原子爆弾とは

公開: 2019年8月16日

更新: 2023年11月29日

あらまし
ここでは、オーストリアからスウェーデンに亡命していた物理学者リーゼ・マイトナーが、核分裂を発見した結果、各国の物理学者がその核分裂によって発生されるエネルギを、爆発に応用して巨大な爆発力をもつ爆発物を開発できると考え、その研究に着手していたことについて、歴史をひも解いてみましょう。その最後の話題として、日本における原爆開発について歴史を振り返ります。日本では、陸軍と海軍を中心に核分裂の原理を応用した爆弾の開発を目的とした研究が展開されました。特に、理化学研究所におけるウラン爆弾開発のための研究が重要です。当時、天然ウランから核分裂を起こすウラン235だけを抽出する技術は確立していませんでした。理化学研究所が採用した方法では、ウラン235を抽出できませんでした。海軍の研究では、別の遠心分離機を使う方法が採用されましたが、遠心分離機が完成する前に戦争は終わりました。つまり日本では、原爆を作り、実験することはできませんでした。
日本の原爆開発〜理化学研究所での研究を中心として

日本での原爆開発計画の発端となったのは、陸軍航空技術研究所の所長が、1940年4月、核物理を学んだ経験のある数少ない部下の1人に、「原子爆弾を開発・製造することができるか調査せよ」と命じたことに始まりました。この研究所長は、それ以前から核分裂を応用した兵器を開発することに興味を持ち、原子物理学の権威であった理化学研究所の仁科博士から、基礎的な講義を受けていたそうです。彼は、将来、原子爆弾が実現されるであろうと予想していたと考えられます。

1940年5月に発表された仁科と木村らの論文で、ウラン238に中性子を当てたところ、核兵器の爆発によって生まれるネプツニウム237と言う物質が生まれたとの報告がなされました。この論文は、同年の米国の物理学誌フィジカル・レビューに掲載されました。さらに、この実験では1回の核分裂で10個以上の中性子が生み出されていたことも、イギリスの科学誌ネイチャーに掲載された論文で報告されました。これらの研究成果に基づいて、「原子爆弾の製造は可能である」とする報告書がまとめられ、陸軍に提出されました。

この報告書に基づき、陸軍航空技術研究所は、理化学研究所に対して「ウラン爆弾の製造可能性について」の研究が正式に依頼され、仁科博士らは、1940年6月から、本格的な研究に着手したと記録されています。そして、2年後の1943年5月に「ウラン爆弾の製造は技術的に可能である」とする内容の報告書が提出されました。この報告に基づき、陸軍において密かに、ウラン爆弾開発計画が始められました。

1943年5月、理化学研究所では仁科博士を中心としたグループにおいて「二号研究」と名付けられた計画が開始されました。この計画では、天然ウランに含まれるウラン235を熱拡散法(ねつかくさんほう)を使って濃縮(のうしゅく)する方法が、もっとも早く実現できると言う見通しから採用されました。1944年3月には、理化学研究所内に熱拡散法によるウラン濃縮施設が完成し、濃縮実験が始まりました。理化学研究所では、別のグループで、ウランが核エネルギ源として利用できることが知られる前から、ウラン鉱を探す取り組みを行っていました。このウラン採掘グループもウラン爆弾開発研究に加わりました。

この研究グループには、6フッ化ウランの製造を研究するグループもあったそうです。6フッ化ウランの製造は、経験がなく、フッ素を作り出すこと自体が大変難しかったようです。このグルーブの研究でフッ素の生成に成功するまで、約1年間を必要としたそうです。6フッ化ウランの製造に成功するためには、さらに1年間を必要としたそうです。ウランの分離実験を開始できたのは、第2次世界大戦が終わる直前だったそうです。

理化学研究所のウラン爆弾開発研究が進んでくると、研究者の中に、「この研究は成功しない」と考える研究者が出て来たようです。その理由は、仮にウラン235の分離ができるようになっても、爆弾を作るとなると膨大な量のウラン鉱石がが必要で、さらに当時、全国で1年間に消費される電力の約10パーセントに匹敵する、天文学的な量の電力が必要になると計算されていたからです。

理化学研究所で試されていた熱拡散法によるウラン235の分離は、ドイツやアメリカでも実験されました。1941年には、熱拡散法ではウラン235は分離できないことが分かっていました。理化学研究所でのウラン235の分離実験は、米軍の爆撃によって分離装置(ぶんりそうち)が使えなくなるまで、6回実施されたそうですが、本当に分離できていたのかは確認できていなかったそうです。仁科博士は、1945年5月には「原爆開発は不可能である」と考え、そのことを周囲の研究者には伝えていたようです。

ウラン鉱石の採集は、朝鮮半島や中国東北部でも試験的に行われましたが、うまくゆきませんでした。1944年12月に陸軍は、福島県石川郡での採掘を決めました。1945年に現地に工場を建設し、4月から戦争が終わるまで、旧制の中学校の生徒を動員してウランの採掘を行いました。この採掘場で採集されたウラン鉱石に含まれるウランの含有量はとても少なかったようです。

これに対して日本海軍では、中国の上海で130キログラムの二酸化ウランを買い付けていたそうです。さらに、チェコのウラン鉱山をドイツが支配していたため、ドイツの潜水艦に載せて560キログラムの二酸化ウランを輸入しようとしました。このドイツ潜水艦による輸送は、日本への航海の途中でドイツが連合国軍に降伏したため、日本に到着しませんでした。いずれにしても、原爆開発に必要な量のウランを集めることは不可能だったようです。

海軍の原爆開発研究は、1942年7月に大学の研究者を中心とした核物理応用研究委員会が発足したことに始まりました。しかし、この委員会は1943年の3月に、レーダ開発研究に努力を集中するため、中止されることとなったようです。ただ、この委員会に参加していた研究者達は、「原子爆弾は作れるが、現在の戦争が続いている間にはできないだろう」と予想していたようです。

この核物理応用研究委員会の後、1940年頃にドイツの火薬の専門雑誌に発表された「アメリカの超爆薬」と言う題名の論文を読んだ将校が、この論文を翻訳し、海軍内の火薬の専門家が原爆に注目していました。そして京都大学に研究を依頼することとしました。この依頼がいつのことであったのかについては、明確ではありません。1942年遅くであっと言う説、1943年であったと言う説、1945年のはじめであったと言う説などがあります。

この研究では、ウラン235の分離に遠心分離法(えんしんぶんりほう)と呼ばれる方法を採用することにしたそうです。遠心分離法では、6フッ化ウランガスを入れた円筒形の容器を高速で回転させ、比重の思いウラン238が外側に集まる原理を応用します。この遠心分離(えんしんぶんり)に必要な高速回転装置は、船や飛行機の航行に使うジャイロ(羅針盤)と同じ原理などで、実現は難しくないと考えたようです。しかし、その研究は、この遠心分離装置(えんしんぶんりそうち)の開発が終わる前に終戦を迎え、終わりました。

(つづく)