍が交戦を行いました。この段階でも、蒋介石は開戦に慎重で、共産党からは、即時開戦の要請が出されました。7月23日に共産党が再び開戦を迫ったため、国民党軍事委員会は対日戦争突入を決定しました。

1937年7月24日、北京と天津(てんしん)をつなぐ通信線が切断され、その修理のために現地に行き、休憩していた日本兵を中国軍の部隊が襲撃(しゅうげき)しました。また、別の場所に駐留していた日本軍部隊も中国軍に包囲(ほうい)されました。この報告を受けた日本軍の司令官は中国軍の司令官に対して北京市内から中国兵を撤退(てったい)させることを要請しました。中国軍の司令官は、この要請に応(こた)えませんでした。さらに、北京の在留日本人の保護のために天津から駆けつけた日本軍の部隊が攻撃され、19名が死傷しました。このことを東京の参謀本部(さんぼうほんぶ)に報告し、陸軍参謀総長の許可を受けたうえで、現地での日中軍の交戦が決定されました。

1937年7月27日、北京市内での戦闘が始まり、日本軍は中国軍を北京市内から排除(はいじょ)し、排除した中国軍部隊に航空機による爆撃を加えました。また、天津の駐屯軍(ちゅうとんぐん)にも、臨戦態勢(りんせんたいせい)をとらせました。1937年7月28日、日本軍は、天津と北京を制圧し、中国軍司令官は北京から脱出しました。29日には、北部の自治政府の保安隊(ほあんたい)が反乱を起こし、日本人居留民を殺害する事件が起こりました。保安隊の兵士は、本来日本側の立場であると想定されていたため、これは、保安隊の兵士が抗日側(こうじつがわ)に回ったことを意味していると、考えられたからです。この事件は、日本国内での対中感情を著しく悪化させ、日本の国民は、中国人を懲(こ)らしめるべきであると言うスローガンを支持するようになりました。

1937年7月24日、上海(しゃんはい)で日本軍の水兵(すいへい)が中国軍に捕らえられる事件が起こりました。この事件を日本海軍の陸戦隊(りくせんたい)が調べ始めました。この陸戦隊の活動に対して、上海市の中国保安隊が公然(こうぜん)と対抗する構(かま)えを見せたため、両部隊の間の緊張が高まりました。この事件の前に締結(ていけつ)された停戦協定では、中国軍は上海市内へ入り込まない約束がなされていました。にもかかわらず、保安隊に変装(へんそう)した中国兵が武器を持って、市内の各所に陣地(じんち)を建設しました。28日の北京での日中の軍による軍事衝突が発生したことで、日本政府は、中国内陸部の領事館(りょうじかん)に対して全ての日本市民を上海市まで戻すように指示しました。しかし、その後、日本の軍人2名が上海市内で殺される事件が起こりました。

この事件をきっかけに、日本領事は上海の共同租界地(きょうどうそかいち)国際委員会を通して、上海市長に保安隊を市内から退去させるように要求しました。上海市長が、「私にその権限はない」と回答したため、海軍陸戦隊(かいぐんりくせんたい)の指揮官は、東京に軍隊の増援(ぞうえん)を要請しました。東京からは、「増援軍が到着するまで、戦闘を拡大しないように」と言う指示が出されました。蒋介石は、上海周辺の地域に総勢約20万人の兵力を展開して、上海市内の日本人租界地を包囲しました。英米仏の領事が、上海市長と日本の領事の間に入り、仲裁(ちゅうさい)を申し出ましたが、双方ともそれを黙殺(もくさつ)しました。1937年8月13日の朝から、各所で小さな軍事衝突(ぐんじしょうとつ)が始まりました。その日の午後、それまで守勢(しゅせい)だった日本海軍の陸戦隊は、本格的な交戦を始めました。

