公開: 2019年8月17日
更新: 2023年11月29日
1930年代、第1次世界大戦に負けたドイツは、戦勝国側の国々から多額の賠償金(ばいしょうきん)を請求され、国の経済は破綻していました。政治的にも、国内は安定していませんでした。そのような政治・経済状況の中で、ヒットラーは、仲間たちとナチ党を結党(けっとう)し、ドイツ国民の優秀性、純血アーリア人の重要性、独裁制(どくさいせい)による経済運営(けいざいうんえい)などを唱えて選挙に勝ち、ドイツの首相の座に就任しました。そして、ドイツの繁栄と、アーリア人の血を守るために、ヨーロッパを統一することを考え、隣国を攻め、第2次世界大戦を始めました。
ヒットラーは、アロイス・ヒードラーとその従妹(いとこ)であったクララとの間の4男として、1889年オーストリアで生まれました。カトリック教では、血縁(けつえん)関係のある男女間の結婚は認められないため、二人は「血族(けつぞく)結婚に関する特別な免除(めんじょ)」を教会に願い出て、ローマ教皇庁からの許可をもらっています。ヒットラーの父親のアロイスは、正式な結婚で生まれた人ではなかったため、「ユダヤ系の人間だったのでは」との疑いもありましたが、歴史家の詳細な調査の結果、ユダヤ系ではなかったことが分かっています。
ヒットラーは誕生してすぐに、カトリック教会で洗礼を受け、アドルフ・ヒットラーと名付けられました。ヒードラーからヒットラーへの変更は、ドイツ語で読みやすくしたことが原因だと言われています。ヒードラーは、身分の低い人に多い名前だったことも、この変更の理由だったとも言われています。ヒットラーが3歳の時、家族は、南ドイツのバイエルン王国に移住しました。ヒットラーのドイツ語にはなまりがあり、「南部なまり」とされています。これは、バイエルン地域で育ったことが影響していたと考えられます。
ヒットラーは、中学校を卒業した後、公証人を務めていた父親の勧めで職業学校へ進学しました。しかし、本人は大学への進学を望んでいたと言われています。この時の父親との対立から、父親が支持していたハプスブルク帝国主義を嫌い、ドイツ民族主義に傾倒し始めたようです。多民族国家であったオーストリー・ハンガリー帝国は、ヒットラーの目には、雑多な民族が集まった国家のように見えていたようです。学校でのヒットラーの成績は悪く、結局、卒業はできませんでした。
1907年、ヒットラーは、オーストリアのウィーンに移り住みました。ヒットラーは、学歴に関する制限の緩いウィーンの美術アカデミーの入学試験を受けました。しかし、不合格となりました。受験に失敗したヒットラーは、学長に会って入学の許可を求めたようですが、学長から「画家ではなく建築家の方が向いている」と言われ、建築に興味を持ちましたが、建築家になることが難しいことを知って、結局、諦(あきら)めました。1907年、母親のクララは病死しました。その後もヒットラーは、ウィーンに住み、絵葉書などを売って生活していたようです。
1913年にヒットラーは、オーストリアの徴兵から逃れるためにドイツのミュンヘンへ移住しました。この時、ヒットラーは、ドイツ政府に「無国籍者」であると申請したそうです。この問題によって1914年にヒットラーはミュンヘン警察に逮捕され、オーストリア領事館へ引き渡されました。1914年の徴兵検査では、ヒットラーは兵役に不適格とされました。1914年8月に第1次世界大戦が始まると、ヒットラーはバイエルン王に手紙を送り、陸軍を志願し、義勇兵として入隊を許されました。ヒットラーは、この戦争で伝令として働き、活躍したようです。
1918年にヒットラーは、毒ガス攻撃を受け一時的に視力を失いました。失明の原因には、精神的なストレスによるとする説もあります。この時、ヒットラーは、自分の使命は「ドイツを救うことである」と考えたようです。1918年11月に共和制宣言が出され、バイエルン王国はバイエルン共和国となりました。この頃、ヒットラーは兵士組合の評議員となり、その後、労働者党党員になりました。そして、ヒットラーは、この頃から反ユダヤ主義思想を鮮明に打ち出すようになりました。
