原子爆弾とは

公開: 2019年9月13日

更新: 2024年8月29日

あらまし
ここでは、アメリカ合衆国の政府と軍による広島への原子爆弾投下命令までの経緯を振り返り、それまでの戦争がどのようになされ、どのような背景で原爆投下の決定が実施されたのかについての歴史をさかのぼっています。日中戦争が拡大して和平交渉に行き詰まっていた、日本の政府と軍隊は、米国政府からの圧力に絶えられなくなり、ハワイの米国艦隊を急襲して、対米国との戦争を始めたことで、ドイツと組んで第2次世界大戦に参加することになりました。ここでは、1945年8月9日に長崎に原爆が投下され、さらにその前後に中国北部でのソ連軍の総攻撃をうけ、日本軍が壊滅状態になり、無条件降伏を受け入れざるをえなくなった事実を振り返ります。
アジア太平洋における日本の戦争(3) 〜太平洋戦争

1941年、日本政府や日本軍首脳の予想に反して、中国大陸における日中戦争は、拡大の一途を辿(たど)り、総力戦の様相を呈していました。日本政府も日本軍も、中国政府との早期和解への道を模索していましたが、中国国内における国民党と共産党との対立もあって、日中両国とも簡単には停戦に合意できない「こう着」状態に陥っていました。そのような長引く戦争状態の中で米国政府は、日本の中国北部における支配が、米国の提示していた「門戸開放(もんこかいほう)の原則」に反しているとして、日本の利権を放棄(ほうき)することを迫り、戦略物資である石油の、日本への輸出を禁止する政策を採り始めました。また、米国政府は、中国軍の対日本軍との戦争支援のための軍事物資の提供も、継続的に行っていました。

日本政府と日本軍は、そのような国際情勢の中で、戦争継続のために石油の供給源を確保するため、石油を産出する東南アジア方面への、軍の侵攻を決めました。この日本軍の南進は、米国などを中心とした連合国による中国国民党への軍事物資の供給路を遮断(しゃだん)し、国民党との戦いを有利に進めるためにも、重要でした。日本政府は、当初、米国政府は日本軍の南進には強硬な反対はしないであろうと考えていたようです。しかし、日本軍の南進に対する米国政府の対応は、実際に日本政府にとって、極めて厳しいものでした。日本政府も日本軍も、一時、米国政府に対して、日本軍の東南アジアや満州を除く中国大陸中心部からの撤退を条件に、国民党政府との停戦協定交渉を行うために、米国の仲介を打診しました。しかし、米国政府は、日中和平交渉仲介の検討をしたものの、同盟関係にあったイギリスのチャーチル首相の強い反対意見もあり、「日本からの和平提案の原案は受け入れられない」と、日本政府へ回答してきました。

当時の日米の国力差は、国内総生産(GDP)で10倍以上の差であり、正面切った戦争では、日本に勝ち目はないことが政府の中心にいた政治家、日本軍の上層部、特に昭和天皇や近衛首相には理解できていたようです。特に、軍を指揮する立場にあった昭和天皇は、国力の差から、米国との戦争に勝つことが難しい現実を十分に理解していたようです。それでも、軍首脳は、軍若手の極端に強気な姿勢に押され、公式の会議の場では、「戦争に勝つことは難しい」とは言えず、「和平の道を探りながらも、対米戦争の準備を整える」と言うあいまいな方針を主張し、政府と日本軍の首脳たちが同席した会議では、それが会議での議論全体の結論となりました。この方針に基づいて、日本政府は米国との交渉を続けましたが、米国から示された回答は、日本政府から見れば、日本の立場を考慮したものではなく、和平への道を見通すことができない内容であるとの共通理解が、醸成されてゆきました。

1941年の10月に、近衛首相が示した中国からの撤兵を受け入れる交渉案を基にした対米和平交渉案に対して、陸軍内部の議論に基づき、東條英機陸軍大臣は強く反対しました。日本帝国憲法の原則であった、閣内(かくない)での「意見の一致」を維持できないことを理由に、東條大臣が内閣総辞職を求めたため、近衛内閣は総辞職しました。その結果、新たに東條内閣が発足しました。東條内閣は、「1941年12月の初めに、アメリカ合衆国、イギリス、オランダとの戦争を開始する」とする従来の方針に従うことを11月初めに確認し、その方針に従って、日本陸軍と日本海軍は、戦争を開始する準備を始めました。日本政府は、米国政府に対して最終交渉案として2つの案を作成し、来栖(くるす)特命全権大使(とくめいぜんけんたいし)はハル国務長官との交渉に当たっていました。11月26日に、ハル長官は日本案を拒否し、中国大陸とインドシナ地域からの日本軍の撤退と、日独伊三国同盟の破棄(はき)を基本とした交渉案を記した文書を示しました。これは、現在、ハル・ノートと呼ばれているものです。