1937年8月14日には、中国軍の空軍機が、日本の海軍陸戦隊を空から攻撃しました。8月15日、近衛内閣は陸軍に対して、上海へ部隊を派遣(はけん)することを決定しました。これによって、日本と中国は、全面的な戦争状態に入りました。8月18日に英仏が仲裁案を提示しましたが、日本政府はそれを拒否しました。蒋介石は、全土に向けて総動員令を発し、21日に中ソ不可侵条約(ちゅうそふかしんじょうやく)を締結し、ソ連から、戦闘機、爆撃機、戦車、大砲等の装備が大量に供与(きょうよ)されました。共産党は、共産党軍を国民党軍の指揮下に置き、共産党軍を八路軍(はちろぐん)と称することとしました。9月22日には、国民党と共産党との連携を決めた第2次国共合作が正式に成立しました。

1937年8月15日、日本海軍は上海とその周辺にある中国軍の空軍施設を空襲(くうしゅう)して、爆撃しました。19日には、海軍の陸戦隊2400名が夜間上陸(やかんじょうりく)を行い、日本人租界地(にほんじんそかいち)へ入りました。上海市内では、激しい攻防戦が続きました。8月23日に約4万の兵から成る上海派遣軍(しゃんはいはけんぐん)が到着し、上海近くに上陸しました。しかし、ドイツの軍事顧問団(ぐんじこもんだん)によって建築された上海市の城壁(じょうへき)は、堅固(けんご)な防衛陣地(ぼうえいじんち)となっていたため、日本陸軍は苦戦を強(し)いられました。9月9日に陸軍は上海に増援軍を送ることを決定しました。9月13日に、中国政府は国際連盟に日本軍の行為を提訴(ていそ)しました。9月28日、国際連盟の日中紛争諮問委員会(にっちゅうふんそうしもんいいんかい)で、日本軍の無差別空爆(むさべつくうばく)に対する非難決議(ひなんけつぎ)が満場一致で決議されました。この頃、イギリスの仲介で日本と中国間での和平を成立させようとする働きかけがありました。しかし、日本が提示した和平条件に対して、国際連盟での日本の軍事行動に関する審議(しんぎ)が進められていたこともあり、蒋介石はイギリスを通して示された仲介案の受諾(じゅだく)に消極的でした。

1937年10月5日、国際連盟の日中紛争諮問委員会は、日本の軍事行動をいくつかの国際的な条約に違反したものであると決議しました。米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は、それまでの国際社会における米国の立場を変えて、「侵略国(しんりゃくこく)を隔離(かくり)する」とする立場を表明し、日本の中国政策を間接的に批判しました。10月9日、日本は、上海への再度の増援軍派遣を決定しました。同時に、日本陸軍ではドイツを介した日中和平成立のための積極的な働きかけを開始しました。10月10日、日本軍は上海市街地目前の最後の防衛線(ぼうえいせん)に到達しました。そして、12日に上海市内へ突入しました。市内での戦闘の結果、27日に上海市のほぼ全域を日本軍が制圧(せいあつ)しました。この頃中国政府は、停戦問題を議論し始めました。11月2日、日本政府は、ドイツの駐中国大使を介して、和平工作を始めました。同時に、イギリスから、「第三国を介した和平の直接交渉を認める」との意思が伝えられ、ドイツの仲介による和平交渉を積極的に進めることになりました。11月5日に日本側の条件が蒋介石に伝えられました。

この時、蒋介石は「日本側が提示した条件を認めれば、共産主義政権が誕生し、共産主義政権は中国の降伏を認めないので、和平への道は絶たれる」と、ドイツ大使に伝えたと記録されています。また、蒋介石は、上海での戦闘が始まる直前の状態に戻すことまでを前提に、和平条件について議論すべきであると主張したそうです。中国側は、この方針に基づく和平の実現条件を日本側に示しました。日本側は、これ以上の戦争拡大は望んでいないとして、アメリカ合衆国に対しても中国側に日本の穏健な和平案に譲歩するよう説得を依頼しました。蒋介石は上海での戦闘の敗北を認めるべきだとする軍事顧問の進言を受け入れず、日本軍は和平成立後も、現在の戦闘態勢を維持するであろうと考えていたようです。11月末に蒋介石は、主都の南京(なんきん)からの軍の撤退(てったい)をせず、南京市を死守(ししゅ)する方針を決定しました。この頃、蒋介石は、日本の和平条件を受け入れる方針を決めていました。