1920年にヒットラーらは、党名をナチ党に変更し、ヒットラーは第一議長となりました。そして、ナチ党は他の右派政党を巻き込み、ドイツ闘争連盟を結成してベルリンへ進軍するように提案しました。バイエルン州総督にベルリン進軍を決意させるため、ヒットラーは、ドイツ闘争連盟を率いて総督が演説をしていたビアホールを占拠して、総督にベルリン進軍を承認するように迫りました。総督は一旦はヒットラーの案を受け入れましたが、直ぐにその場から逃げ出し、逆に、闘争連盟の鎮圧を行いました。これに対してヒットラーは、ミュンヘンの中心部に向けた行進を強行し、警察との衝突となりました。
この事件の後、ヒットラーは、一時、現場から逃れ潜伏していましたが、直ぐに逮捕されました。裁判にかけられたヒットラーは、全責任を負って自らの主張を述べる方法で、多くの支持者を獲得したそうです。この裁判で、ヒットラーは演説家としての才能を発揮したようです。
この裁判で、ヒットラーは懲役5年の判決を受け、刑務所に収容されました。その刑に服している間に、ヒットラーは、著書「我が闘争」を書きました。その後、ナチ党は。左派と右派との間での権力闘争で分裂しましたが、最終的に、右派が勢力を増して、1928年の国会議員選挙を戦いました。しかし、ナチ党は、わずか12名の当選に止まりました。
1929年に始まった世界恐慌の影響で、ドイツの景気は極度に悪化し、失業者の増加で社会の情勢は不安定になりました。そのような背景もあり、1930年の国会議員選挙では、ナチ党の得票率は18パーセントとなり、第一党のドイツ社会民主党の24.5パーセントに次ぐ得票率を得ました。1932年にドイツ国籍を取得したヒットラーは、大統領選挙に出馬しました。その結果、現職の大統領に次ぐ得票を得たヒットラーは、ナチ党の躍進に大きく貢献しました。1932年7月の議会選挙では、ナチ党は37.8パーセントの得票率で、ドイツ社会民主党を抜いて第1党の地位に着きました。
1932年11月、ドイツ議会で内閣不信任案が可決となり、再び国会議員選挙が実施されました。この時、ナチ党は共産党が主導した交通ストライキに対して突撃隊による暴力的な攻撃をしたため、ベルリン市民からの反発を買い、得票率を4パーセントまで、下げましたが、第一党の地位は保ちました。このような情勢の中で、共産党の躍進に危機感をもった富裕層は、ナチ党の政策には疑問を持ちながらも、共産党の躍進を抑えることを優先して、共産党に対抗する勢力としてナチ党を支援しました。これによって、ナチ党への政治献金が増加しました。しかし、この時点でもナチ党の資金の多くは党員から集められた党費でした。、
選挙後に作られた内閣も混迷を極め、その混乱状態を打開するため、ヒットラーは大統領の支援も得て、1933年1月に首相に就任しました。この時ヒットラーは、(1)国際社会との共存、(2)ワイマール憲法の順守、(3)共産党非弾圧、の3点を国民に対して約束したそうです。そして新内閣を発足した2日後に議会を解散し、3月に再び国会議員選挙を実施することとしました。この選挙で、ナチ党は、単独過半数は獲得できませんでしたが、議会の45パーセントを占めることになりました。そして、共産党議員やドイツ社会民主党の議員を逮捕しました。さらに、新しい法律を定めて、これらの議員が国会の議決で投じた票は、無効とするようにしました。これによってナチ党は、憲法の改正に必要な国会議員の3分の2を占めることとなりました。