このハル・ノートを、米国の実質的な最後通牒(さいごつうちょう)と解釈した日本政府と日本軍の首脳は、日米交渉の決裂を意識し、東條内閣は、昭和天皇も出席した会議で、1941年12月8日の開戦を提案し、それが認められました。12月8日、日本陸軍は、当時のイギリス領マレー半島の北端の海岸で、イギリス・インド軍との交戦に入りました。また、日本海軍は、ハワイのオアフ島にある海軍基地に対して、航空機部隊による攻撃を実施しました。特に海軍の「真珠湾攻撃作戦」(しんじゅわんこうげきさくせん)は、アメリカ合衆国政府への宣戦布告(せんせんふこく)前に始められたことで、後に問題になりました。さらに、この両国への宣戦布告のあと、インドネシアを占領していたオランダ政府に対しても宣戦布告が行われました。

1941年12月8日、日本陸軍はタイ国境近くのイギリス領マレー半島にあったコタバルへの攻撃と、当時、中立国であったタイの南部にあるソンクラへの上陸を実施しました。同時に、日本海軍はハワイのアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊基地があった真珠湾への航空機による攻撃を行いました。さらに、イギリス領であった香港への攻撃と、12月10日のイギリス海軍東洋艦隊とのマレー沖海戦を行い、これらの戦いで、勝利を治めました。しかし、友好国であったタイの同意を得ずに、日本陸軍が国境を越えて、侵攻を行ったことは、日本政府内で問題になりました。特に、昭和天皇はそのことを問題視されたそうです。

日本陸軍のイギリス領マレー半島への侵攻は成功し、海上での戦闘でもイギリス艦隊に勝利したため、日本軍はマレー半島の制圧に成功しました。これに対して、日本海軍は真珠湾攻撃の際に、米海軍からの反撃を怖れたため、第3次の攻撃をしませんでした。そのため、燃料タンクや港湾施設の破壊を十分に行うことなく、戦闘を終了させることになりました。これで、日本海軍は真珠湾攻撃で、米国海軍の太平洋艦隊に対して十分な打撃を与えることはできませんでした。米国政府では、日本海軍による米国本土への攻撃を警戒して、米国本土での日本陸軍との地上戦にも備えるように、米国軍に指示を出しました。しかし、日本軍はイギリスの植民地であったマレー半島や米国の植民地であったフィリピンでの戦闘に戦力を集中し、アジア各地での戦闘を優勢に進めてゆく方針を守りました。

1942年1月、日本政府は、それまで戦宣布告をしていなかったオランダに対しても宣戦布告をして、ボルネオ、ジャワ、スマトラへの侵攻を始めました。さらに、1942年2月に日本海軍の潜水艦が太平洋を渡り、米国太平洋岸のカリフォルニア州サンタバーバラの製油施設や、オレゴン州の海軍基地への砲撃を実施しました。これらの突然の日本海軍の攻撃に驚いた米国政府は、日系米国市民の強制収容を本格的に実施し始めました。同じ頃、日本軍はシンガポールを攻撃し、陥落させました。1942年3月にはバタビア沖の海戦で連合軍の艦隊を壊滅(かいめつ)させました。ジャワ島に上陸した日本陸軍は、オランダ軍を追い詰め、ジャワ島全域を占領しました。さらに、フィリピン諸島に駐留していた米国陸軍を攻撃し、司令官であったマッカーサーをオーストラリアへ撤退させ、フィリピンを完全占領しました。

1942年3月、日本陸軍は、当時、イギリス領であったビルマ(現在のミャンマー)に侵攻を始めました。日本海軍は陸軍を支援するため、航空母艦に搭載した航空機を利用して、セイロン島(現スリランカ)の都市、コロンボなどを攻撃し、多数のイギリス海軍艦艇を撃沈しました。東南アジアにおける制海権(せいかいけん)を失ったイギリス海軍は、アフリカ大陸東岸のケニアまで撤退しました。この後、日本軍はアメリカ領のハワイとオーストラリアを結ぶ直線上にあるソロモン諸島やニューギニアに軍を進め、米国軍とオーストラリア軍を分断する戦略をとりました。1942年5月には、日本海軍の部隊と、米国海軍の部隊が激突したサンゴ海開戦で両国海軍は、航空母艦を主力とした艦隊同士が戦い、米国海軍は航空母艦1隻を失い、日本海軍も航空母艦1隻に打撃を受けました。