1937年11月11日に、日本政府は、上海大道政府(しゃんはいだいどうせいふ)を設置しました。日本軍では、敗走する中国軍の追撃(ついげき)は禁止されました。この日、スターリンは、対日戦争へのソ連の参戦を見送ることを決め、蒋介石に伝えました。それに代えて、ソ連の義勇兵(ぎゆうへい)を緊急派遣(きんきゅうはけん)することを伝えました。11月15日、日本陸軍は、独断で南京への進撃を始めました。南京を守ることはできないと考えた蒋介石は、約10万人の規模の南京籠城部隊(なんきんろうじょうぶたい)を残し、重慶(じゅうけい)に主都を移す決定をして、軍の主力を移動させました。11月20日、日本政府に大本営(だいほんえい)が設置されました。そして、11月24日には、現地陸軍で進められていた南京への軍事侵攻(ぐんじしんこう)を、事後承認で許可しました。12月1日、スターリンは、再度、対日参戦の拒否を表明しました。日本軍は、12月3日から南京の包囲(ほうい)作戦を開始しました。蒋介石は、和平の基本条件受け入れをドイツ大使に伝え、直後に南京を脱出しました。この基本条件受け入れの情報は、7日に日本へ伝えられました。南京市内には、中国軍約10万と、民間人約50万人が残されたと推定されています。12月9日に日本軍は、南京の中国軍部隊に対して降伏勧告(こうふくかんこく)を出しました。

1937年12月10日、日本軍は南京市内に向けて進軍を始め、攻撃を開始しました。12月12日、日本軍は南京市内に侵攻しました。夜、中国軍は「日本軍の包囲網を突破して、退却せよ」とする命令を出しましたが、命令は前線に伝わらず、中国兵は敗走し、揚子江(ようすこう)に面した城門に殺到(さっとう)しました。その逃亡を阻止(そし)しようとした中国軍の一部は、逃亡兵を銃撃したため、中国側の同士討(どうしう)ちも発生したそうです。12月13日、日本軍は中国軍の小部隊の抵抗を制圧する行動をとりました。この市内に残った敵兵の掃討戦(そうとうせん)に関係して、日本軍による南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)か起きたとされています。12月14日、日本政府は、北京を主都として、中国北部を管理する中華民国臨時政府(ちゅうかみんこくりんじせいふ)を設立しました。

1937年12月7日に蒋介石は、南京を離れる直前に、ドイツを介して日本側の条件を交渉の基礎として受け入れることを伝えてきました。この時点でも、蒋介石は、日本に対する不信感を抱いていました。上述したように、12月13日には日本軍が南京市に突入し、南京は陥落(かんらく)しました。日本国内では、次第に強硬論(きょうこうろん)が強まりつつありました。この世論の変化を受けて、日本政府の講和条件は賠償(ばいしょう)を含む厳しいものに変わりました。12月21日の閣議でこの新条件が決まった時、政府内にも「このような重い条件が追加されたので、中国側は和平には応じないであろう」との発言もあったそうです。日本側は、新和平条件に対する中国側の回答期限を1938年1月5日として、ドイツに提示しました。この新しい条件を見た蒋介石は、態度を硬化させ、交渉打ち切りも考慮に入れて、詳細についての問い合わせを日本にしました。近衛内閣は、それが「時間稼ぎ」であると判断し、1月15日、交渉打ち切りの決断をしました。この段階で、日本軍の内部では、まだ和平を主張する議論が主流でした。