1933年の3月、他党の協力も得て、国会で全権委任法(ぜんけんいにんほう)を可決させ、議会と大統領の権限を制限して、独裁的(どくさいてき)な政治の運営を可能としました。7月には、ナチ党以外の政党の活動を禁止して、ナチ党とドイツの国家を同じものとする体制が出来上がりました。さらに1934年8月に大統領が死去すると、ヒットラーは「国と国民の国家元首(こっかげんしゅ)に関する法律」を定めて、大統領の職務(しょくむ)と首相の職務を合体させました。この時、実施された国民投票では、89.9パーセントの賛成票を獲得したそうです。そして、ヒットラーは、総統(そうとう)と呼ばれるようになりました。ヒットラーは、閣議(かくぎ)を開かずに、大筋の方針を定めた文書を回覧(かいらん)して決裁(けっさい)をするやり方をしたそうです。詳細は、行政を取り仕切る役人に任せました。このため、ヒットラーの方針を役人に伝える総統官邸(そうとうかんてい)長官の権威が高まりました。
このような事情から、行政組織内における各組織間の独立性(どくりつせい)が高まり、全体の統一性(とういつせい)を保つことが難しくなっていたそうです。つまり、権限が重複するような問題では、組織間で対立が深まり、調停(ちょうてい)ができないことも多かったようです。調停は、ヒットラーしかできないと言う場面も多く、ヒットラー個人への権力集中が著しかったようです。ヒットラーは、その現実に気づきながら、わざとそのままにしていたとも言われています。「ヒットラーにしか全体が分からない国」と言われたようです。このような問題を持ちながらも、ヒットラーは第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約で禁止されていた航空省を設置し、再軍備化(さいぐんびか)を進めてゆきました。
1936年ヒットラーのドイツは、当時、非武装(ひぶそう)地帯とされていたフランスとの境界にあるライン地方へ軍隊を進めました。このとき、イギリスやフランスが対抗措置(たいこうそち)をとるやり方もありましたが、両国はこの問題を放置しました。この事件で、ドイツ国内でのヒットラーの評判は著しく向上したそうです。そして、ベルリンオリンピックがドイツで開催され、ナチ党の宣伝に利用されました。この時、諸外国からの批判を避けるため、ヒットラーは、反ユダヤ的色彩を弱める方針を取りました。しかし、ドイツの国力が増大したこともあり、ヒットラーは、「ゲルマン民族の優越性()ゆうえつせい」と「反ユダヤ主義」を再び表明するようになりました。
ヒットラーは、1920年代から、「第1次世界大戦に負けて分断されたドイツ帝国を再統一する」、「国家の繁栄のために必要な資源を確保するためロシアやバルカン半島方面に領土を拡張する」、「ロシアの共産主義者を撃滅(げきめつ)する」を対外的な政策の基本に置いていたそうです。この第三の点は、当時のヨーロッパの多くの知識人が怖れていたロシアの共産党革命思想の影響を食い止めると言う意味で、多くの人々の意識に合っていました。このため、イギリスなどの国々の人々の中にも、「ヒットラーのドイツが反共産主義(はんきょうしゅぎ)の盾(たて)になる」と考えていたようです。このことが、ヒットラーの再軍備計画を暗に容認する態度に向かわせた原因であると言えます。
1935年にイギリスとドイツが締結(ていけつ)した英独海軍協定は、ドイツ海軍の軍艦をイギリスの35パーセント、潜水艦の保有をイギリスの45パーセントとしました。これは、第1次世界大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約の制限を無視したものであり、フランスなどの反感を買いました。このため、フランスはロシアに接近し、露仏相互援助(ろふつそうごえんじょ)条約が締結されました。このフランスとロシアの条約が結ばれたことが、ヒットラーによるドイツ軍のライン地方占領の引き金になったと考えられています。ヒットラーは、イギリスがドイツの侵攻を暗に認めるであろうと考えていたようです。そしてフランス軍の反撃もなかったため、ドイツ軍の侵攻・占領は、国際社会で暗に認められたことになりました。フランスは、国際連盟に提訴(ていそ)しましたが、ドイツに対する制裁(せいさい)はありませんでした。
