原子爆弾とは

公開: 2019年10月30日

更新: 2023年12月3日

あらまし
ここでは、1945年8月6日に広島への原子爆弾投下が実施され、世界は最先端の科学的知識を応用した新しい兵器(爆弾)を作ることができることを知りました。また、その新しい爆弾の威力は、それまでの火薬を爆発させる爆弾では考えられないほどのものであることも知りました。その標的となった都市、広島や長崎はほとんど跡形もなく消え去ったからです。さらに、この新しい爆弾は、投下時の爆発で発生する破壊力だけでなく、投下後、地上に残る多量な放射線の影響で、長期に渡り被害者達を苦しめることも分かってきました。この新しい爆弾によって、世界がどう変わったのかについて考えてみましょう。
おわりに〜原子爆弾によって変わった世界

1945年8月6日、まだ朝日が昇る前、太平洋のテニアン島から数機のB-29爆撃機が離陸しました。そのうちの1機は、エノラ・ゲイという名前が書かれた、特別に改造されたB-29爆撃機でした。この爆撃機には、巨大な爆弾が積まれていました。このB-29の編隊は、日本の本州、岡山方面をめざして飛行を続けていました。編隊は、午前7時過ぎに瀬戸内海上空に到達し、神戸市を右手(東)に見て、左に旋回し、岡山市の上空を通り抜け、西へ向けて飛び続けました。午前8時頃、編隊は広島市の上空に到達しました。エノラ・ゲイを除き、他のB-29は、機首を上空に向け、急上昇を始めました。8時10分を過ぎた頃、エノラ・ゲイは、広島市の中心部上空に到達しました。エノラ・ゲイの爆撃手は、地上のある一点を注視していました。相生橋と呼ばれている橋の真ん中です。その標的に達したと判断した爆撃手は、巨大な新型爆弾を投下するスイッチを入れました。

爆弾がB-29の機体から落ち始めると、エノラ・ゲイは、エンジンを全開にして、急上昇を始めました。それから1分ほどして、エノラ・ゲイの搭乗員が、それまでに見たこともないような強い光の球が膨らむのを視たと思った瞬間、地上から湧き上がってくる巨大な雲がどんどんと爆撃機に迫ってくるのを見ました。先に、急上昇して高度10,000メートルの高さから、急上昇してくるエノラ・ゲイを見ていた他のB-29の搭乗員は、少し遠くから広島の上空に広がったキノコのような形の雲を見ました。そして、そのキノコ形の雲の写真を撮影しました。8時15分過ぎでした。

1945年8月6日、朝早く、広島の地上では、B-29の襲来を告げるサイレンが鳴り響きました。「空襲警報」です。その後、空襲警報は解除されました。広島市内の学校に通っていた中学生や女子高校生らは、市内に残っていた木造の民家が焼夷弾の攻撃で火事になり、その火事の延焼を防ぐために、木造家屋を壊す作業を始めようとしていました。また、市内の中央部にあった私立女子高校では、朝の集まりを終えて女子学生たちが自分達の教室に戻ろうとしていました。その時、広島市の上空、500メートルぐらいの空中で、強い光を放つモノが爆発し、次の瞬間、強烈な風(爆風)が吹き荒れました。ほとんどの建物は、飛び散りました。鉄筋コンクリートや石造りの建物の一部は、かろうじて原型をとどめていましたが、地上にあったほとんどの建物は、爆風で吹き飛ばされました。

少しすると、町のいたるところに、ひどい火傷を負った人々が逃げ場を求めて、呆然(ぼうぜん)として歩いていました。道路には、いたるところに焼け焦げた死体が転がっていたそうです。木造の家屋を壊す作業に参加していた中学生たちも、多くが家の下敷きや、爆風で飛ばされ、死んでいました。運よく、壊した建物の陰で、原子爆弾の閃光を浴びることなく、倒壊した建物の下敷きになり、爆風に飛ばされることなく助かった生徒が残っていました。助かった学生らは、壊れた家屋の下敷きになっていた同級生を助け出そうと、がれきを取り除き、自分達の力で崩れた家の屋根を持ち上げ、その下に埋もれた同級生を助け出そうとしていました。女学校でも、体育館の屋根の下敷きになって、命が助かった女子学生がいました。しかし、町の中心部では火災が発生し、火事が女学校の体育館へと迫っていました。それでも、何人かの女学生たちは、下敷きになって動けなくなっている友人を助けようと、がれきを取り除く作業をしていました。いよいよ、火災が壊れた体育館に迫ってくると、体育館の下敷きになっている女学生から、「もう、危険だから逃げて」と言われ、泣く泣くその場から立ち去った女子生徒もいました。

