原子爆弾とは

公開: 2019年8月15日

更新: 2023年11月29日

あらまし
ここでは、オーストリアからスウェーデンに亡命していた物理学者リーゼ・マイトナーが、核分裂を発見した結果、各国の物理学者がその核分裂によって発生されるエネルギを、爆発に応用して巨大な爆発力をもつ爆発物を開発できると考え、その研究に着手していたことについて、歴史をひも解いてみましょう。ここでは、その3番目の話題として、米国における原爆開発について歴史を振り返ります。米国では、妻とともに米国へ移住していたイタリアの物理学者フェルミによる原子炉の開発から原子力に関する研究が始まりました。後に、ナチスの迫害を恐れて米国へ亡命していたアインシュタインらのユダヤ系科学者からの提言もあり、原爆開発を考えていた米国政府が、イギリスの首相チャーチルとアメリカ合衆国大統領のルーズベルトが直接会談し、その合意をケベック協定としてまとめたことから、米国での原爆開発は始はまりました。その結果、イギリスのチューブ・アロイズ計画の成果を引き継ぐ形で、米国のマンハッタン計画が立案され、巨大な国家予算と数多くの若い人材が投入され、世界で最初の本格的な原爆開発研究が着手されました。
マンハッタン計画〜アメリカの原爆開発

アメリカ合衆国の原爆開発計画の発端となった研究は、イタリアの物理学者で、1938年にノーベル物理学賞の授賞式でスウェーデンを訪問していたフェルミが、迫害を恐れたユダヤ人の妻のために米国への移住を決め、米国の大学で「遅い中性子を使う核分裂」の研究に従事したことから始まりました。フェルミは、パリの研究者グループが発見した天然ウランに中性子を当て、重水を減速材(げんそくざい)とした核分裂の連鎖反応を引き起こす研究をしました。フェルミは、この研究の結果に基づいて、1942年に世界で最初の原子炉の実現を行いました。1939年、ドイツから米国に亡命していたアインシュタインやシラードらのユダヤ人物理学者達は、ルーズベルト大統領宛に書簡を送り、ヒットラーのナチスが核分裂を応用した新しい爆弾を開発する可能性についての警告をしました。この警告に対して、ルーズベルト大統領とその周辺の人々は、天然ウランと重水を使った核分裂を応用する方法では、飛行機などでの運搬が可能な爆弾を作ることはできないと考えていました。

1939年10月に、ルーズベルト大統領は、その命令でウラン委員会を設置し、シラードが提起した核分裂を利用した新型の爆発物の現実性が検討されました。1939年11月に委員会は、潜水艦の動力として核分裂を利用する調査が重要であることを報告しました。その結果、核分裂を利用した爆発物の研究や調査は、必要がないと結論付けました。ただし、核分裂を爆発的に引き起こすことができれば、その威力が巨大になることも報告書に述べられていました。

1939年6月にドイツからイギリスに亡命していた二人の物理学者が、天然ウランから抽出されたウラン235だけを使い、高速な中性子だけで核分裂を起せば、核爆弾を作れる可能性があることを示しました。イギリス政府では、この研究成果を詳細に検討し、新型の爆弾の製造が可能であると結論付けました。イギリス政府は、1941年10月にこのことをアメリカ合衆国政府に伝えました。このイギリスから伝えられた新しい情報によって、米国の科学者達も、原子爆弾の開発が可能であることを知りました。

1942年10月、ルーズベルト大統領は、科学技術の軍事応用についての責任を担っていたヴァネバー・ブッシュとウォレス副大統領との協議で、核技術開発について議論し、核兵器開発プロジェクトについて承認しました。そして、ルーズベルト大統領はイギリスとの協調体制についても二人の提案を受け入れ、イギリスのチャーチル首相に手紙を書き、アメリカ合衆国とイギリス、カナダが協力して核兵器の開発に着手すべきであると提案しました。イギリスは、このルーズベルトの提案を検討し、1943年に米英2国間の協定を結ぶ決定をしました。

1942年まで、米国政府は、イギリスが独自に核分裂を応用した新しい爆弾の開発研究を行っていたことを知りませんでした。また、イギリス政府は経済力があるアメリカが核兵器の開発でイギリスを追い抜き、主導権を握るかもしれないと心配していました。この2か国の間での不信感を拭い去ることは、重要な政治課題でした。検討の結果、両国は、核兵器の開発を連合国の個々の国々が別々に行うのではなく、合同事業として共同実施することが重要であるとの考えで一致しました。このような背景で1943年7月、アメリカ合衆国とイギリスは、「チューブ・アロイズに関するアメリカとイギリスの政府間の共同管理に関する協定」(普通、ケベック協定と呼ばれています)を結びました。