1936年7月、ヒットラーは、スペイン内戦でフランコ政権の支持を決め、イギリスとの交渉で「共産主義からドイツを守る」と言う方針を述べ、理解を得たそうです。そして、イタリアと協調してフランコ政権を承認し、ドイツは空軍部隊を派遣しました。1937年にはピカソの絵でも有名なゲルニカの爆撃が行われました。この間、1931年に満州事変を起こし、ソ連、イギリス、アメリカ合衆国との関係が悪化していた日本とドイツとの関係が親密化し始めていました。1936年11月に、ソ連への対抗を目的として、日独防共協定が結ばれました。1937年末にヒットラーは、陸海空軍の首脳を集め、東方生存圏獲得を目的とした戦争計画を伝えました。この計画に批判的だった国防大臣は、陰謀によって追放されたそうです。ヒットラーは、ドイツ軍を完全に手中(しゅちゅう)にしました。
この頃、ヒットラーは、イギリスの枢密院(すうみついん)議長と会談し、「オーストリアやチェコスロバキアとの国境線の平和的な変更に対して、イギリスは反対しない」との支持を得ました。ヒットラーは、1936年からオーストリアの併合を視野に入れて合意を作成していました。1938年2月にオーストリアの首相と会談し、オーストリアが自発的にドイツとの統合に向けた準備をするように求めたそうです。しかし、国民投票を行うという首相の計画を知ったヒットラーは、軍事侵攻を決断し、実施しました。この軍事的な侵攻に対して、オーストリア軍は抵抗しなかったそうです。そして、ヒットラーは、旧オーストリアをドイツ帝国の一部として組み入れました。旧オーストリア国民もこれを歓迎したようです。
オーストリアの併合に成功したヒットラーは、第1次世界大戦後に誕生したチェコスロバキアに侵攻し、ドイツ系住民の多いズデーデン地方を併合しようと考えました。世界同時不況で失業者が数多く出ていたにもかかわらず、議会での議席がなかったドイツ系国民が多かったこの地域では、失業者へ支給される手当も少なく、不満が高まっていました。特に、1935年から1936年に制定された法律で、チェコ系の国民が公務員につくようになり、警察官もチェコ系の国民が選ばれるため、ドイツ系国民が多く住む地域にチェコ系の人間が警察官として着任する例が多かったようです。イギリス政府もチェコスロバキア政府に対してドイツ系国民に対する配慮がなければ、武力衝突が起きかねないと警告を発していました。そのような時、チェコ系の警察官がドイツ系の二人の男を射殺する事件が起こりました。
1938年、西部ズデーデン地方のドイツ系住民は、その地方のドイツへの編入を望み、具体的な行動を起こし始めました。ヒットラーは、この地域のナチ党指導者に武力行動を起こす指示を出したようです。これに対してチェコスロバキア政府は戒厳令を出し、対抗しました。イギリスの首相はこの時、ヒットラーと会談し、「事前交渉なしでもドイツ系住民が50パーセント以上住んでいる地域をドイツに編入することは認める」と約束しましたが、ヒットラーは、「ズテーデン地方全体を併合させる」ように要求したため、交渉はまとまりませんでした。この交渉決裂で、チェコスロバキア、ドイツ、イギリス、フランスは、臨戦態勢に入ったそうです。1938年9月、ヒットラーは、イギリス、フランス、イタリアの首相をミュンヘンに招いて会談を行い、ズデーデン地方をドイツに併合することを決めました。このときヒットラーは、イギリス首相と密かに協議を行い、「イギリスとは戦争をしない」と約束したそうです。当時、ヨーロッパでは、戦争を回避できたことを歓迎する世論があったと言われています。