1942年4月に、日本海軍はハワイの東にあるミッドウェー島への攻撃計画の策定に着手しました。その直後に、米海軍の航空母艦から飛び立った米国陸軍の爆撃機B-25による東京空襲が、初めて行われました。その時、日本側の損害はほとんどありませんでした。6月に日本海軍は、米国海軍とミッドウェー海戦を戦い、航空母艦4隻を失いました。しかし、国民の戦意低下を怖れた日本政府の大本営(だいほんえい)は、日本国民に対して、この大敗を隠して戦果を報道しました。1942年9月には、日本海軍の潜水艦搭載機が2度にわたり、米国本土の太平洋岸にあるオレゴン州を爆撃しました。1942年8月、米国海軍は日本海軍が飛行場を建設していたソロモン諸島のガダルカナル島に、海兵隊2万人を上陸させ、日本軍の飛行場を奪取しました。この上陸作戦に対して、日本陸軍は飛行場の奪還を目的に、激しい戦闘を始めました。同時期に日本海軍はガダルカナル島近海で、アメリカ・オーストラリア海軍の連合軍部隊に対して打撃を与えましたが、連合軍側は物資の搬入には成功していたため、逆に補給が途絶えていたガダルカナル島の日本陸軍は、苦境にたたされました。

1942年10月、日本海軍の艦隊は、米国海軍の艦隊と遭遇し、航空母艦1隻を沈め、1隻を大破させました。これによって、米国海軍は、太平洋戦線での稼働可能な航空母艦を失うと言う事態に陥りました。しかし、ミッドウェーの海戦で4隻の航空母艦と数多くのベテラン飛行士を失っていた日本海軍は、兵力が乏しくなっていた米国海軍に対しても、積極的な攻撃を続けることができませんでした。この間、米国海軍はガダルカナル島の飛行場を利用し、ガダルカナル島周辺における制空権(せいくうけん)を確保し、日本陸軍への船を使った武器弾薬や食料の補給を断つことで、戦局を有利に展開し始めていました。ガダルカナル島へ上陸した日本陸軍の兵士は、補給が断たれたため、食糧不足によってその多くが餓死しました。1943年2月、日本陸軍は、ガダルカナル島から完全撤退しました。

1943年4月、こう着状態にあった日本海軍の現状視察のため、ニューギニア地域を訪問中だった連合艦隊司令長官の山本五十六(やまもといそろく)は、日本軍の暗号電文を解読した米国陸軍が、密かに送り込んだ戦闘機の待ち伏せに会い、撃墜され、戦死しました。大本営は、この事実を1か月にわたって国民に報告せず、5月末になって発表しました。1943年5月、アメリカ軍は、千島列島の北、アラスカ近くに位置し、日本軍が占領していたアッツ島に上陸しました。この上陸作戦で、アッツ島の守備をしていた日本軍は全滅しました。1943年8月になると、それまでこう着状態が続いていたニューギニアでは、日本軍の形勢が悪くなり、日本軍部隊への補給ができなくなってきました。1943年末には、大規模な海軍の飛行場があったラバウル基地も空襲を受けるようになりました。

1943年末になると、米国陸軍は、ソロモン諸島、ニューギニア、フィリピンへと北上する戦略を明確に採用し、米国海軍は、マーシャル諸島からマリアナ諸島を経て、サイパン島へ侵攻する作戦を採用し始めました。

南太平洋地域での戦闘に陰(かげり)が出てきたため、ビルマ方面でイギリス陸軍と戦っていた日本陸軍は、1944年3月、局面を打開する目的で、ビルマ国境に近いインドのインパールに駐留していたイギリス陸軍への攻撃を目的としたインパール作戦を開始しました。日本軍は、9万人近い将兵を投入し、短期決戦の覚悟で作戦の実施に望みましたが、日本軍は2,000メートルを越える高低差と、雨季における長距離の移動、さらにイギリス軍の装備と豊富な食料・弾薬の前に、インパールの攻撃を断念して退却(たいきゃく)しました。この無謀な作戦のため、3万人を超える将兵が飢えと病気で戦死し、撤退中に戦死する兵士も数多く出ました。

