公開: 2019年10月31日
更新: 2023年12月9日
1945年8月6日、米軍による広島への原子爆弾投下が実施され、8月9日にも、長崎に2発目の原子爆弾が投下され、同じ日にソ連軍の攻撃が始まるまで、ソ連を仲介として、日本の天皇制を維持できると言う条件での停戦を、連合国側と結べる可能性があると信じて、当時の日本政府首脳は、日本本土での決戦に敗北するまで戦うことを主張した軍部の一部の指導者の主張を受け入れ、結果として膨大な数の戦争犠牲者を生み出しました。さらに、8月15日のポツダム宣言受諾を表明した後でも、中国大陸においてソ連軍に拘束され、長期に渡ってシベリアでの過酷な労働に従事させられた男性の日本人を数多く生み出しました。そのことが原因で落命した多数の元日本軍兵士もいました。そして、ソ連軍の突然の侵攻で、北部中国大陸や南カラフト、千島列島においては不本意にも自らの命を絶った人々もいました。
日本政府や軍部の首脳達の決断が数か月、早ければ、これらの尊い命は、失われずに済んだはずでした。さらに、原子爆弾が投下された後、投下後の町で肉親を探した市民や、犠牲者の介護に奔走した人々の中には、残留放射線を受けたため、長期に渡ってその後遺症に悩んだ人々も少なくありません。また、自分が被爆してはいないものの、両親やその一方が被ばくしていたことが原因で、染色体異常などが発生し、その問題に悩んだ人々(被爆2世)も少なくありません。たとえ生き残ることができても、その後の社会で、人々の間に生まれた偏見によって、様々な差別を受けた人々もいました。政府や軍部の首脳にとっては、開戦の決断は容易ですが、戦争は一旦始まると、簡単には終わらせることができません。そして、戦争は、特に20世紀以降の戦争は、一般の市民に多大な犠牲を強いる結果となります。
戦争に勝った国においては、戦争の犠牲者は少ないとは言え、指導者達にはその決断の是非、特に倫理的な問題について、後世の研究者や思想家からの検証を受けなければなりません。「勝ったから良かった」ではすみません。現代の米国社会では、「原子爆弾の投下は正しかった」とする意見も半数程度ありますが、「長崎に2発目の原子爆弾を投下したことも正当化できるか?」とする質問にも「正当化できる」とする回答は少数です。つまり、大統領の行為は、国民からの批判に晒(さら)されています。国民も政治家も、戦争を始めるとき、その行為が後世どのような批判に晒(さら)されるのかを十分に吟味しなければ、着手をしてはならないのです。戦争は、一時的な国益や、体面を守るだけのために始めることはできない行為なのです。
1945年3月、米軍のB-29による都市への無差別爆撃が実施され、1945年6月、沖縄における日本陸軍の組織的な抗戦ができなくなってからは、日本軍の敗北は、誰の目にも明らかでした。もともと、太平洋地域におけるアメリカ合衆国との戦争は、国力の差を冷静に考えれば、着手すべき戦争ではありませんでした。さらに言えば、1944年の夏、フィリピン沖の海戦で日本海軍が負け、ビルマで日本陸軍がインパール作戦に失敗し、米海軍海兵隊が奪還したサイパン島の攻防で、日本陸軍が負けた時から、日本軍の軍事的な劣勢は明確になっていました。特に、レーダーの進歩や、B-29の開発など、兵器の面でも日本軍の装備は貧弱なものになり始めていました。
この時、講和への道を模索しなかった当時の政府や軍部の首脳の見通しの甘さは、非難されるべきでしょう。東條内閣の総辞職の直後から、政府の高官達はもっと真剣に、停戦・講和の道を模索すべきでした。そのような積極的な停戦の模索しなかった日本政府や日本軍の態度が、1945年の6月初めになってから、ソ連を仲介とした和平の道の模索を始めると言う外交政策の大きな失敗につながりました。この1945年6月の時点では、ソ連はドイツ軍降伏後の対日本戦争開戦を、すでに米国などに約束していたからです。日本政府は、1945年1月までに、ソ連を仲介とした講和への外交努力を始めていなければなりませんでした。その結果、1945年8月6日に、たった1発の原子爆弾によって、7万人以上の市民を犠牲にした原子爆弾の投下と言う、取り返しのつかない悲劇を起こしました。
