公開: 2019年10月21日
更新: 2023年12月2日
1939年、ドイツやスイスから米国に亡命していたアインシュタインとシラードらのユダヤ人物理学者は、ルーズベルト大統領宛に書簡を送り、ヒットラーのナチスが核分裂を応用した新しい爆弾を開発する可能性について、警告をしました。1939年10月にルーズベルト大統領の命令で、ウラン委員会が設けられ、シラードが提起した核分裂を利用した新型の爆発物の現実性が、米国の科学者たちによって検討されました。1939年11月に委員会は、潜水艦の動力として核分裂を利用することが現実的であり、そのための調査研究が重要であることを報告しました。この時点では、核分裂を利用した爆発物の研究や調査は、必要がないと結論付けたわけです。ただし、核分裂を爆発的に引き起こすことができれば、その威力が巨大になることは報告に述べられていました。
1939年6月にドイツからイギリスに亡命していた二人の物理学者が、天然ウランから抽出されたウラン235だけを使い、高速な中性子だけで核分裂を起せば、ガンバレル方式の核爆弾を作れる可能性があることを示しました。イギリス政府では、この研究成果を詳細に検討し、新型の爆弾の製造が可能であると結論付けました。イギリス政府は、1941年10月にこのことをアメリカ合衆国政府に伝えました。このイギリスから伝えられた新しい情報によって、米国の科学者達も、現実に原子爆弾の開発が可能であることを知りました。 1942年10月、ルーズベルト大統領は、科学技術の軍事応用について、その責任を担っていたヴァネバー・ブッシュと、ウォレス副大統領が協議して、核技術開発について議論することを命じました。その結果、大統領は、核兵器開発プロジェクトを発足させることについて承認しました。そして、ルーズベルトはイギリスとの協調体制についても二人の提案を受け入れ、イギリスのチャーチル首相に手紙を送り、アメリカ合衆国とイギリス、カナダが協力して核兵器の開発に着手すべきであると提案しました。1943年7月、アメリカ合衆国とイギリスは、ケベック協定を結び、協力して原子爆弾の開発を実施することにしました。
ケベック協定が成立する直前、1943年5月から米国軍事関係者達は、原子爆弾が開発された場合にそれをどこに投下すべきかを決定する準備を始めていました。目標検討委員会会議です。第1回目の会議では、太平洋のトラック島の日本軍軍事基地への投下や、日本の首都、東京への投下が議論されました。この時、すでに原子爆弾の投下は、日本または日本軍が占領している地域の軍事施設を目標にすることが関係者の理解だったようです。ここには、2つの問題が隠されています。1つは、原子爆弾の投下目標を軍事施設に限定すべきとする考えです。もう1つは、無差別戦略爆撃の一環として、大都市に住む一般の市民をも犠牲とする都市への原子爆弾投下も許されるとする考えです。前者は、降伏を受け入れない日本政府に原子爆弾の威力を見せることが目的であると思われます。後者は、第2次世界大戦後の世界の覇権(はけん)を握ろうとするアメリカが、原子爆弾の威力を世界の人々に見せつけることを目的とした原爆投下の考えでした。
1944年9月18日、米国のルーズベルト大統領と英国のチャーチル首相は、ニューヨーク州北部のハドソン川沿いの町、ハイドパーク(そこはルーズベルト大統領の出身地です)で首脳会談を行いました。この会談で、日本への原子爆弾投下が合意されました。この短い合意文書には、3つのことが記されています。第1は、原子爆弾が使用可能になった場合、十分な検討を踏まえて、同じような爆弾が日本の降伏受諾まで繰り返して使用されるであろうと言う警告を与えた後に、日本に対して使用されることでした。第2は、アメリカ合衆国政府とイギリス政府は、日本を降伏に導いたのちでも、ケベック協定をどちらかの国がその協定を破棄するまで、継続することです。第3は、ノーベル賞を受賞した物理学者ボーアが提案している核兵器の国際的な管理についての活動に関して、ソ連への原爆開発についての米英の協力で、米英の原爆開発によって得られた成果について、情報流出がないことを確認することが必要であることの合意です。これらの合意は、米国内における軍事専門家たちによる原子爆弾使用に関する議論の成果を踏まえたものであると言えます。
