原子爆弾とは

公開: 2019年10月29日

更新: 2023年12月2日

あらまし
ここでは、1945年8月に広島と長崎への原子爆弾投下を決定したとされているトルーマン米国大統領が残した日記の記述、友人への手紙、ラジオでの米国民への声明、そしてスティムソン陸軍長官が残した大統領との面会の記録に基づいた分析から、米国の歴史家達が読み解いた真実について、その概要をまとめます。米国の歴史家達は、トルーマン大統領は原子爆弾を広島や長崎へ投下する明確な命令を発していなかったと考えています。
なぜ原爆は落とされたのか〜トルーマン大統領のメモと声明から読み取れること

1945年4月12日、フランクリン・ルーズベルト大統領が、心臓発作で急死しました。当時、副大統領であったハリー・トルーマンは、米国憲法の決まりによって、副大統領に就任してわずか82日で、大統領に就任することになりました。誰も予想しなかったことが、現実になったのです。トルーマン新大統領は、日記に、「私の肩にアメリカのトップとしての重圧がかかってきた」と記しました。さらに、「外交に自信がない。軍が私をどう見ているのか心配である」とも書いています。トルーマン氏は、それまで郡判事としての12年の経歴を積み重ねてきていましたが、それと比較すると政治の世界での経験は浅く、上院議員としての10年間の経験だけでした。

トルーマン新大統領は、複雑な戦時の外交についての知識や経験が浅かったため、特に各国との外交交渉について不安に感じていたのでしょう。戦時の国家リーダーとして、米国の歴史の中で唯一、4回の選挙を戦い、大統領としての経験が長かったルーズベルト前大統領の下で、副大統領として働き始めて、わずか100日にも満たない経験しかありませんでした。この間、トルーマン副大統領が、ルーズベルト大統領と直接面談して話し合ったのは、1度だけだったと言われています。そのようなトルーマン新大統領にとって、米国大統領の職責は重過ぎたのでしょう。

1943年4月末、トルーマン新大統領は、陸軍長官のスティムソンからマンハッタン計画の進捗に関する報告を受けました。これが、トルーマン新大統領が、原子爆弾についての話を聴いた、初めての機会でした。同じころ、マンハッタン計画の責任者であったグローブス陸軍准将は、原子爆弾の最初の投下に関する会議を開催しており、京都を最も適した場所として、8月に投下する案をまとめていました。スティムソン陸軍長官からの報告を受けたトルーマン大統領は、驚きをもってその報告を聞いたようでした。大統領に就任してわずか2週間足らずで、マンハンタン計画の責任者、グローブス准将がトルーマン大統領への報告に来ました。

トルーマン新大統領は、グローブス准将の話を聴きましたが、「ほとんど興味を示さなかった」と、後にグローブス准将は証言しました。「何か進捗があったら、また、報告して欲しい」と言った新大統領の言葉に、グローブス准将は、計画は承認され、詳細については全て自分に任されたと、勝手に理解したようです。しかし当時、スティムソン陸軍長官は、米軍による日本の都市の無差別爆撃、特に東京などに対する焼夷弾による市民を標的とした、無差別爆撃の非人道性に対する世界の世論の動向を気にしていました。そのことから、トルーマン新大統領は、原子爆弾投下の目標は、軍事施設に限定すべきだと考え始めていたようです。特に、多くの非武装の女性や子供を巻き込むことは避けるべきだと考えていたようです。トルーマン大統領の日記に、そのことが記されています。

1945年5月30日、グローブス陸軍准将はスティムソン陸軍長官に面会し、原子爆弾の投下候補地について報告し、承認を求めました。グローブス准将が提案した案は、4月の目標会議で議論した京都への投下でした。それまでに京都を訪問した経験があったスティムソン陸軍長官は、「京都に原子爆弾を投下することは許可できない」と告げたようです。このグローブス准将からの提案は、すぐにトルーマン大統領に報告され、スティムソン陸軍長官は、「一般市民を巻き込むことになる京都への原子爆弾投下は認められない」と報告したと、長官の日記に記されています。トルーマン大統領も、スティムソン長官の意見に賛同したと、その日記に記されています。

しかし、グローブス准将は、京都を原子爆弾の投下目標にする案を、簡単には捨てられなかったとされています。スティムソン陸軍長官は、特に戦争終了後の日本統治を考えると、古都の京都への原子爆弾投下は、日本国民の反米意識を刺激する可能性が高く、不利益な点が大きいと考えていたようです。これに対して、グローブス准将は、原子爆弾の威力を世界に見せつけるためには、人口が多く、地形が盆地のような形状の場所が最適であるとの観点から、京都が最適な目標であると考えていたようです。グローブス准将は、京都への原子爆弾の投下を認めてもらうため、6度ぐらい、スティムソン長官を訪れたと、後に軍の事情聴取で答えているそうです。

1945年7月15日、ニューメキシコ州の実験場で、世界で最初の核爆弾爆発実験が行われ、成功しました。この実験成功のニュースは、ドイツのポツダムでイギリスやソ連の首脳との会議に参加していたスティムソン陸軍長官を経て、トルーマン大統領に報告されました。トルーマン大統領は、会議に参加していたイギリスのチャーチル首相、次いでソ連のスターリン書記長に、原爆実験成功を伝えました。この原子爆弾の爆発実験の直前に、トルーマン大統領は、チャーチル首相と原子爆弾の日本への投下について話し合い、日本に対して「事前通告なしで原子爆弾を投下する」ことについて合意していました。標的は、決まっていませんでしたが、京都以外の場所への、原子爆弾の投下は、すでに決定されていたわけです。