1944年5月、中国戦線では、日本陸軍による大規模攻勢が始まり、中国北部からインドシナ方面への陸路での連絡・往復ができるようになりました。しかし、日本陸軍による中国国内での攻勢は、これが限界で、1944年6月になると、中国の成都(せいと)を基地とした米国軍のB-29爆撃機による北九州爆撃が始まりました。同じころ、米国海軍は、日本の本土を守るために死守しなければならないマリアナ諸島への攻撃を始めました。日本海軍は、航空母艦9隻を擁した大艦隊を編成して米国海軍を迎え撃ちました。米国海軍の艦隊は、航空母艦15隻を中心とした大艦隊で、新型レーダーなどが導入されていました。このマリアナ沖海戦で日本海軍の艦隊は、米国海軍の艦隊に大敗し、航空母艦3隻、艦載機359機を失いました。

1944年7月、米国海軍の海兵隊がマリアナ諸島に侵攻し、サイパン島では3万人の日本軍守備隊が全滅、8月には、テニアン島とグアム島が占領されました。アメリカ軍は、日本軍が利用していた飛行場を改修・拡張し、日本本土へのB-29による爆撃を準備しました。1944年11月、サイパン島から飛び立ったB-29が、東京武蔵野市にあった中島飛行機の工場を爆撃しました。このときから、日本本土への空襲が本格化しました。その後、戦略爆撃によって日本各地の製油所、石油貯蔵施設などが爆撃され、国内の石油関連施設が壊滅してゆきました。

日本軍が劣勢(れっせい)に立たされたことから、国民の東條英機総理大臣への反発は少しずつ強くなりました。一部の政治家や陸海軍の将校らによる倒閣(とうかく)運動も起きました。東條内閣は、商工大臣であった岸伸介が「本土空襲が続けば戦争の遂行に必要な物資の生産ができなくなるので、連合軍と講和せざるをえない」と主張し、戦争継続を主張する東條総理大臣との意見の不一致が表面化したため、1944年7月、サイパン島陥落の責任を取って、東條内閣は内閣総辞職をしました。その後任として、小磯陸軍大臣と米内海軍大臣を中心とした小磯内閣が誕生しました。

1944年10月、米国軍はフィリピンのレイテ島への侵攻を開始しました。日本海軍は、この米軍のレイテ島上陸を阻止するため、総力を挙げて米国海軍と戦う目的で、戦艦大和と武蔵を中心とした戦艦部隊で米国海軍の輸送船団壊滅作戦を計画しました。しかし、戦艦部隊の現地への到着が遅れ、レイテ湾の目前で進路を反転させたため、作戦は失敗に終わりました。昭和天皇は、この頃から日本の敗戦を意識し始め、側近に対して終戦の模索を考えるようにと、述べられたようです。レイテ沖での海戦では、日本海軍は航空母艦4隻と戦艦3隻(武蔵を含む)を失い、事実上壊滅(かいめつ)状態に陥りました。このレイテ沖海戦において、日本軍は特別攻撃隊(特攻隊)を組織して、米国海軍の航空母艦に体当たり攻撃を行い、ある程度の成果を達成しました。この戦いに勝利した米国軍は、陸軍の大部隊をフィリピンへ上陸させ、その後、日本陸軍との間で激しい戦いを続けました。日本軍は、大戦力を背景にした米国軍に対して、武器・弾薬・食料が少なく、敗走する結果となりました。その結果、日本軍は防衛線の南端に位置するフィリピンを失ない、マレー半島やインドシナ方面への物資の供給ができなくなりました。

1944年11月からは、グアム、サイパン、テニアンの基地からの、B-29による日本本土爆撃が始まり、米国統合参謀(とうごうさんぼう)本部では、日本本土に近い硫黄島(いおうじま)の攻略と沖縄上陸を決めました。政治的には、米国のルーズベルト大統領は1943年に、日本やドイツなどの枢軸国に対して、一切の条件交渉を認めない無条件降伏の方針を決め、他の連合国首脳に対して提案し、カサブランカ会議で承認を受けました。さらに、1944年10月、ルーズベルト大統領は、千島列島をソ連領とする条件で、ソ連の日ソ中立条約破棄と対日参戦を促しました。1944年12月、それに対してソ連のスターリンは日本領であった樺太南部と千島列島の領有を主張しました。また、米国は中立国であったソ連の輸送船を使って、米国の武器と弾薬を80万トン、ソ連に陸揚げしました。1945年2月、クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相らが、戦後の国際秩序や日本の領土分割に関する密約について議論しました。しかし、その直後の1945年4月、ルーズベルト大統領は急死しました。そして、その後継者として副大統領だったトルーマンが大統領に就任しました。