1938年1月から、日本軍は中国全土で主要な都市に侵攻し、制圧しました。この間、蒋介石が逃げ込んだ重慶の爆撃は続きました。1939年の1月の時点で中国沿岸部を制圧していた日本軍でしたが、蒋介石は抗戦(こうせん)を断念(だんねん)せず、イギリス、アメリカ、ソ連からの軍事物資の供給を受けて徹底抗戦(てっていこうせん)を続けていました。日本政府は、戦争解決の糸口(いとぐち)を見出せないまま、手詰(てづ)まり状態に追い込まれていました。そこで、日本軍は、アメリカ、イギリス、ソ連からの中国軍への軍事物資を輸送する補給路(ほきゅうろ)を断(た)って、中国軍の軍事物資を枯渇(こかつ)させる戦略(せんりゃく)を採りました。また、ベトナム方面からの物資補給路を遮断(しゃだん)するための中国南部の制圧と、当時ハノイに滞在していた、日本の法政大学に学んだ経験のある汪兆銘(おうちょうめい)に親日的な新政府を建設させ、日中の和平を実現する方針に重点を移しました。1939年10月、汪兆銘の新政府と日本政府との間で締結される条約の内容を決める交渉が始まりましたが、その条件が中国側に不利なものであったため、汪兆銘も新政府の樹立(じゅりつ)を一時断念(だんねん)しました。1940年3月に日本側の譲歩の末、汪兆銘は条約案を承諾(しょうだく)し、3月30日に南京国民政府(なんきんこくみんせいふ)が設立されました。汪兆銘は、重慶の蒋介石政府との将来の合流を考え、新政府の首席代理(しゅせきだいり)に就任(しゅうにん)しました。

この間、1939年5月には、満州(まんしゅう)と蒙古(もうこ)との国境近くで、日本陸軍の関東軍とソ連軍が軍事衝突を起こしたノモンハンの戦闘が起こりました。7月には、アメリカ合衆国のハル国務長官が、日米通商航海条約の破棄(はき)を通告してきました。日本側は、再締結(さいていけつ)を駐日大使を介して交渉しましたが、12月に米国政府は「日本軍が中国大陸で貿易制限を行っているため、継続はできない」と回答してきました。同時に、アメリカ、イギリス、中国、オランダによる対日輸出制限が始まりました。8月、日本政府の予想に反して、ドイツとソ連は、独ソ不可侵条約(どくそふかしんじょうやく)を締結しました。9月に、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、それに対して日本政府は不介入(ふかいにゅう)を宣言しました。また、ノモンハンの戦闘について日本とソ連の間で停戦協定が成立しました。1939年12月からは、中国軍の冬季大攻勢が始まり、1940年2月まで続きました。日本軍の損失は、兵士2万5千名とされています。1940年6月、フランスは、蒋介石軍を支援する補給路の一つであったインドシナルートの閉鎖を承諾しました。7月には、イギリス政府もビルマルートを閉鎖しました。この頃、日本国内では、ヒットラーのドイツ軍が、ヨーロッパの戦線(せんせん)で優勢な戦いを続けていたため、その勢いに乗るべきとする世論が強くなっていました。

