公開: 2019年10月26日
更新: 2023年12月3日
1941年12月1日、昭和天皇と軍・政府の首脳達が集まり、アメリカ合衆国、イギリスとオランダに対して戦争の布告をすることを決定しました。総理大臣は東條英機首相でした。その1年後の1942年12月21日、アジアおよび太平洋における連合国との戦争に勝つため、蒋介石総統が率いる中国国民党軍を中心とした中国共産党軍との連合軍との戦争をどのように推進すべきかについて、それを連合国とのアジア・太平洋における戦争の一部として、「大東亜戦争」として軍・政府が連携して対応することを決定しました。この時点では、日本軍はまだ優位を保って戦争を行っていました。ただし、日本海軍は米国海軍とのミッドウェー海戦において敗北をしていましたが、まだ戦争を継続するための十分な戦力を保持していました。
1943年5月31日、昭和天皇と軍・政府の首脳達が集まり、独立を目指しているアジア諸国との連携を強化することで、連合国との戦いを有利に導く方針を決定し、中国大陸、マレー方面、ビルマ方面、インド国内、そしてフィリピンなどの独立勢力との連携強化のための大東亜会議(だいとうあかいぎ)を、1943年10月に東京で開催し、大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)を確立することを決定しました。この頃から、日本陸軍の参謀本部でも、松谷大佐は、早期の戦争終結に向けての研究を開始していました。当時、日本海軍の高木少将も、長期的に「日本に勝ち目はない」との判断で、外務省の加瀬俊一らとの意見交換を重ねていたと、記録があります。松谷大佐は、加瀬氏から「ドイツ軍はモスクワでの攻防戦でソ連軍に敗退した」ことを知らされており、日本軍と政府の、開戦時の情勢分析が不十分であったとして、可能な限り早期の停戦にこぎつけるべきであると考えていたようです。
1944年7月にサイパン島周辺での日米両軍の戦いが終わり、サイパン島を米軍が占領しました。昭和天皇から、このサイパン島陥落の責任を問われた東條首相は、内閣総辞職をして、総理大臣の職を辞しました。その後に小磯(こいそ)内閣が誕生しました。この間、松谷大佐は、東條首相に面会して、戦争の早期終結を決断するように説得しましたが、首相を説得することはできませんでした。その語、陸軍の松谷大佐は中国戦線に派遣され、事実上の左遷(させん)になりました。同じ頃、海軍の高木少将は、東條首相を暗殺し、和平のための内閣を作る計画を進めていました。この高木少将らの計画が実行されようとしていたさなかに、東條首相は、内閣総辞職をしました。この時点での日本軍は、戦力を使い切っており、米国との大きな戦闘を継続する能力は無くなっていたと言われています。東條首相の退陣後、数か月で、中国に派遣されていた松谷大佐は、再び、大本営に呼び戻され、戦争終結への方策を検討するように命じられました。
1944年8月29日、井上海軍次官より、高木少将に対しても終戦工作の指示が発せられました。陸軍においても松谷大佐に対して、杉山陸軍大臣から終戦に向けての道筋を考えるようにとの指示があり、松谷は、「東南アジアの占領地及び、中国大陸における占領地を失っても、国体護持(こくたいごじ)ができるのであれば、中立国のソ連を介して和平の道を模索するべきである」との意見をまとめたそうです。杉山陸軍大臣も、「異論はない」と述べられたと記録されています。しかし、杉山陸軍大臣は、海軍が提示した和平への提案に反対し、戦争継続を主張したそうです。松谷大佐は、杉山大臣のこの意見表明について、「大臣が和平の方針を公(おおやけ)に述べれば、前線で戦っている日本軍の将兵に大混乱が起こることを心配したのであろう」と記していたそうです。
1945年3月10日、B-29の大編隊が東京上空に飛来し、ナパーム焼夷弾による無差別爆撃を行い、東京の下町が大火事になり、大部分を焼失しました。犠牲者は約10万人だったとされています。さらに、名古屋や大阪、神戸などの都市も相次いで焼夷弾の無差別爆撃を受け、国民の間に厭戦気分(えんせんきぶん)が生じ始めていました。海軍の高木少将や陸軍の松谷大佐、外務省の加瀬などは、日本の国体護持を主たる目的として、ソ連を仲介とした米英との早期終戦締結の方針で終戦工作を進めるべきであるとの見解を、政府首脳達に説明していました。1945年6月6日の政府の会議における議論では、陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれちか)は、本土決戦において米国軍に打撃を与えた後の講和を主張しました。この阿南陸軍大臣の主張が、会議の結論となりました。この結論は、米陸軍の高官達が予想していた日本政府の方針に、ほぼ沿っていました。
1945年6月8日、中国における戦況の視察から戻った陸軍の梅津(うめづ)参謀総長は、昭和天皇に視察報告を行い、「兵力はほとんどなく、弾薬も1回の戦闘で消費する分程度しかありません」と述べ、中国大陸の関東軍に戦闘能力がほとんどない実情を説明しました。この報告を受けた昭和天皇は、6月9日に御前会議(ごぜんかいぎ)を招集(しょうしゅう)し、参加者に現状認識と対応策を求めました。海軍は、ソ連を仲介として米英と和平交渉に着手すべきであるとの意見を述べました。この会議で、梅津陸軍参謀総長は、「和平交渉の道を探(さぐ)らざるをえない」とする見解を述べました。しかし、阿南陸軍大臣は、「特に述べることはありません」と答えたとされています。この御前会議によって、中立国のソ連を介して、米英両国との講和に関する協議を申し入れることを決定しました。