第2次世界大戦終了後、日本を占領した米軍は、日本が再び戦争を始めることのないように、日本の民主化を徹底して行おうとしました。それまでの大日本帝国憲法に替わって、日本国憲法を制定し、天皇を統治者ではなく、日本と国民統合の象徴に変えました。このことによって、占領軍は、「日本人が天皇のために命を捨てても戦う」という態度を改めさせようとしました。しかし、1国の国民が、長い年月をかけて築き上げた精神や文化は、簡単には変えられません。例えば、日本軍の兵士として戦場に散った人々の霊を祀(まつ)っていた、靖国神社は、国家の管理からは外されましたが、宗教法人として残りました。そして、靖国神社に祀られている英霊を敬っている日本人は、まだ数多くいるのです。
さらに、今では、戦後の東京裁判において第2次世界大戦の責任を問われた東條英機元総理大臣も、「英霊」として靖国神社に祀(まつ)られています。天皇制についても、表面上は変わりましたが、国会の開会や、衆議院の解散などの国事行為については、明治時代に作られた大日本帝国憲法と似たような形で、かなりのものが継承されています。このような例を見てゆくと、日本の国体は護持され、日本の基礎的な政治体制は、戦前から大きく変わったわけではないようです。行政の組織や手順に関しては、より変化が少なかったと言えます。日本国民の生活に関わる細かな部分まで、法律を矛盾なく変更することは難しかったのでしょう。新しい憲法との間に矛盾が出た部分だけを手直しして、表面的に民主主義国家の法律としただけでした。
このような、第2次世界大戦後の日本社会の表面的民主化に現れているように、日本人は、新しい環境に自分達の態度や、自分達の社会の構造を変えなければならない時、表面的な変更だけを受け入れて、本質的な部分は変えずに残す強い傾向があります。より本質的には、欧米の人々や社会と比べると、長期的に矛盾が出ないように制度などに本質的な変更を加えるのではなく、短期的にやりやすい小さな変更を必要な部分だけに施す傾向が強いのです。このことは、社会の制度に関係した分野の問題だけに限らず、経済や科学技術の分野にもある特徴です。100年前ぐらいまでは問題が無かった、「前例があるから」という考え方は、これからの世界では通用しないでしょう。しかし、日本人の「前例に従う」と言う態度は、簡単には変わらないのです。
我々日本人は、これまでよりもより深く、物事を観察し、より普遍的な問題を見つけ出し、その問題に対処しなければならなくなっています。それは、短期的な目先の問題だけに的を絞って解決を考えるのではなく、より長期的な視野から問題を考え、対処する力が必要とされるようになります。戦争で言えば、戦争に勝つことだけを考えるのではなく、戦争が終わった後にどのような世界、日本の社会を築き上げるのかを考え、そのために戦争を避けることが本当に正しい選択であるのかどうかを考えなければなりません。そして、その戦争の目的は、戦局が変化したとしても変わるものではありません。第2次世界大戦中の日本の政府では、中国大陸における日本の利権の確保に始まって、最終的には天皇制の維持だけを最終的な目的へと変化させてゆきました。
日本の国民や日本社会は、奈良時代に国家がその形態を作り、大王と豪族による支配の社会から、天皇を中心として、貴族・官僚が支配する国家・社会に変わって以来、千数百年に渡って、基本的には同じ社会構造を維持したままで、何度かの危機的な状況を乗り越えてきました。平安時代の貴族である藤原氏の子孫である近衛文麿が総理大臣を務めたのは、昭和の時代のことでした。天皇家はそれ以前から続いている家系です。現代の世界に、千数百年間、同じ家系の中からだけ国家元首が出ている国はありません。それほど、日本に住む我々は、本質的な変化を嫌う傾向が強いと言えます。