ズデーデン地方の併合の後、ポーランドの実質的な管理下の下にあった自由都市ダンツィッヒの併合が問題になっていました。ヒットラーは、ズデーデン地方の併合に際して「これがドイツの最後の要求である」としており、ポーランドとの間に不可侵条約を結んでいたため、ダンツィッヒの併合は、ポーランドとの円満な2国間交渉で解決しなければなりませんでした。ドイツの外務大臣は、ポーランドの駐独大使にダンツィッヒの「ドイツへの返還と、ダンツィッヒへの交通路をポーランド領土内に建設することを認めれば、ダンツィッヒの経済と鉄道の管理についてはポーランドに任せても良い」とする案を示して、譲歩するように求めました。ヒットラーの予想に反して、ポーランドの外務大臣はこの提案を拒否しました。さらに、その年の11月に、ポーランドからパリに逃れてきていたユダヤ人が、ドイツ大使館で書記官を射殺しました。
ドイツとポーランドは、ドイツが出した提案について、何度か話し合いましたが、結局妥協点は見出せませんでした。ヒットラーは、ポーランドの外務大臣とミュンヘンで直接会談を持ち、譲歩案を示しましたが、外務大臣はその場で譲歩案を拒否したそうです。これによって、外交交渉でダンツィッヒをドイツに併合することは難しくなりました。1939年にアメリカ合衆国の駐フランス大使は、ポーランドの駐フランス大使に対して、「アメリカは、イギリスやフランスとポーランドを支援する」と言う大統領の決意を伝えていました。また、イギリスに対してもアメリカのルーズベルト大統領は、「対ドイツの外交方針を変えなければ、米国の世論は反イギリス的になる」と警告し、ドイツからイギリスの大使を召喚するようにと要求したそうです。このため、イギリスも対独強硬姿勢(たいどくきょうこうしせい)に変わりつつありました。
ヒットラーは、イギリスの対独外交方針の変換に怒り、独英海軍協定と独ポ不可侵条約の破棄を発表しました。また、ポーランドの外務大臣は、「ドイツとの交渉を拒絶する」と表明しました。ドイツは、「イギリスとフランスがポーランドに圧力をかけて外交交渉を再開させる」と考えていることをフランス大使は、本国に報告していました。このときヒットラーは、夏までに交渉がまとまらなければ、ポーランドに対して軍事作戦を行うことを決め、ポーランド侵攻作戦を策定しました。ヒットラーは、全面戦争は想定していなかったのですが、ソ連がイギリスやフランスと協力して戦争になる可能性もあったため、ソ連との和平協議を始めることにしました。そして、ドイツとソ連は1939年8月に独ソ不可侵条約を結びました。そして、その裏でポーランドをドイツとソ連で2分することに合意しました。
1939年8月にドイツ政府は、イギリス政府に対して、改めてポーランド政府に対してドイツとの交渉に臨むように助言を要請しました。その一方で、8月末にポーランドへの攻撃を開始するように準備を進めました。この時点で、ヒットラーは、ポーランドへの侵攻は、限定的であることをイギリスに伝え、イギリスとの戦争は想定していないことを伝えたそうです。イギリスは、ポーランドに対して外交交渉をするように説得したようです。しかし、ポーランド大使はドイツ案を考えたいと答えたものの、ドイツが要求した全権大使を派遣して来ませんでした。ドイツは、31日の午前中まで待ったそうです。そして、ヒットラーは、31日の午後、ポーランドへの侵攻を命令しました。ドイツ軍は、9月1日にポーランド侵攻を開始しました。これに対して、イギリスとフランスは、9月3日にドイツへの宣戦布告(せんせんふこく)を行いました。これによって、第2次世界大戦が始まりました。
アジアでは、モンゴルと中国東北部との国境地域で起こった日本軍とソ連軍との部力衝突を解決するための停戦協定が9月15日に結ばれたため、9月17日、ソ連軍はポーランドの東部に侵攻しました。ドイツとソ連の両軍に攻め込まれたポーランドは、9月末には両軍によって制圧され、ドイツとソ連は独ソ境界と友好に関する条約を9月28日に締結しました。10月中には、ポーランド国内はほぼ完全に制圧され、ヒットラーはイギリスとフランス両国に向けて和平を呼びかける国会演説をしました。しかし、イギリスの首相は、チェコスロバキアとポーランドで行われた不正な行為に対する謝罪等がなかったとして、その和平提案を拒否しました。イギリスとドイツとの間では、全面対決を避けるための秘密交渉が行われましたが、すべて失敗に終わりました。そして、イギリスでは対独強硬派のチャーチルが首相の座に着きました。これによって、イギリスとドイツの間の関係は悪化し、全面的な対決が始まりました。