1945年2月からの1か月に渡り、硫黄島では日本軍と米国海軍の海兵隊が激しい戦いを行い、両軍合わせて約5万人の命を失いました。その結果、アメリカ軍は硫黄島を占領し、B-29爆撃機を護衛する戦闘機の基地として整備しました。この頃、昭和天皇は、側近の一人であった内大臣の木戸幸一に対して、密かに終戦への道筋を試案として作成するようにと、ご下命されたと記録されています。木戸は、東京帝国大学法学部教授であった南原繁に試案の作成を依頼しました。南原は、南原は、1945年の6月頃までには、その試案をまとめていたとされています。3月10日には、日本の工場への高高度からの爆撃を重視していたハンセル准将に代わって、B-29部隊の指揮官に就任したルメイ少将は、低高度からのナパーム焼夷弾による一般家屋の焼失作戦を重視し、東京の下町を中心にして、1夜で約10万人の市民の命を奪う攻撃を行いました。これは、米国陸軍の航空隊が、以前から考えていた新しい戦略爆撃の方法で、飛行機を戦争の主たる手段とする新しい戦争のやり方として考えられていたものでした。その標的も東京、名古屋、大阪に絞って検討されていました。この3月10日の東京大空襲以降、日本各地の都市で一般の市民が、B-29による空襲の標的となりました。

1945年5月にドイツが連合国に降伏したため、連合国と戦うのは、日本、ただ1か国だけとなりました。ソ連は、ドイツの降伏で、兵力を極東に移動することができるようになり、日本侵攻を考えて、満州国境へ兵力を集中させ始めていました。日本国内では、和平工作を求める政治家もいましたが、敗北によって生じる責任問題を避けたい軍の関係者らの中には、本土決戦を唱え続ける人々もいました。木戸内大臣は、1945年6月8日、天皇に対して終戦構想試案を提出しました。終戦へ向けて政府内部では、中立条約を結んでいたソ連に和平の仲介役を依頼しようとする議論もありました。そのような、決定ができない日本政治の中枢における、降伏受け入れ決定の判断の遅れは、沖縄における多数の市民を巻き込んだ地上戦や、8月の2発の原子爆弾投下、そしてソ連軍の満州や樺太南部への侵攻など、必ずしも 失う必要がなかった多数の民間人の命を、無意味に失う結果を引き起しました。

1945年7月26日、アメリカ合衆国、イギリス、中華民国の代表は、日本に対して無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表しました。日本政府は、このポツダム宣言を「無視」すると発表しました。そして、日本からソ連のスターリンに対して親書を送り、連合国軍との和平の仲介を依頼しました。ドイツのポツダムでの会議に参加していたスターリンは、トルーマン大統領にこのことを伝えました。トルーマンもスターリンに原爆実験に成功したことを伝えました。また、トルーマンは、チャーチルと極秘に会談し、ソ連軍が日本軍への攻撃を開始する前に原爆を日本に投下することを決めました。それによって、戦後、ソ連に千島列島の領有を認める必要がなくなることが理由だったと考えられています。このことを察知したスターリンは、早急に日本軍への攻撃を始めるようにソ連軍に指示したとされています。

1945年8月6日、広島市に最初の原子爆弾が投下され、直後に7万人以上の市民が死亡しました。1945年8月8日、ソ連は日本に戦線を布告し、満州国への侵攻を開始しました。ほぼ同時に、ソ連軍は南樺太、千島列島への侵攻も開始し、日本軍の兵士や市民とソ連軍との戦いは、日本の無条件降伏受け入れ後も、1か月近くに渡り続きました。そして、満州の開拓地に取り残された日本人市民や、南樺太や千島列島からの帰還船に乗り遅れた日本人市民の多数が、悲惨な境遇に陥りました。8月14日、昭和天皇はポツダム宣言の受諾を決意し、日本は連合国に降伏し、第2次世界大戦は実質的に終了しました。

(つづく)