1944年当時、ノーベル物理学賞受賞者ニールス・ボーアは、近い将来、核兵器はソ連だけでなく、他の国々でも保有されることが予想されるため、厳密な核の国際管理が重要な政治問題になるとして、そのような国際的な核管理体制の確立を、ルーズベルト大統領に働きかけていました。これに対して、チャーチル首相は、ボーアはソ連側のスパイではないかと疑っていたようです。チャーチル首相には、第2次世界大戦後の世界で、核兵器の管理が大問題になると言う予想はできていなかったようです。現在、不完全ではありますが、アイゼンハワー米国大統領の提案に基づき1956年に国連に創設された国際原子力委員会(IAEA)は、ボーアの提案にそった国際的な原子力平和利用管理の制度です。
1945年4月27日、マンハッタン計画の責任者であった米国陸軍のグローブス准将は、目標検討委員会会議を開き、1945年8月に最初の原爆を日本の都市に投下することを決め、その候補地について検討を始めました。この時、最も有力視されていた投下目標は、人口の多い京都市でした。この京都への原子爆弾投下案の報告を受けたスティムソン陸軍長官は、数多くの一般市民を犠牲にすることは許されないとして、その案を承認しませんでした。1945年5月28日、アインシュタインと共にルーズベルト大統領に原爆開発の必要性を訴えた、レオ・シラードは、国務長官バーンズに対して、原子爆弾の使用に反対する態度を表明しました。これに対して、バーンズ国務長官は、第2次世界大戦後のソ連との覇権争いを優先的に考慮して、原子爆弾の投下は必要であると考えていたようです。
このバーンズ国務長官の意見に対して、スティムソン陸軍長官やグルー国務次官は、日本に対する原爆使用にしては、事前の警告が必要であると主張していました。また、6月11日、核物理学者フランクとシラードら7名の科学者は、フランク報告書を暫定委員会へ提出し、日本を降伏させる目的での原子爆弾の投下に反対する意見を表明しました。この報告書では、将来に起こりえると予想される核兵器の開発競争を、日本への原子爆弾投下が引き起すとしていました。この予想は、現実のものとなり、第2次世界大戦後に東西冷戦の時代が来ました。ボーアの提案と同じように、科学者たちは、有効な国際的核管理体制の確立を優先すべきであると主張していました。この報告書は、暫定委員会が6月21日に、急死したルーズベルト大統領を引き継いだトルーマン大統領への原子爆弾投下を容認する報告を、再考させるためにまとめられたものでした。
1945年7月20日、ドイツに居た米国陸軍のアイゼンハワー将軍は、陸軍長官のスティムソンから、原子爆弾の爆発実験に成功し、日本への投下準備のため、トルーマン大統領に対して、原子爆弾を投下する許可の申請準備に入っていることを知らされました。アイゼンハワー将軍は、ポツダム会議のためにドイツを訪問していたトルーマン大統領に対して、「既に日本は戦争終結の道を歩み出していて、どうすれば面目を保ちながら降伏できるのかを探っている」との自身の観測を述べ、原子爆弾の投下の必要はないことを述べました。これは、原子爆弾が従来型の通常兵器ではないことを強く意識した考え方に基づいたものであったと言えます。戦後、米国大統領に就任したアイゼンハワー氏は、原爆投下の問題について、何度が言及しました。また同じ頃、米国太平洋艦隊のニミッツ提督は、市民の犠牲を伴わない、ロタ島への原子爆弾の投下を示唆しました。