1945年8月15日、日本政府は降伏を認め、連合国側にポツダム宣言を受け入れることを伝えました。その後、直ぐに連合国軍は、日本を占領するため、日本国内の様々な都市に、軍隊を進駐させました。原子爆弾投下直後の広島にも、米軍などが進駐し、調査を開始しました。この調査に参加した米軍の兵士の中には、数多くの専門家(科学者や医者)も含まれていました。その中には、後に20世紀の世界に最も影響を与えた、倫理学者のジョン・ロールズもいました。ロールズは、帰国後、広島での経験を踏まえて、研究者として戦争に関する政治倫理に関する論文をまとめました。ロールズ以外にも、心理学者など様々な分野の専門家が、広島を訪れ調査を実施しました。

それらの調査の中には、日本人の研究者も参加した調査も数多くありました。中でも、原子爆弾の人体への影響を調査するABCCと呼ばれた米国政府直轄の組織が設置され、長期間に渡り、調査を実施しました。現在では、ABCCは、日本政府と米国政府が共同で調査を行う、「放射線影響研究所」として、今でも両国の研究者が調査を継続しています。また、日本の組織として、広島大学の医学部を中心として、「原爆医療研究所」も設置されました。特に、原爆医療研究所は、主として強い放射線を被ばくした人々に対する治療を研究する機関として、チェルノブイリの原子力発電所の事故や、福島第二原子力発電所の事故の後、現地の医療機関の活動に対する支援などにも協力してきています。このような原子爆弾の爆発で生じる大量の放射線の放出と、その放射線が地上に残って生物にどのような影響を与えるかについては、原子爆弾が実際に投下されるまで、人類はほとんど考えていなかった問題でした。

マンハッタン計画によって、ガンバレル方式の広島型ウラン原子爆弾が作られる過程で、より暴発の危険が低く、製造に危険が伴わない爆縮レンズ方式を採用したプルトニュウム型原子爆弾が考案され、製造されました。このプルトニュウム型原子爆弾は、ウラン型原子爆弾よりも爆発力が大きいのが特徴でした。米国の科学者達の中には、このプルトニュウム型原子爆弾の爆発で得られるエネルギを利用して、爆弾の内部で超高温の状態を作り出し、原子爆弾のように単純な核分裂で得られるエネルギよりも、もっと大きなエネルギが得られる核融合現象を利用した新型の爆弾を開発しようとする試みが始められました。今日、「水素爆弾」と呼ばれている核兵器です。これは、太陽などの宇宙の星が光り輝くための巨大なエネルギを作り出す核融合を、人工的に作り出すと言う考えです。

マンハッタン計画で研究チームを統括したオッペンハイマー博士も、当初、このアイデアに興味を持っていましたが、爆弾の内部でプラズマ状態を作り出すことは困難であるとして、より現実的なプルトニュウム型原子爆弾の開発に力を注ぎました。しかし、物理学者のフェルミは、オッペンハイマーらが開発に成功したプルトニュウム型原子爆弾が発生する巨大なエネルギを利用すれば、プラズマ状態を生成できるかもしれないと提案していました。アメリカ軍では、第2次世界大戦後のソ連との軍事拡大競争で有利な立場に立つため、核融合を応用する爆弾の開発が必要だと考え、その研究を財政的に支援しました。米国が水素爆弾の開発に成功してから、数年後にはソ連も水素爆弾の実験に成功しました。そして、その水素爆弾を地球の反対側へ運ぶための大陸間弾道弾も、米ソ両国で開発されました。その軍備拡大競争は、その後50年以上に渡り、両国の間で続きました。

米国とソ連が、より破壊力の大きな爆弾とそれを相手の国に投下するための運搬方法である大型ロケットの開発競争に没頭している時、第2次世界大戦中は米国と共同で原子爆弾の開発を行っていた、イギリスが原子爆弾の開発に成功しました。さらに、連合国の一員であったフランスも、原子爆弾の開発に成功しました。1960年に核兵器を保有していた国は、アメリカ合衆国、ソビェト連邦、イギリス、フランスの4か国でした。しかし、その数年後、中華人民共和国は1964年に原子爆弾の実験に成功し、1967年に水素爆弾の実験に成功しました。そして、1974年にインド、1998年にパキスタンが原子爆弾の爆発実験を行いました。さらに、2006年には北朝鮮人民共和国も原子爆弾の爆発実験を実施したとされています。さらに、確認はされていませんが、中東のイスラエルは、1979年に核実験を行ったとされています。

