公開: 2019年8月22日
更新: 2023年11月29日
1904年に、日清戦争で中国東南部の遼東半島(りょうとうはんとう)を支配しようとした日本の意図に反対し、自らが朝鮮半島に向かって進出しようとしていた帝政ロシアの中国東部の戦力拡充に脅威(きょうい)を感じていた日本軍と日本政府は、帝政ロシアとの開戦に踏み切りました。当時は、まだ工業力も十分に発展しておらず、経済力も十分ではなく、経済発展の途上にあった日本は、この戦争を行うために、海外からたくさんの借金をして、軍備を整え、戦うことになりました。その結果、1905年には政府の財政は底をつく状態にあり、戦争の継続は難しい状況になりました。この頃、帝政ロシアでは、共産党勢力が台頭し始めていて、ロシア政府はその対応に苦慮(くりょ)していました。この日露戦争で中国東北部出身の張作霖(ちょうさくりん)は、ロシアのスパイとして働いていましたが、日本軍に捕らえられました。このとき日本軍は、張作霖を利用することが有利であると考え、日本軍に協力することを条件に釈放しました。
そのような両国の情勢から、1905年に、米国政府の仲介で、日本とロシアとの間でポーツマス条約が結ばれ、日露戦争は終わりました。このポーツマス条約によって、日本は清国(しんこく)の東部に建設されていた鉄道網のうち、旅順(りょじゅん)と長春(ちょうしゅん)を結ぶ南満州鉄道(みなみまんしゅうてつどう)と、それに付随する炭鉱の運営権利などをロシアから引き継ぎました。この南満州鉄道とその関連施設等を守り、鉄道の運営に成功することは、その後の日本にとっては重要な問題になりました。そのため、日本は、軍隊を派遣し、その防衛等に当たらせました。さらに南満州鉄道の利権を守る目的で、満州に駐留(ちゅうりゅう)していた日本軍の司令官の下に、行政のための組織として、関東総督府(かんとうそうとくふ)を設置して軍事政府を作ろうとしました。日露戦争で日本軍に捕らえられた張作霖は、日露戦争後に日本軍の高官に認められ、日本軍の協力者として中国東北部で活動することになりました。
このような日本軍による中国東北部(満州)の支配に対して、清国政府は抗議を行い、米英がそれに同調して満州の門戸開放(もんこかいほう)を日本に要求してきました。この動きに対して日本政府は、満州の門戸開放の原則を受け入れて、関東総督府の設置を止めました。この後、中国では、それまで中国を支配していた清帝国(しんていこく)が滅亡し、複数の軍閥(ぐんばつ)が互いに争う中国革命の時代に移ってゆきました。1912年、南京に中華民国(ちゅうかみんこく)臨時政府がつくられ、1913年に袁世凱(えんせいがい)が中華民国の大総統になりました。満州に拠点を置いていた張作霖(ちょうさくりん)は、袁世凱とは考えが違っていたため、その革命には反対し、中華民国の軍が北京へ攻めあがってきたとき、日本軍の助けを受け、袁世凱の軍と戦いました。袁世凱は張作霖の暗殺も試みましたが、袁世凱は1916年に死亡してしまいました。その後、長期に渡って中国国内の軍閥(ぐんばつ)間の抗争が続き、中国の社会は大きく混乱しました。
南満州鉄道の利権を守り、中国東北部の満州における日本の勢力を確立することを求めていた日本軍の一部の人々は、日本の将来の経済発展のために、満州の天然資源を確保し、満州の耕作地を拡大することは、必須の条件だと考えていました。それまで、間接的に張作霖の軍事行動を支援していた日本軍は、張作霖を利用して満州全域を支配することを目的として、強い協力関係を築き上げようとしていました。しかし、この頃、張作霖は中国国内における排日(はいにち)運動の高まりや、欧米からの支援を受けることをねらい、日本軍や日本政府と距離を取り始めていました。さらに、彼は南満州鉄道に並行する新しい鉄道網を建設するために、海外からの資本提供を受ける準備を始めました。日本陸軍は、これらの張作霖の態度・活動は、南満州鉄道の経営を危機に陥れるとして、その暗殺を計画しました。
1928年6月、日本陸軍は張作霖が乗った列車を爆破し、彼を暗殺しました。この事件を計画した日本陸軍の大佐は、現役を退くことを命じられただけの軽い処分を受けましたが、当時の田中総理大臣は、この事件の責任を取って辞職することになりました。張作霖が死んで、その後を継いだその子供の張学良(ちょうがくりょう)は、この事件について日本政府を批判することはしなかったようです。とは言え、張学良は、南京の蒋介石(しょうかいせき)が率いる中華民国政府への合流を決めました。この合流によって、満州は中華民国の一部になりました。その結果、張学良は、日本政府に敵対する行動を取るようになりました。彼は、新しい鉄道建設を行い、南満州鉄道が奉天(ほうてん)地域を支配していた政府に貸した1億円の返還を拒否したことで、南満州鉄道の経営を危機に陥(おとしい)れました。その結果、1930年に南満州鉄道の経営は赤字に転じ、その社員2,000人以上が解雇される事態が起こりました。
このようなことから、満州地域における日本の利権を守り、満州に移住した日本人の安全と生活を守るために、満州を中華民国政府からは独立した日本直轄の地域にしなければ、長期的に日本の利権を維持することは難しいと考える日本軍の一部の人々の考えは、日本人の間で少しずつ支持を広げてゆきました。さらに、張学良は、中華民国政府の方針の一つであった「失権失地回復」(しっけんしっちかいふく)のために、北部満州においてロシアが維持していたソ連の権益を奪い返す運動を展開しました。1929年にハルピンのソ連領事館員を逮捕し、さらに北部満州の鉄道全線に軍隊を配置して、その管理権を取得しました。この行動に対して、ソ連は国交の断絶を宣言し、ソ連軍は満州に侵攻しました。その結果、ソ連軍は中華民国軍を撃破し、北部満州鉄道全てを占領しました。1929年12月にハバロフスク議定書が結ばれ、ソ連の中国東北部に於ける権益は、回復されました。