グローブス准将は、原子爆弾の投下目標を広島、佐世保、富山などの6都市として、それらの都市の特徴をまとめた原子爆弾投下の計画書を大統領に提出しました。実験成功の直後の7月末、グローブス准将は、「8月に入り、準備が完了したら速やかに原爆を投下し、その後も準備が整い次第、順次原爆投下を実施せよ」との原子爆弾投下命令を発しました。この時、本来であれば大統領の承認が必要であるにもかかわらず、大統領の明確な承認なしに、命令書が発せられました。トルーマン大統領が、原子爆弾が実際に投下されたことを知ったのは、ドイツのポツダムでの会議を終え、アメリカへの帰路、米国海軍の軍艦の船上でした。スティムソン陸軍長官も、この時、初めて原子爆弾が投下されたことを知りました。スティムソン長官は、急きょ、大統領の国民への声明文を作成しました。

1945年8月6日、トルーマン大統領は、船上で米国の国民に対する声明を録音しました。その声明では、「先ほど、アメリカ軍は日本の都市、広島に新型の爆弾を投下しました。この爆弾は、宇宙の根源的な力を利用した原子爆弾です。アメリカ軍は、継続している日本軍の抵抗で、これ以上のアメリカの若者達の命が失われることがないようにするため、また、日本の一般市民の犠牲を出すことがないようにすることを目的としたものです」と言う内容でした。この原子爆弾投下の理由は、以前からスティムソン陸軍長官が考えていたもので、その後のアメリカ国内で広く認められた原子爆弾投下の正当性を示す論拠になったものです。スティムソン長官は、後に自分が執筆した回想録でも、この論拠について記述していて、米国政府の正式な見解と見なされているものです。

1945年8月8日、主都ワシントンに戻ったトルーマン大統領は、スティムソン陸軍長官から、広島への原子爆弾投下に関する正式な報告を受けました。この報告では、壊滅した広島市の写真なども含まれていました。この時、トルーマン大統領は、数多くの市民、特に女性や子供たちが犠牲になったことを明確に理解したようです。グローブス准将が準備した報告書には、「広島は人口20万人程度の軍事都市」であると記されていました。しかし、原子爆弾投下前と投下後の写真を見比べると、その写真から読み取れたものは、特に軍事都市と言うよりも、ごく普通の都市だったことでした。トルーマン大統領は、多くの子供や女性を犠牲にしたが、この責任は大統領である自分にあると、親しい友人への手紙に書いています。、

1945年8月9日、九州の都市、長崎に2発目の原子爆弾が投下されました。当初は、佐世保への投下を計画していましたが、当日の天候が悪く、目標地点を佐世保から長崎に変更して、作戦が実行されました。この長崎への原子爆弾の投下が実施されたとの報告を受けたトルーマン大統領は驚き、自分が明確に原子爆弾投下中止の命令を出さなければ、原子爆弾は次々と投下されるかも知れないことを理解しました。大統領は、直ぐに全閣僚を集めた会議の開催を決定し、全員に会議への招集命令を発しました。その会議は、8月10日に開催されました。その会議で、トルーマン大統領は、「これ以上の原子爆弾の投下を中止する」とする命令を、全閣僚に伝えました。次の原子爆弾の投下を準備していたグローブス准将も、トルーマン大統領の中止命令には従わざるをえませんでした。

1945年8月14日、日本政府からの外交ルートを通じて、米国政府に対して「8月15日にポツダム宣言を受け入れ、降伏する」と言う主旨の表明が伝えられました。米国陸軍による日本の地方都市を目標とした無差別爆撃は、8月15日の早朝まで続きました。次の原子爆弾の投下目標とされていた新潟市では、8月15日の朝まで焼夷弾による無差別爆撃が行われ、犠牲者が出ました。1945年8月15日の昭和天皇による玉音放送によって、正式に日本の敗北が宣言され、実質的に日本と米国の戦争が終わり、連合国軍と枢軸国軍との、第2次世界大戦は終わりました。

1945年8月15日に日本が降伏して、第2次世界大戦が終わりましたが、日本とソ連との間Wでの戦闘は続いていました。戦争の後、トルーマン大統領は、何度か「広島と長崎への原子爆弾投下の妥当性と、投下の責任について」の公式な質問を受けました。そのような公式の質問に対しては、トルーマン元大統領は、「原子爆弾の投下は、正しい決定であった」、「決定の責任は、大統領であった自分にある」とする立場を変えませんでした。しかし、米国の歴史家達は、「大統領は都市への原子爆弾投下に賛成していなかった」、「大統領は原子爆弾の投下について明確な命令を発していなかった」としています。歴史家達は、「大統領と側近たちは、嘘をついていた」との分析をしています。トルーマン元大統領と、スティムソン元陸軍長官は、米国大統領として形式上、軍隊の上位にあって、軍の行動を統制する大統領の命令なしに軍が勝手に作戦を実施したと言う、憲法に反する事実が明るみに出ることを怖れたようです。

(つづく)