このように、20世紀後半の世界では、数多くの国々が核兵器を保有するようになり、核兵器を保有していることだけで、自国の安全保障を守れると言うわけではなくなりました。さらに、現代の世界では、核兵器は保有していなくても、日本のように原子力発電所が数多く建設され、稼働していたため、膨大な量の核廃棄物(プルトニュウムの原料)を保有している国が数多くあります。ドイツや北欧の諸国が有名です。核廃棄物からは、短時間でプルトニュウムを生成できるので、これらの国々は、核兵器を保有してはいないものの、保有に近い状態にあることには違いありません。今では、我々の住む日本も、そのような兵器ではない核の保有国になっています。特に、日本中の原子力発電所に保管されている核廃棄物の量は、膨大で、他の国々と比較にならないほどです。

第2次世界大戦のさなか、物理学者のボーアは、フランクリン・ルーズベルト大統領に対して、核の国際管理が重要になると提言しました。また、1945年6月、フランクとシラーを中心とした米国の科学者たちは、無秩序な原子力の利用や兵器への応用は、「その管理や利用に関する国際的な合意が確立していない状況」では、倫理的に問題が多く、原子爆弾の投下はすべきでないとの意見書(フランク報告書)をまとめました。1945年8月に第2次世界大戦が終わり、世界では原子力発電など、原子力の商業的利用に対する関心が高まって来ました。このことは、核兵器の全世界への拡散を早める可能性があるため、原子力の利用を国際的に管理すべきであるとの考え方が広まりました。そのような世論の流れの中で、1953年の国連の総会においてアイゼンハワー米国大統領は、「平和のための原子力」演説と呼ばれる提言を行いました。

この演説を契機として、国連では国際原子力委員会(IAEA)設立の機運が高まり、1954年にIAEA憲章の草案を作るための協議が始まりました。この憲章は、1956年の国連会議で採択され、1957年7月にそれを批准した国々の数が必要数を上回ったため、IAEAが発足しました。2016年現在、加盟国数は167か国になっています。IAEAの活動では、原子力の平和利用を推進するために、原子力の軍事利用への転用を防止することを目的として、(1)加盟国間での物資や施設等の提供や施設建設の仲介を行い、(2)加盟国の科学者・専門家間での情報交換を推進し、(3)原子力が軍事上の利用目的に転用されることを防止する対策を実施し、(4)原子力の利用による人命や健康上の問題の発生を最小限にするための安全基準の設定を行うことになっています。しかし、現在、北朝鮮などの国々は、IAEAに加盟しておらず、IAEAの調査団の入国を認めていません。したがって、原子力の国際管理が完全に機能している状態にあるとは言えないのです。

平和利用であるか軍事利用であるかに関わらず、原子力を利用すれば、その利用後に核廃棄物(核のごみ)が生まれます。兵器であれば、使われなかった核兵器は、プルトニュウムなどがそのままの形で残ります。そして、それは半永久的に放射線を出し続けます。また、原子力発電などで利用したウラン燃料は、核分裂を起こした後、プルトニュウムを含んだ新しい物質に変わります。つまり、原子力発電をすれば、原子爆弾の原料がどんどん生産されます。そのような純粋なプルトニュウムや、プルトニュウムを含んだ放射性物質を長期間に渡り、どのような場所に、どのように保管し続ければよいのかについて、私たち人類は、良い案を持っていません。プルトニュウムを含んだ物質は、ほぼ半永久的に放射線を放出するので、それをどこに保管すれば良いのかは大問題です。深い穴を掘って、周囲を分厚いコンクリートで固め、その場所に何千年も放置する方法しかないのが現状です。

今後、地球上の二酸化炭素を減らすため、化石燃料に代えて、発電のために原子力を利用する場合、核廃棄物の量は加速度的に増加し、簡単には保管することができなくなる可能性が高いでしょう。この問題を解決できる見込みがないにもかかわらず、今の人類は原子力を無秩序に利用しようとしているのです。平和利用だから許されると言うものでもありません。さらに、地下深いところに保管されている核物質を取り出して、その材料を利用して原子爆弾などの核兵器を作ろうと考えるテロリストなどが出てこないとも限りません。それを防ぐためには、軍隊や警察のような武器を持った人々によって、核廃棄物保管場所を守る必要があります。そのための人員は、どこから集めてくれば良いのでしょうか。そして、その経済負担は、誰が負うべきなのでしようか。残された問題は、どれも解決が困難なものばかりです。