1931年に、満州地域の立ち入り禁止区域の調査を秘密裏に行っていた日本軍の大尉が張学良の部下に拘束され、殺害されました。この事件の捜査で、中華民国側が「日本の陰謀である」と主張したため、日本と中華民国の間の関係は著しく悪化しました。さらに、中国の他の地域において、日本人が集まるための施設が、中国人集団の襲撃に会ったり、日本人女学生数十人がピクニック中に強姦される事件などが起こり、日本国内の中国に対する世論は、少しずつ強硬になっていました。日本軍は、そのような世論を利用して、武力で満州地域を制圧する機会を狙っていました。1920年代の末に、軍事行動によって全満州を占領すべきであると考えていた陸軍の高官が、その関係する部署に着任しました。そして、1931年になると、作戦計画の立案を始めました。そして、1931年8月には、中国を管轄する陸軍中央部の主要ポストを、武力行使派の人々が握るようになりました。
1931年9月、瀋陽(しんよう)郊外の南満州鉄道線路上で小規模な爆発が起きました。現場は、張作霖が爆弾で殺された現場の近くでした。日本軍は、この爆破事件が張学良が率いる中華民国軍による破壊工作であると発表し、直ぐに軍事行動を開始しました。この事件は、日本陸軍が軍事行動を開始する口実を作るために計画したものであることが、第2次世界大戦後に行われた調査によって判明しています。調査の結果として、爆破を行った人々の氏名も公表されています。
この爆発現場近くに中華民国軍の兵舎があったため、爆発音に驚いた中国兵が、兵舎の外へ飛び出しました。その中国兵を日本軍の兵士が射殺し、この施設を日本軍が占拠しました。さらに、翌日には満州全体の主要な都市も、日本軍によって占領されました。この日本軍による軍行動の後、中華民国はこの一連の日本軍の行動を、国際連盟に提訴しました。日本は、自衛のための行動であったと主張して、日中両国の直接交渉で解決すべき問題であると主張しました。この時点では、国際連盟理事会は、まだ日本に好意的であり、中華民国には冷淡であったとされています。
日本国内では、陸軍の一部に満州における兵力増強を主張する意見もありましたが、政府では、「問題をこれ以上拡大しないこと」を基本方針とする決定がなされました。しかし、陸軍内部での強硬な意見に押され、「不拡大を基本とするが、現地部隊の状況に適した作戦を、陸軍中枢部は拘束しない」とする対策案がまとめられました。これは、張学良が指揮する中国軍と現地の日本軍との間に、兵士の数において大きな差があったことが原因のようです。この問題に対応するため、陸軍の内部には、朝鮮に駐留する軍の一部を満州の日本軍の応援に向かわせると言う案も検討されました。そして、閣議の了承を得ずに、陸軍は、朝鮮からの援軍の派兵を実施しました。
結局、この増派問題は、事後承認によって閣議決定されました。この後、日本陸軍は満州の問題に関して、内閣による議論を経ずに、陸軍が独断で先に作戦行動を決定し、実行するようになりました。政府は、事件発生当初から日本軍の正式発表の内容以外の報道を禁止したため、事件の詳細は、ほとんど国民に知らされることはありませんでした。アメリカのスティムソン国務長官は、日本の外務大臣に「戦争を拡大しない」ことを要求しました。外務大臣は、陸軍の首脳に、「戦争が拡大すると英米からの批判が起きる」と伝えました。この戦線不拡大(せんせんふかくだい)の方針は、駐日米国大使に伝えられ、スティムソンはそれを記者会見で発表しました。しかし、陸軍高官からの命令が届く前に、現地では新しい作戦に着手されていました。
1931年10月、日本陸軍の爆撃機12機が、張学良が拠点を置いていた遼寧(りょうねい)省の錦州(きんしゅう)を爆撃しました。日本軍は、偵察行為であると主張しましたが、大量の爆弾が投下されていました。後に国際連盟から派遣されたリットン調査団は、「これを自衛目的であるとは言えない」としました。日本政府が不拡大声明を出していたにもかかわらず、このような攻撃を行ったことは日本外交に大きな汚点(おてん)になりました。1931年11月、中国の天津(てんしん)で日本軍と中国軍が戦闘を行い、日本軍は清(しん)の元皇帝溥儀(ふぎ)を脱出させて、満州に連れ帰りました。溥儀は満州人です。1932年1月、日本軍は錦州に迫っていました。日本政府は、張学良に対して錦州からの撤兵(てっぺい)を要請し、張学良がこれを受け入れたため、日本軍は錦州に入りました。
日本軍は、満州事変が勃発(ぼっぱつ)してすぐ、満州全土の領土化はできないと考え、間接的に統治(とうち)する方針をたてていました。その候補として、北京の紫禁城(しきんじょう)を強制的に退去させられ、皇帝の座を追われ、天津の日本国が管理していた領地に避難していた清朝最後の皇帝溥儀が選ばれました。1931年9月にその決定をして、溥儀に接触しました。11月には、溥儀は清朝の復興を条件として、満州国の皇帝に就くことを了承したそうです。このようにして、満州を1つの国として建国する準備は進められました。