同じように、日本の社会には、千年以上に渡り、社会の中で虐(しいた)げられてきた人々がいます。第2次世界大戦に日本が敗戦するまで、国が管理していた戸籍の上で、一般の市民とは別の分類をしてきた人々がいます。古代社会では、そのようなことは、意味があり、必要なことであったのかも知れません。江戸時代の社会もそうだったかもしれません。しかし、明治以降、日本社会でそのような制度を維持する必要性は無かったでしょう。これは、現代のインドの社会にも根強く残っているカースト制度に似ています。今の日本社会にも、そのような差別の名残は根強く残っています。その差別は、現代の社会・世界では全く必要ないばかりでなく、そのような差別があること自体、社会の発展を遅らせる原因になります。また、江戸時代に確立された「士農工商」の職業の貴賤(きせん)に関する認識は、現代社会に当てはめれば、官僚(公務員)、農業従事者、製造業系企業の従業員、販売サービス事業従事者と言う序列になります。モノづくりに従事する人々は、販売に従事する人々よりも重要な仕事をしていると考えられていたわけです。
20世紀後半の世界では、「モノを売る人々は、モノを作っている人々よりも経済への貢献が大きく、収入も高くなる」と言うのが世界の流れです。しかし、日本の社会では、今でも「営業系の仕事」は、「製造系の仕事」や「製品開発系の仕事」よりも低く見られる傾向があります。これは、古くは江戸時代の士農工商の序列思想の影響の名残と言えますし、明治以降、第2次世界大戦に負けるまでの軍国主義国家日本の、富国強兵思想の名残と言えます。戦争に負けない工業力を持つことが、日本の国家的な命題だったからです。義務教育制度の普及も、富国強兵のためでした。ですから、全ての生徒が、同じことを、同じようにできるようになることが、重視されてきたのです。個々の生徒の才能を育てることは、全く意識されなかったのです。
そのことは、第2次世界大戦に負けた日本が、再び、世界の先進国の仲間入りをするために、ある時まで経済を発展させる原動力になりました。1億人以上の人口を持つ国の国民のほとんどが、文字を読み書きでき、簡単な四則演算ができることは、多数の工場労働者を作り出すうえで、重要なことの1つでした。つまり、第2次世界大戦を始めるまでに、戦争に勝つために日本政府が作り上げた制度が、戦争に負けたにもかかわらず、日本の発展に有利に働いたと言えるのです。
こうして、偶然に恵まれた日本は、急激な経済成長を為し遂げ、1990年頃、世界第2位の国内総生産(GDP)を誇る経済大国になりました。当時、日本の人口は世界第1位の米国の約半分、世界第3位の西ドイツのほぼ倍でした。人口規模に応じた経済を持つ国に発展したのでした。ただし、その裏には、日本の通貨である円と米国の通貨であるドルとの間の交換レートが、1960年頃の1ドル360円から1ドル130円程度まで、円高となり、国際的に日本の国内の資産価値が倍以上に暴騰(ぼうとう)した現実も影響していました。
日本の経済力が、世界第1位の経済力を誇っていた米国経済に追いつきそうな勢いで成長していた1990年頃から、米国の社会では、企業活動を支援するため、パーソナルコンピュータを全ての社員に配布し、利用させるようになりました。社員間のコミュニケーションも、従来の手紙と電話だけでなく、手紙、電話、そして電子メールを利用するように変わり始めました。特に、インターネットが社会に普及し始めて、1993年頃から、ホームページを利用した情報発信ができるようになりました。政府機関も企業も、情報の発信を、インターネット上に公開したホームページで行うように変わり始めたのでした。
この情報通信技術の商用利用は、パーソナルコンピュータの導入が遅れた日本社会では、世界の動きに比べて、大きく遅れました。当時の日本の大手の企業でも、パーソナルコンピュータは、数人に1台の共用のものがある程度でした。特に、企業や役所などでは、まだ日本語ワープロ専用機が多かったからでした。また、電話についても、米国社会では1990年頃から、携帯電話の普及が急速に進み始めていました。自動車での移動が多い米国のビジネスでは、移動中にも電話をかけたり、受けたりすることで、仕事の効率をあげることができたからです。