この2国間協定では、以下の3点が合意されました。

  • 核兵器をお互いの国に対して使用してはならない。
  • 核兵器を第三国に対して使うとき、必ず両国の同意を得なければならない。
  • 核兵器に関する情報を、両国の同意なしに公表してはならない。

この協定によって、イギリスのチューブ・アロイズ計画は、米国の核兵器開発計画に組み込まれました。そのため、チューブ・アロイズ計画に参加していた科学者たちは、米国の核開発計画、マンハッタン計画に参加することとなりました。ルーズベルト大統領は、この核兵器開発計画の実施責任を、工場の建設にも経験が豊富な陸軍に任せることを決定していました。その責任者に任命されたのが、陸軍のグローブス大佐でした。

グローブス大佐は、マンタン計画の責任者に着任してすぐに、ウランの精製工場の建設地を決めました。また、開発研究に当たる研究者を取りまとめるリーダーとして、オッペンハイマー博士が選ばれ、西部のニューメキシコ州のロス・アラモスに研究施設が建設されました。この研究所には、チューブ・アロイズ計画の研究者達だけでなく、全米から著名な科学者が集められました。ルーズベルトに助言を与えていた物理学者のボーア、原子炉の研究をしていたフェルミ、後にコンピュータの開発で有名になるフォン・ノイマン達です。さらに、全米の大学から、若い研究者たちが数多く集められました。

グローブス大佐は、大量の原爆製造に必要なプルトニウムを生産するための工場を、人口密度が低く、水が豊富な西海岸のワシントン州に建設することを決めました。ここに建設された工場は、1943年の4月から稼働し始めました。マンハッタン計画では、最初に生成された少量のウラン235を、大量の火薬で爆発させた力で爆弾の反対側に置かれたウラン235に衝突させて最初の核分裂を起し、その結果として発生した高速な中性子が四方八方に飛び出させ、次の核分裂を起すという方法で連鎖的に核分裂を発生させるやり方の、「広島型原爆」を開発・製造しました。この製造には、大量の天然ウランから、ウラン235を生成しなければなりません。それでは、大量に爆弾を作り出すことは難しいという問題がありました。

ロス・アラモスの研究者たちは、ウラン235に代えて、同じように核分裂を起すプルトニウムを使った原子爆弾の開発に力を注ぎました。このプルトニウム爆弾は、広島型のウラン爆弾と同じように大量の火薬を爆発させて、その火薬の爆発で発生するエネルギを爆弾の中心に置かれたプルトニウムに向けて集中させることで、一挙に核分裂の連鎖を起こす方法を採用しました。このやり方は、爆縮(ばくしゅく)レンズと呼ばれるものです。この爆弾の製造で難しいことは、細かく区切られた球体の中のそれぞれの区画で、火薬が爆発する時間をしっかりと管理することにありました。この問題を克服するために、研究者たちは実験を重ね、実現のめどを立てることに成功したのです。

このようにして開発されたプルトニウム型の爆弾は、1945年の7月に、ニューメキシコ州の砂漠の中の実験場での、実際に爆発を起こすトリニティ実験で爆破実験が行われ、世界で最初の原爆実験として歴史に残されました。その時に、研究者や原爆開発にかかわった多くの技術者、兵士たちが見た、爆発は、それまでの火薬を使った爆弾の爆発とは比較にならないほど、巨大な爆発でした。つまり、研究者たちが予想していたよりもはるかに大きな爆発が観測されたのです。

このトリニティ実験成功の情報は、ルーズベルト大統領の急死によって、その後を引き継ぎ、ドイツでのイギリス、ソ連の首脳たちとの協議に参加していたトルーマン大統領に伝えられました。日本軍に対する、ソ連軍の攻撃を要請していたトルーマン大統領は、この報告を受けて、急遽(きゅうきょ)、宿舎でイギリスのチャーチル首相と協議し、ソ連軍の日本軍への攻撃は必要でなくなったとの結論に至ったようです。次の日の会議で、トルーマン大統領は、ソ連のスターリン首相に、強力な爆弾の開発に成功したとの話をしました。しかし、スパイからの情報でマンハッタン計画の進み具合を聴いていたスターリンは、あまり驚きませんでした。スパイから情報が漏れていたことを知らなかったトルーマン大統領は、そのことに驚いていたとの記録が残っています。

実は、チューブ・アロイズ計画でイギリスでの原爆開発に携わっていた、ドイツから亡命していた研究者の一人が、ソ連のスパイに、プルトニウム型原爆の原理や、その開発が最終段階にあるという情報を提供していたのです。ソ連も、すでに原子爆弾の開発に着手していました。ソ連の原子爆弾開発のことは、イギリスのチャーチルも知らなかったようです。それでもチャーチルは、ソ連人の科学技術の才能があれば、遅かれ早かれ、ソ連も原子爆弾を手に入れるだろうと心配していたようです。第2次世界大戦後の冷戦は、この時、始まりつつあったのです。

(つづく)