1945年6月22日、木戸内大臣、米内海軍大臣、東郷外務大臣から、昭和天皇に対してソ連の仲介による早期戦争終結工作(そうきせんそうしゅうけつこうさく)の提案がありました。昭和天皇は、政府の首脳達にソ連への速やかな和平あっせんを要請しました。7月7日、昭和天皇は、東郷外務大臣に対して、近衛文麿元首相を特使としてソ連へ派遣(はけん)する案を、モスクワの日本大使館からソ連外務省へ問い合わせることを命じました。しかし、1945年2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後3ヵ月以内の対日本戦争開始を米英に約束し、その期限が迫っていたことから、スターリンは、日本外務省からの問合せを放置しました。さらに、7月26日、連合国は日本に無条件降伏を要求したポツダム宣言を発表しました。このポツダム宣言に対して、阿南陸軍大臣は、国体護持(こくたいごじ)ができないとして、強く本土決戦(ほんどけっせん)を主張したため、日本の降伏は先延(さきの)ばしとなりました。
1945年に入ってからの日本政府の首脳達の世界情勢についての見通しは、日本に有利な情報を重視した、「甘い」見通しだったと言えます。ソ連のスターリンが反日的な思想の持主であったことを無視して、1945年4月に期限が切れ、ソ連が不可侵条約(ふかしんじょうやく)の破棄(はき)を宣言したのにもかかわらず、ソ連は中立的な立場を維持すると言う想定に立って和平を模索していました。さらに海外からの情報では、ソ連が日本との戦争を準備しているとの報告が入っていたにも関わらず、政府はそのような情報を活用できませんでした。また、同じように、海外からの情報で、新型の爆弾が南太平洋の島に向けて運搬されたことなども、報告されていました。つまり、原子爆弾の投下の準備や、ソ連軍の参戦に関する情報は、日本の軍や外務省には伝えられていたのです。にもかかわらず、政府の首脳達は、自分達に都合の良い情報だけに注目して、和平交渉への着手の機会を見失っていました。
1945年8月10日から11日にかけて、8月9日の米国軍による長崎市への原子爆弾投下と、ソ連軍の中国北部地域への侵攻を受けて、総理大臣鈴木貫太郎は、ポツダム宣言の受諾(じゅだく)を行うべきどうかについての決定のため、昭和天皇の隣席(りんせき)による首脳達の秘密会議を招集しました。鈴木総理大臣は、8月9日未明のソ連の参戦によって、米英を中心とした連合国との講和の道は無くなったとする判断から、「ポツダム宣言の受諾のみが残された道である」との考えてに至ったようです。しかし、日本陸軍を中心として軍部は、国体護持、連合軍による占領の拒否、日本軍の武装解除(ぶそうかいじょ)と撤兵(てっぺい)を日本軍が自主的に行うこと、戦争責任の追求と処罰は日本が行うことなど、を条件とした降伏しか受け入れられないと主張していました。鈴木総理大臣は、昭和天皇に対して、国体護持のみを条件としたポツダム宣言の受諾か、軍部の主張を取り入れるべきかについて、伺(うかが)いを立てました。10日の午前2時半頃、昭和天皇は国体の護持のみを条件として、ポツダム宣言を受諾すべきであるとの決意を示しました。
日本政府は、この日本政府首脳の決定を連合国に伝えました。これに対して、米国のバーンズ国務長官は、「日本政府の形態については、ポツダム宣言に従っていると判断できる限り、日本国民の意思に従う」とする回答を寄せました。日本政府首脳の間では、連合国側の回答に「国体護持」が明確に述べられていなかったことで、再び、戦争継続か停戦かの意見が対立しました。鈴木総理大臣は、1945年8月14日午前11時頃、再び昭和天皇に隣席を依頼し、その決断を伺うこととしました。昭和天皇は、ここで「停戦を受け入れなければ、将来の日本の発展が遅れる」として、ポツダム宣言受諾の意思が硬いことを示しました。そして、軍内部における混乱を未然に防ぐため、自らがラジオ放送で、ポツダム宣言の受諾を国民に伝える意思があることを述べられたと記録されています。
以上の議論から、日本政府首脳の間では、第2次世界大戦への参戦を決定する段階では、中国大陸、特に満州における日本の利権を守ることが問題とされていました。しかし、対米戦争が進んで、日本軍の劣勢が明らかになると、米軍との大会戦で勝利し、日本に有利な条件で講和を結ぶことが重要視され、戦争が継続されました。さらに、日本軍が劣勢になった1944年の後半からは、日本軍の恥じにならない形で、天皇制を維持したままの統治を継続することに重点を置いた国体護持に焦点が移りました。1941年12月の開戦の時点で、最悪の事態を想定していれば、国体護持が焦点になる戦争に着手する選択は無かったはずです。日米の大きな経済格差を考えれば、当時の日本には長期の戦争を戦い続ける国力は無かったからです。その戦争を始めなければ、広島にも、長崎にも、原子爆弾は投下されなかったはずです。日本軍の首脳達は、若手の将校達が、対米強硬路線(たいべいきょうこうろせん)を主張していたことから、自分達が「弱腰(よわごし)である」との批判が出ることを怖(おそ)れ、客観的な情勢分析と、正確な分析に基づいた論理的な思考ができなくなっていたのでした。