電話会社ATTの独占が終わっていた米国社会では、携帯電話会社が数多く参入し、携帯電話料金はどんどんと低下していました。日本社会では、NTTの独占は無くなりつつありましたが、基幹通信網を保有していたNTTの力は強く、インターネット回線でも、携帯電話でも、利用料が下がりませんでした。このことが、日本の社会に携帯電話やインターネットの普及が遅れた原因と言えます。これは、第2次世界大戦に備えていた日本政府の方針で、NTTの前身である日本電信電話公社が、独占的な政府機関として設立されたことが関係していました。
第2次世界大戦に負けた日本社会でしたが、戦前からの電話回線を利用した通信は、そのまま日本電信電話公社が引き継いでいました。鉄道も似たような状況で、政府機関の公社として設立された日本国有鉄道が大部分の線路を保有し、車両の運行に責任を持っていました。その後、1970年代の米国政府からの抗議があり、日本電信電話公社も日本国有鉄道も民営化され、NTTやJRとして民間会社になりました。しかし、民間会社になってからも、政府はこれらの企業を特別な企業とみなし、特別な監督権限を保有しています。これは、第2次世界大戦以前に作られた法律が変更されずに残り、今日にも影響を及ぼしているからです。このような問題は、世界のどの国にもあることですが、日本の場合は、第2次世界大戦に負けた後も、それまでの社会の仕組みを大きく変えなかったため、歴史の変化の中で起きて来た矛盾に、簡単には対応できなくなっている部分が数多く出現しています。
日本の社会では、短期間のうちにやり易い社会の制度変更を行うと言う、短期的な問題意識に重点を置いているため、長期的な視点での検討がおろそかになっていて、後にそのような問題が表面化すると言う例の典型です。本来であれば、変更の必要が生じた時点で、時間をかけて検討し、本質的な部分にも変更を加えることが理想ですが、「早く変える」ことを重視すると、時間を要する本質的な問題の検討を行う時間がなくなる問題です。この「現実に即して行動する」と言う場当たり的な傾向が強いのが、日本人の特徴だと言えるでしょう。しかし、それはしばしば長期的には弱みになります。それは第2次世界大戦が始まる前には重要なことだったのかもしれません。これからの世界で、他の国々で育った人々と、新しい考えを出し合い、議論を戦わせなければならない人々を作るためには、正しい考えとは言えないでしょう。
世界の科学者と議論していると、日本人には問題を深く検討して、物事を抽象化する能力が、欧米の人々より弱いことに気づかされます。もちろん、欧米の科学者の中にも、私達よりも物事の本質を抽象化する能力の低い人々がいることも事実です。この極めて優秀な科学者達のもつ、物事を抽象化して、本質的な問題を明らかにする能力は、単に人間の性格や頭の回転の速さの問題ではなく、幼児期からのしつけや、教育や、習慣によって身につくものではないかと私には思われます。つまり、我々日本人は、多くの場合、そのようなしつけ、教育・訓練、習慣の獲得の学習機会を与えられてこなかったからなのではないかと思われます。
英国での幼児教育の話や、米国での生活経験から得た米国での幼児教育や小学校教育の知識から、日本における家庭教育や学校教育との違いは、私の現在の理解を支える根拠になっています。つまり、日本の学校教育によって、我々の思考方法が強く形作られていると考えます。学校教育、特に小学校低学年での教育では、教育を行う教員の先生方の個人的な能力に依存している部分が大きく、また、学習指導要領に記載されている内容を教えることにのみ、先生方は勢力を使っているように見えます。そこでは、個々の生徒がどう考えるのかを観察して、道筋を正すかよりも、生徒が考えた結果の答えを、正しく直すことの方が効率が良いからでしょう。
今、日本の社会は、大きな転換点に立っています。
(おわり)