原子力は、ある視点から見れば、小型で巨大なエネルギを大量に取り出すことができる魔法の技術です。自動車に積めるほどの、小型で安い原子炉を開発できるかどうかは分かりませんが、もしそれができれば、自動車を動かすのにガソリンエンジンやディーゼルエンジンは、いらなくなります。水素エンジンも必要ありません。一度搭載された原子炉は、自動車の寿命より長く持ちますから、燃料を取り替えたり、継ぎ足したりする必要もありません。まるで、永久に動く機械のようになります。しかし、そのようなことをすれば、いつか地球上は核廃棄物でいっぱいになってしまいます。最初に自動車を購入する人には便利かも知れませんが、200年後に、残された核廃棄物の処理をしなければならない人々にとっては、大変な迷惑になります。

単純化して考えると、人類は、人類が作ったものを将来、どのようにして廃棄すれば良いのかが分からない場合、そのようなものを作って、使ってはいけないのでしょう。木や陶器のように土に帰る物質であれば、問題はありません。しかし、プラスチックのような材料を使う場合、使用した後、その材料をどう再利用するのかを決めずに、単に安く作れる便利な材料だからと言って、ものを大量に生産し、地球環境を汚染して良いと言うことにはなりません。これが、現代社会が受け入れられる倫理観でしょう。それを、より一般化して考えれば、原子力は、現在の人類の知識を前提とする限り、安易に人類が利用してはならない技術であり、物質なのではないでしょうか。そう考えると、原子力発電も許してはならない技術となります。そうすると、日本の電力会社が、現在の電力の価格で、各家庭に電力を供給するのは無理になるのかも知れません。しかし、よく考えると、原子力発電で生まれる核廃棄物を非常に高い経済的負担で、保管・処分しなければならないのは100年後の、我々の子孫なのです。人類には、新しい時代のための、新しい倫理観の確立が必要になっています。

西洋の逸話に、「魔法使いの弟子」の話があります。魔法使いの弟子は、魔法使いに弟子入りして魔法を学んでいます。ある日、師匠(ししょう)の魔法使いが用事で家を後にしました。魔法使いの弟子は、それまでに習った魔法を試してみたかったのですが、魔法使いはそれを許しませんでした。魔法使いは、魔法を解く方法を教えるまでは、弟子に魔法を使うことを禁(きん)じていたのです。魔法を解く方法は、魔法使いが弟子に教える最後の教えだったのです。魔法使いの弟子は、師匠が居なくなるのを心待ちにしていました。魔法使いが、用事のために家を出ると、魔法使いの弟子は、この時とばかりに習った魔法を使い始めました。部屋を片付けたり、箒(ほうき)で床を掃(は)いたり、床を雑巾(ぞうきん)がけをしたり、湯をわかしたり、料理をしたり、みんないつもは全部自分でやっていたことを魔法でやってみました。自分は一切働くことなく、全て魔法でどんどん仕事が片付いてゆきました。少しして、一通りのことが終わりそうになった時、魔法使いの弟子は魔法を止めようとしました。

その時、魔法を止める方法を教えてもらっていないことに気づきました。しかし、もう手遅れです。風呂に水をくむ魔法が解けないため、風呂にはどんどん水が入ってゆき、いつの間にか、水は風呂からあふれだしました。魔法使いが用事を終えて、家に戻った時、家の中がめちゃくちゃになっているのに気が付きました。もちろん、魔法使いは弟子を怒りました。この寓話(ぐうわ)が教えていることは、「一連のことを理解するまで、人間は新しいことを試してはならない」と言うことです。原子力は、人類にとっては、魔法なのです。

21世紀になって、人類は、自分達が大問題に直面していることに気付き始めました。それは、政治家の中には、核兵器のような「巨大な力を、自分のために使おう」と考えるかもしれない人がいることです。選挙で選ばれるからと言って、政治家の全てが正義感や正しい倫理観を持ち、自分の国の軍事力を正しい目的のために利用することができる人であるとは限らないことです。巨大な軍事力を、自分の野望のために利用する政治家が出現するかも知れないのです。人類は、そのような政治家の出現を未然に防ぐ知恵を持っていないのです。歴史を振り返れば、20世紀のヒットラーや東条英機、21世紀のロシアのプーチン大統領のような政治家が生まれたことが分かります。また、民衆を惑わして権力を握ろうとするポビュリズムも、いくつかの国々で台頭しつつあります。民主主義には、そのような脆弱性(ぜいじゃくせい)も隠れているのです。

(つづく)