公開: 2019年8月14日
更新: 2019年11月29日
イギリスの原爆開発計画の発端となった研究は、フランスのパリにあった研究所の科学者達が、1939年に発表したウランの原子核が、分裂するときに2個か3個の中性子を発生させることから、核分裂は数珠(じゅず)つなぎで連鎖的に起こることを示した論文からです。この科学者グループの1人であったペランは、核分裂を連鎖的に起こすために必要な最小限のウランの量を計算しました。また、自然界にあるウランを使った核分裂で生まれた高速な中性子は、その速度を減速させなければ、その核分裂の連鎖反応を維持できないことも発見しました。その後、1940年にバリの科学者グループは、重水(じゅうすい)が理想的な中性子の減速材(げんそくざい)になることを突き止めました。フランスの軍需(ぐんじゅ)大臣は、重水を入手するためにノルウェーのヴェモルクの重水工場に在庫を問合せ、ドイツが大量の重水を発注していることを知りました。
このことから、フランスは、ドイツが原爆開発に着手していることを知り、ノルウェーに重水の軍事的な重要性について説明しました。ノルウェー政府は、この説明を受けて、全在庫を密かにイギリス経由でフランスに引き渡しました。この直後に、ドイツは第2次世界大戦を開始しました。この開戦をきっかけに、パリの研究者グループは、入手した重水をもってイギリスのケンブリッジに渡りました。
当初、イギリスでは、天然ウランを使った原爆の開発は非現実的(ひげんじつてき)であると考えられていました。しかし、1940年にドイツからイギリスに亡命していたオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、ウラン235を数Kg準備し、最初の核分裂で発生する高速な中性子をウラン235に当てることで、核分裂の連鎖反応を起こすことが可能であるとする方法を思いつきました。二人は、天然ウランからウラン235だけを分離(ぶんり)することができれば、飛行機でも運べる爆弾を作れることを示したのです。この場合、ウラン238が取り除かれているため、核分裂で発生する高速な中性子をそのままウラン235に当てて、次の核分裂を起こし、それによって発生する高速な中性子で次の核分裂を起こすと言うわけです。
このフリッシュとパイエルスの報告を受けたイギリス政府の最高秘密委員会(さいこうひみついいんかい)は、原爆の実現性について議論し、現実に利用できる原爆の開発が可能であると結論付けました。しかし、ドイツに近いイギリス本土には、原爆を製造する巨大な工場を建設できる安全な場所はありませんでした。イギリス政府は、1940年にティザードの使節と呼ばれる使節団をアメリカ合衆国へ派遣し、米国における核技術開発などに関する情報を収集しました。そして、アメリカのコロンビア大学において遅い中性子に関する研究が、フェルミらによって行われていたことを知りました。この報告では、遅い中性子の研究は、原爆の開発には直接的な関係はないとしていたそうです。
イギリスにおける原爆開発の課題は、ウラン235の分離になりました。この問題の解決を要請されたのが、フランシス・シモンでした。シモンは、1940年の12月に気体拡散法(きたいかくさんほう)を使った分離が最も実現性が高いと結論付けました。このために、大学と企業の共同研究が始まりました。しかし、1942年になると、アメリカ合衆国における原爆開発技術は急速に進み始めました。米国は、既に重水の製造や、ウラン235の分離に必要な6フッ化ウランの製造工場をもち、次の段階であるプルトニウムの研究や原爆の設計にも着手していました。
チャーチルは、イギリス独自の拡散炉(かくさんろ)や重水の製造、原子炉建設などを考えていたようですが、1943年に米英両国の政府関係者がロンドンで協議を持った結果、数か月の後に、チャーチル首相とルーズベルト大統領との間で、ケベック協定と呼ばれる合意が成立しました。これによって、イギリスの研究者と米国やカナダの研究者が共同で、原爆開発に取り組み、研究成果を両国で共有することとなりました。また、原爆の開発に成功した場合、両国の首脳の合意がなければ、原爆を使用することはできないとされました。この協定によって、イギリスは、それ以後、米国のマンハッタン計画に研究者を送り込み、協力することになりました。