1939年末、アメリカ合衆国からスカンジナビア諸国にも戦火を拡大することを求められていたイギリスは、スウェーデンで産出された鉄鉱石が、ノルウェーの港からドイツへ向けて輸送されるのを止めるため、連合国最高会議での決定に従いフィンランナドへの上陸計画を決めました。1940年に入ってイギリスは、ノルウェーのフィヨルドに機雷を設置しました。ヒットラーは、デンマークとノルウェーへの侵攻をドイツ軍に命じ、デンマークを占領し、イギリスとフランスの連合軍に支援されたノルウェーとの戦いは6月まで続きました。5月にヒットラーはベネルックス3国とフランスへの侵攻も開始しました。6月には、フランスへの侵攻も順調に進んで、ヒットラーはベルギーとフランスの国境に近い前線基地に進みました。イギリスでは、敗北感が漂(ただよい)い始め、ヒットラーとの和平を求める声も上がりましたが、チャーチルはアメリカ合衆国の参戦を期待し、戦争の継続を主張しました。
フランス軍はドイツ軍に休戦を申し込み、1940年6月にドイツに対して降伏しました。その後、ヒットラーはイギリスに対して和平提案を行いましたが、イギリスはこれを拒否しました。ドイツ軍は、ノルウェーでの戦争で軍艦13隻を沈められていて、ドーバー海峡を渡ってイギリス本土に上陸し、戦うことはできませんでした。そこでヒットラーは、最初、空軍の力で制空権を得てから上陸作戦を行うことを考えました。しかし、ドイツ軍はイギリス軍に撃退され、イギリスとの戦いは続くことになりました。ヒットラーは、イギリスの戦意を封じるために、ソ連軍を粉砕することを命じました。1940年8月、アメリカ合衆国がイギリスへ軍艦を提供する計画が進行していることを知ったヒットラーは、アメリカが参戦することはないと考えていたため、アメリカの早い動きに驚いたとされています。このアメリカ合衆国からの支援を遅らせるためには、日本にドイツの同盟国としてアメリカをけん制させる必要があると考えたようです。
1940年9月、ベルリンで日独伊三国軍事同盟が結ばれました。ドイツは、ソ連がバルト三国を占領し、ルーマニアにも進行してバルカン半島に進行したことで、ルーマニアの石油を守る必要性を強く感じていました。10月にヒットラーはドイツ軍をルーマニアの主都ブカレストに進軍させ、ドイツの軍事的支配下に置きました。さらに、ドイツ軍は、フィンランドを経由してノルウェーを攻撃することをフィンランドに承認させました。これは、独ソ不可侵条約でフィンランドをソ連の勢力圏に認めた秘密文書の内容に反していました。このようなことからドイツとソ連の信頼関係は傷つき始めていました。ドイツとソ連の関係を修復するため、ヒットラーはソ連の首相兼外務大臣と会談して、フィンランドとルーマニアなどに関する問題を協議しました。両国は、真正面から対立し、妥協点は見出せませんでした。ドイツは、日ソ独伊四国協定に関する案を示しました。ソ連はこの提案を持ち帰り、スターリンから以下のような回答がありました。