この間、1940年7月には、近衛文麿(このえふみまろ)の第2次近衛内閣が発足し、松岡外務大臣、東條陸軍大臣も就任しました。松岡外務大臣は、大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)確立を目指した外交方針を発表しました。1940年8月、中国共産党の八路軍は、無数の遊撃部隊(ゆうげきぶたい)とゲリラ部隊を使って、中国北部の鉄道施設と鉱山施設を一斉に攻撃しました。この攻撃で、多くの鉄道施設、鉱山施設、電信施設が破壊されました。日本軍は、直ちに反撃に出ました。予め調査してあった八路軍の根拠地を攻撃してゆきました。この攻撃は1940年12月まで続きました。日本側は、この反撃の過程で八路軍の内部情報も入手しました。ゲリラ戦に手を焼いた日本軍は、共産党が支配している地域の住民を全て敵とみなし、10月から攻撃する作戦を実行しました。この作戦では、毒ガスも使用されたと言われています。松岡外務大臣は、この中国との戦争問題を解決するためには、ドイツ・イタリアとの提携(ていけい)が必要であると主張しました。1940年9月に日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい)が締結されました。この頃、アメリカ合衆国は日本に対するくず鉄の輸出を禁止しました。日本政府は、南京の汪兆銘の国民政府が中国を代表する正当な政府であると主張しましたが、米国は汪兆銘の国民政府を否認(ひにん)し、重慶の蒋介石の国民政府に1億ドルを追加供与しました。12月にはイギリスとソ連も資金供与を決定しました。

1941年の1月から3月にかけて日本軍と中国軍の戦闘が続きました。イギリスは、中国軍に対するビルマ経由での軍事物資の提供を再開しました。1941年4月、ソ連と日本は、日ソ中立条約(にっそちゅうりつじょうやく)を締結しました。ソ連はドイツとの戦争を予想し、それに備えていました。ソ連とドイツとの戦争が始まると、ソ連から中国軍への物資の供給は無くなりました。日本と米国との間では、日本への輸出制限を解除し、日本との通商関係を正常化させる日米交渉が始まりました。1941年6月に独ソ戦(どくそせん)が始まると、松岡外務大臣は北進論(ほくしんろん)を唱えて、対ソ連との戦争への参加を主張しました。近衛総理大臣は資源の獲得を狙って、東南アジアへの進出方針を唱え、南進論が決定されました。8月になると陸軍内部で重慶爆撃の効果に対する疑問が出され、再検討が始まりました。日本軍は、政府の南進論に従って、ベトナム方面への侵攻を始めました。これに対する米国の反発は、日本政府の予想を超(こ)えていました。米国政府は、直ちに在米日本資産(ざいべいにほんしさん)の凍結(とうけつ)を実施し、8月には石油の日本への輸出を禁止しました。両国間の緊張が高まり、日本国内では、外交努力を継続しながらも、米国との戦争を考慮して、戦争準備に入ることを決めました。10月には、ソ連のスパイ、ゾルゲらが日本国内でスパイ活動をしていたことが明らかとなったゾルゲ事件が起こりました。この事件によって、近衛総理大臣の側近であった尾崎秀実(おざきひでみ)のスパイ行為が判明しました。

1941年10月、ゾルゲ事件の責任を追求された近衛総理大臣が辞任し、内閣は総辞職しました。新しく、東條英機(とうじょうひでき)を総理大臣とする東條内閣が設立されました。11月からは、米国のハル国務大臣との、に日米外交交渉が続けられていました。日本は、中国北部以外からは全ての兵力を撤兵(てっぺい)する案と、中国全土から撤兵する案をもって、米国との交渉に臨むこととしました。しかし、ベトナム方面からの撤退(てったい)は、汪兆銘政権が蒋介石政権の力に押され、危うくなる可能性があるとの理由で除外されました。この案が米国側に提示され、米国のハル国務長官は、日本が中国全土から撤兵すると言う案に興味を持ち、それに基づいて暫定案を作成し、中国側に見せましたが、蒋介石は拒否しました。イギリスのチャーチル首相も、中国の崩壊はイギリスにとっても重大な事態になると、ルーズベルト大統領に伝えました。11月末に、米国は日本に対して、中国全土及びベトナム方面からの完全撤兵と、汪兆銘政権の否認を含む新しい案を提示しました。この「中国全土」が、満州国を含むのかどうかは明確ではありませんでした。しかし、これは米国の日本への最後通告(さいごつうこく)であると解釈した日本政府は、日米開戦を決定しました。

(つづく)