1945年7月21日、ポツダムでの会議に出席していたスティムソン陸軍長官に対して、京都への原子爆弾投下準備の許可を求める電報が来ました。この電報に対して、スティムソン長官は、「京都への原子爆弾投下は許可できない」との返信を打ちました。この電報によって、京都への原子爆弾投下は、完全に選択肢から消えました。グローブス准将が準備した候補地のリストには、広島や小倉、長崎などが記載されており、広島は、「軍事都市」と記載されていました。広島に数多くの一般市民が居住している事実を覆い隠す目的があったと言われています。この新しい原爆投下目標地リストは、スティムソンによって承認されました。
1945年7月24日、トルーマン大統領はチャーチル首相と会談し、日本に対して原爆の投下を事前に警告すべきかどうかについて議論しました。この時、チャーチル首相は、以前からのルーズベルト大統領との合意事項で、原子爆弾の投下を実施する場合は、「事前の通知なしに実施する」と言うことで合意済みであると主張しました。このチャーチル首相の助言が、広島への原子爆弾投下について、事前の警告を発しなかった米国政府の決定につながったと言われています。
以上の原子爆弾投下に至るまでの、主として米国政府関係者間における、原子爆弾投下に関する議論を整理すると、以下のような論点が浮き彫りになります。
例えば、グローブス准将の考え方は、短期的な視点に立った政治的な問題意識を基礎にしたものです。大規模な予算を投入して実施しているマンハッタン計画の成果である原子爆弾の効果を、世界に見せつけて戦争を終わらせることが良いことだと言う考えだったからでしょう。これに対して、スティムソン陸軍長官は、中期的な視点で、日本の降伏後の占領を考えると、京都に原子爆弾を投下することによって、日本人の反感をかう結果になることは米国の利益に反すると言う政治的な考えからだったと言えるでしょう。アイゼンハワー将軍の意見は、軍事の専門家として、当時の状況において日本との戦争に勝つための戦いで原子爆弾の投下は必要とは言えない(正当化できない)とする中期的な視点での軍事的な考えであったと言えるでしょう。これに対して、ボーアらの科学者達の意見にあるのは、人類にとっての原子力の利用に関する取り決めを定めるまでは原子爆弾を使うべきではないとする意見は、時間の問題を超越した普遍的な視点で、科学技術の成果をどう利用すべきかの世界的合意を、まず確立すべきであるとする倫理的な立場に立っています。
さらに、ルーズベルトなどの一部の政治家には、長期的な視点から、原子爆弾が第2次世界大戦後の国際社会において、国際政治の中で従来の軍事兵力と似たような意味で、重要な役割を担うことが予想できたことから、物理学者のボーアが提唱した「核の国際管理」の枠組みが必要であるとする考えもありました。また、普遍的な視点で、軍事の専門家の意見として、強力な新型兵器の使用を予告なしに使用することは、戦争に関する国際的な取り決めに反するとする、米海軍のニミッツ提督のような考え方や、都市の住民に対して事前に原子爆弾の投下を警告すべきであるとする考えもありました。さらに、原子爆弾に限定せずに、非武装の一般市民を標的とした「無差別の戦略爆撃」は、戦時下であっても倫理的に正当化できないとする、普遍的な視点からの議論もあります。
現在、米国の社会では、国民の約半数が「広島や長崎への原子爆弾投下は、日本と米国の犠牲者を減らすために必要であった」と考え、支持しています。この支持と不支持の比率は、日本が無条件降伏した直後には、80パーセントを超えた支持があったことと比較すると、時間とともに減少したと言えます。さらに、若者だけを対象にした調査では、今では、米国の若者達の80パーセント以上が、「原子爆弾の日本への投下は正当化できない」と考えています。それでも米国が、核兵器を手放さない理由は、「他の国が核兵器を利用しかねないから、そのような事態が起きないように、抑止力として必要である」からとする意見が多いようです。つまり、自国は別として、他国は嘘をつくかも知れないとする、他国への不信感が基礎になっているようです。