フィンランドがソ連の勢力圏であることをドイツが認めること、ブルガリアにソ連軍の基地を建設することを認めること、ソ連はペルシャ湾に至る地域を領有すること、日本が樺太における石油石炭の採掘権を放棄すること、などでした。ヒットラーは、このソ連が提示した条件は受け入れられないとして、対ソ連の戦争を決意して、作戦計画を立案するように命じたそうです。1941年の5月に戦争を始める予定でした。ソ連のスターリンは2月までヒットラーからの返事を待ちましたが、ドイツ軍はソ連が要求していたルーマニアに進駐しました。さらに、日独伊三国同盟に参加したユーゴスラビアで反ドイツのクーデターが起き、新政府はソ連と不可侵条約を結びました。これらのことで、ドイツとソ連の関係はさらに悪化しました。ヒットラーは、日本をできるだけ早期に戦争に参加させ、イギリス軍と戦わせるだけでなく、アメリカ軍の関心を太平洋方面に引き付け、アメリカに戦争に加わらないようにすることだと考えていました。この日本への対英戦争開始の要請に日本はすぐには答えませんでした。
1941年の6月、ドイツ軍はソ連への侵攻を始めました。このころヒットラーは、不眠症になり、冠動脈硬化症(かんどうみゃくこうかしょう)も起こしていました。主治医は、心臓病の薬を投与し始めました。7月には、軍の首脳はモスクワへの進撃を主張しましたが、ヒットラーはウクライナの攻略を優先させるように命令しました。しかし、8月には、再度、モスクワへの進撃を指示しました。しかし、10月になって冬が到来し、雪によって道路状態が悪化し、進撃が遅くなりました。補給も難しくなりました。ソ連軍も体制を立て直し、反撃が始まりました。12月に前線の指揮官達は後退を主張しましたが、ヒットラーはそれを認めず、軍の幹部を辞めさせ、自分が指揮を執りました。この頃、日本はイギリス軍との戦争や、アメリカ軍との戦争を始めました。1942年中頃に日本軍がイギリス軍とのインド洋方面での戦いに勝ち、戦いを優位に進めていました。ドイツはUボートを派遣して日本海軍と共同の作戦を実行しました。
1943年にソ連との戦いで、スターリングラードの攻略戦を実施しました。しかし、ドイツ軍はソ連軍に包囲され、最終的にドイツ軍は降伏しました。さらに、北アフリカの戦いでもドイツ軍は敗北し、ドイツにとって戦局は一挙に悪化していました。ヒットラーは、開発中の弾道ミサイルV2や電動Uボートが完成すれば、ドイツ軍は再び優位に立てると考えていたようです。しかし、7月になって同盟国イタリアのムッソリーニが失脚し、北イタリアにムッソリーニを中心としたイタリア社会共和国を成立させることになりました。この頃から、ドイツでは、連合国の戦略爆撃が激しくなり、ヒットラーの不眠症はますます悪化したそうです。1944年の6月に連合国軍はノルマンディー上陸作戦を実施し、連合国軍はドイツ本国に迫り始めました。1944年7月にヒットラー暗殺計画が行われましたが、ヒットラーは奇跡的に助かりました。この事件の後の追求で処罰された人の数は、4千人ほどだったと記録されています。ドイツ軍は必死の抵抗を続けていましたが、8月にはドイツが占領していたフランスのバリが解放されました。
1944年の末に、連合国軍がライン川に迫った時、ヒットラーはドイツ軍を突進させて、連合国軍の補給を断つ作戦を実施しました。この作戦は、一時的に成功し、連合国軍を混乱させました。しかし、圧倒的な空軍の支援を受けた連合国軍はドイツ軍を押し戻しました。この作戦で、ドイツ軍は兵力や資材を失い、かえって戦局を悪化させました。1945年1月には、ソ連軍の侵攻を止められず、連合国軍もドイツ領域に攻め込んでいました。ドイツ軍は消耗しており、ヒットラーもベルリンの総統官邸の地下に作られた地下壕(ちかごう)に籠(こも)り続けていました。ヒットラーの健康状態も悪化しました。3月19日にヒットラーは、利用できるドイツ内の生産施設を全て破壊(はかい)するように命令しましたが、軍需大臣は戦後の国民生活が難しくなると言う理由で反対したそうです。4月16日にドイツの防衛線を突破したソ連軍はベルリン市内に進軍しました。4月22日にヒットラーは敗北を認めたようです。自殺を決意し、準備に入りました。4月29日に部下のヒムラーがイギリスとアメリカに降伏を申し出たことを放送で聴いたヒットラーは、4月30日、結婚式を挙げて、自殺したとされています。56歳でした。これによって、ヨーロッパでの戦争は終わりました。