公開: 2019年8月13日
更新: 2023年11月29日
ドイツの研究所で、オットー・ハーン達がウランに中性子を当て、その時にバリウムなどの新物質(しんぶっしつ)と中性子(ちゅうせいし)が生み出されることを発見したのは、1938年のことでした。このオットー・ハーンの実験結果を知らされたオーストリア生まれの物理学者リーゼ・マイトナーは、それが核分裂(かくぶんれつ)の結果であることを突き止め、世界に発表しました。さらにその1年後、フランスの物理学者たちが、この核分裂の結果として発生する中性子の数は、2個から3個であることを確認しました。つまり、1回の核分裂は、生み出された中性子が次の新しい核分裂を起こし、倍々ゲームのように次々と引き起こせることが分かりました。この性質を応用し、短時間に数多くの核分裂を連鎖的(れんさてき)に引き起こすことができれば、巨大な爆発力を得られることが分かりました。この核分裂で発生するエネルギは、ほとんどが熱エネルギとして放出されるので、爆発によって発生する熱は、とても高温になることが予想できました。
当時、ドイツは、ヒットラーが率いていたナチスが政権を握っていて、武力でヨーロッパ大陸を制服(せいふく)しようと考えていました。ヒットラーは、その目的を達成するために、当時の進んだドイツの科学技術の成果を利用することに積極的(せっきょくてき)でした。当然、ヒットラーは、1939年にオットー・ハーン達の研究者を集め、新しい爆弾を開発する計画を立てました。この計画には、ドイツの高名な物理学者であったハイゼンベルクも含まれていたと記録されています。この頃のドイツでは、アメリカ合衆国などの国々よりも核分裂の理論に関する研究は進んでいて、自然界にある天然ウランを濃縮(のうしゅく)して核分裂を起させ易いウラン235を大量に取り出すことが、技術的に難しいことを知っていました。そこで、ドイツの物理学者たちは、手に入りやすい自然界にある天然ウランを利用する核分裂の連鎖反応(れんさはんのう)に関する研究に着手しました。
ウラン235の核分裂で発生した中性子は、天然ウランに多く含まれるウラン238に吸収されてしまいます。そのため、核分裂の連鎖反応を起こすことができず、爆発を起こすことはできません。ところが、核分裂で発生した中性子の速度を遅くすると、中性子はウラン238に飲み込まれにくいことが分かっていました。さらに、ウラン235の核分裂も、速度の遅い中性子の方が起こりやすく、効率的であることが分かりました。ドイツの研究者達は、天然ウランに1パーセントも含まれていないウラン235を活用して核分裂を起し、99パーセント以上も含まれているウラン238に、発生した中性子を吸収させずに核分裂の連鎖反応を引き起こす技術を開発する道を選択しました。
この核分裂で発生した中性子の速度を落とすために必要になるのが重水(じゅうすい)です。重水を通過させることで、中性子の速度が遅くなることが分かっていました。しかし、ハイゼンベルクは、この重水を使う技術では、爆発を起こすための巨大な装置が必要になり、飛行機などでの運搬が可能な爆弾の製造は不可能であると考え、非現実的な方法であると主張していました。ドイツ軍は、当時の科学者達の要請に従い、1940年にノルウェーのヴェモルクにあった重水工場を占領しました。これによって、ドイツは、中性子の速度を減速するための重水を得ることができるようになりました。
1943年に入り、ドイツ軍の戦況は悪化し、新技術を応用した画期的な兵器なしには、ドイツ軍が連合国軍に勝利することはできないとの考えから、軍需(ぐんじゅ)大臣は、新しい技術による原子爆弾の開発をハイゼンベルクらに命じました。ハイゼンベルクは、そのためにサイクロトロンの建設が必要であると主張しました。ハイゼンベルクは、アメリカが巨大な予算を投入して原子爆弾の開発を行っており、ドイツでは資金が不十分で、その研究が遅れていることを講演で述べていたようです。講演で、「原爆開発にどれだけの時間が必要か」と問われたハイゼンベルクは、「理論は完成しているので、2年程度で完成する」と答えたそうです。この報告を受けたヒットラーは、原子爆弾の開発を「ユダヤ的な考え」だとして、無視したと伝えられています。
1943年2月に、ノルウェーの重水工場が、数名のノルウェー人決死隊によって爆破され、運転できなくなりました。これによって、ドイツ軍の原爆開発は実質的に続行不可能になったようです。1944年末に連合国軍はドイツ軍が占拠していたシュトラスブルグの原子物理学研究所を調査した時、1944年の後半でも原爆開発は実験段階にあって、開発計画は放棄された状態にあったことを知ったと記録されています。この間、ハイゼンベルクがチューリッヒの大学で講演を行ったとき、原爆開発計画に言及すれば暗殺せよとの命令を受けていたアメリカ人のスパイは、ハイゼンベルクが原爆に関係する技術について全く言及しなかったことから、ドイツの計画が進んでいないと理解したようです。暗殺のための拳銃を隠し持って講演を聞いていたそのスパイは、ハイゼンベルクを暗殺せずに帰国しました。
連合国は、ドイツが先に原爆を開発するのではないかとの懸念から、原爆開発を進めてきていました。しかし、現実には、ヒットラーは莫大な資金が必要な原爆開発が、非現実的(ひげんじつてき)なものであると早くから考えていたことを1944年末に知り、ドイツ軍の原爆開発計画が幻影(げんえい)であったことを知りました。このことはアメリカでの原爆開発に参加していた研究者にも伝わり、ドイツ軍の降伏で、原爆の必要性は無くなったとして、原爆開発研究から去った研究者もいたと記録されています。