公開: 2019年10月12日
更新: 2023年11月30日
1944年の半ばごろから、中国大陸と東南アジアの戦線において日本海軍と日本陸軍は、豊富な物量と制海権・制空権を確保したアメリカ軍を中心とした連合軍との戦闘において、劣勢に立たされるようになっていました。特に、1944年3月からの約4カ月間、雨季のミャンマー山岳部を戦場として日本陸軍がイギリス・インド連合軍と戦ったインパール作戦では、食料も弾薬も不足していた日本陸軍は、約3万人の将兵を失い、敗北しました。また、1944年6月19日から20日にかけて、フィリピンのマリアナ沖では、日本海軍が米国海軍と戦ったマリアナ沖海戦で、日本海軍は、ゼロ戦などの航空機359機と航空母艦3隻を失い、本格的な海上での戦闘を戦う戦力を失っていました。そのような状況の下で、米国は、米国陸軍の航空隊が開発した大型爆撃B-29を投入し、日本の諸都市を目標とした戦略爆撃を開始しました。
1941年12月に、日本海軍によるハワイ真珠湾への攻撃を受けて、米国が第2次世界大戦への参戦を決定する以前に、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は、米国陸軍の航空軍司令官、アーノルド将軍が提案していた長距離渡洋爆撃(ちょうきょりとようばくげき)作戦を可能にする、飛行距離の特別に長い爆撃機(戦略爆撃機)の開発計画を1939年に承認していました。この新型爆撃機の開発と生産は、ボーイング社に発注されました。真珠湾攻撃のあった1941年12月時点での発注数は500機になっていました。さらに、1942年2月の時点では、発注数は、1,600機に登っていました。実戦配備のための爆撃機の生産開始は、1943年9月頃を目標にしていました。
この新型爆撃機の開発を報道で知った日本陸軍は、日本本土への渡洋爆撃は、ミッドウェー島またはハワイの基地から飛び立って実施されるものと想定し、B-29が飛来した場合には、日本軍の迎撃戦闘機による体当り攻撃で対応しすると発表していたそうです。遠距離渡洋爆撃を考えていた航空軍のアーノルド司令官は、ヨーロッパにおけるドイツとの戦争が終わりに近づいていることを考え、日本本土を標的とした遠距離渡洋爆撃戦略を決めていたようです。アーノルド司令官は、1943年に重慶の蒋介石を訪問し、日本本土への爆撃計画の検討を告げたそうです。1943年5月に、ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が米国の首都、ワシントンで協議しました。そこで、日本との戦争でB-29をどのように使うかを検討し、中華民国の湖南省(こなんしょう)を基地として東京への爆撃を実施することを決めました。
1942年9月、米国政府は原子爆弾開発プロジェクトの原型となったプロジェクトYを発足させ、陸軍のグローブス大佐を責任者に任命しました。10月にグローブス大佐は、カリフォルニア大学バークレー校で原子爆弾の設計を研究していた物理学者のオッペンハイマー博士を研究グループの責任者に選びました。1943年7月に、フランクリン・ルーズベルト大統領は、イギリスのチャーチル首相とカナダのケベックで協議を行い、原子爆弾の開発協力について合意しました。この米英の協定に基づき、イギリスの研究者も参加してアメリカの本格的な原子爆弾の開発(マンハッタン計画)が始まりました。その時点では、ルーズベルト大統領は、その原子爆弾が爆撃機に搭載できる大きさにできるとは考えていなかったため、実戦で使用できる兵器になるとは考えていなかったようです。この米英共同開発研究には、ノーベル物理学賞を受賞していたボーアなど、著名な研究者も多数参加していました。しかし、ルーズベルト大統領に、原子爆弾開発の重要性を訴えたノーベル物理学賞受賞者のアインシュタインは参加していませんでした。米国政府は、アインシュタインから計画に関する情報が漏れる可能性を懸念していたからです。1943年10月には、プルトニウム生産のための原子炉建設が始まりました。
1943年10月、米国陸軍の航空軍アーノルド司令官は日本本土爆撃の作戦計画をルーズベルト大統領に提出して、承認されました。その計画では、中国四川省(しせんしょう)の成都(せいと)に5つの基地を置き、1944年4月から作戦の実行を始めるとしていました。しかし、中華民国の飛行場建設は、1944年1月からの着手となりました。B-29の開発・生産も遅れ、3月の末になって最初のB-29が完成しました。最初に軍に納入された150機のB-29は、米国からイギリスを経由してインドに輸送されました。1944年4月に米国統合参謀本部は、統合参謀本部の指揮の下にアーノルドを司令官とする第20空軍を設置しました。1944年6月、83機のB-29が、インドを出発して中華民国の成都の飛行場に到着しました。6月15日、成都から飛び立ったB-29、63機が、九州小倉の八幡(やはた)製鉄所への爆撃を目的として、高度2,000メートルから3,000メートルで、夜間、小倉上空に飛来しました。この作戦では、日本側が灯火管制(とうかかんせい)を実施していたため、目視での爆撃ができず、爆撃手たちが不慣れだったレーダー爆撃を実施したため、大きな成果を上げることができず、八幡製鉄所の操業にはほとんど影響が無かったと報告されています。
1944年8月、昼間の北九州爆撃が実施され、大量の爆弾が投下されました。製鉄所の被害も大きく、生産停止に追い込まれました。米軍の被害も大きく、14機以上のB-29を失いました。この間、1944年7月にサイパン島を攻略した米軍は、島に残されていた日本軍が建設した滑走路を拡張しました。8月にはグアム島、テニアン島も攻略し、日本の主要都市の全てが、B-29の攻撃対象範囲となりました。1944年10月にマリアナ諸島に展開するB-29を運用する第21爆撃集団が設置され、第20航空軍の参謀長であったハンセルが司令官に着任しました。1944年11月24日、111機のB-29が東京上空に飛来し、中島飛行機武蔵野工場への爆撃を実施しました。この時の攻撃で、米軍はB-29、1機を失いました。しかし、中島飛行機武蔵野工場の損害はほとんどありませんでした。高い高度から投下した爆弾が、ほとんど命中しなかったためでした。1944年11月29日、29機のB-29が高度10,000メートルの高さで東京上空へ飛来し、市街地への爆撃を初めて実施しました。日本軍も、1944年11月に、サイパン島やテニアン島の飛行場を攻撃し、多数のB-29に損害を与えていました。しかし、日本軍の出撃基地であった硫黄島に対する米海軍の海兵隊による攻撃が激化した後には、日本軍によるマリアナ諸島の米軍飛行場への攻撃は無くなりました。
1944年7月には、米軍は東京だけでなく、名古屋の航空機工場への爆撃も開始しました。これらの爆撃も高い高度からのレーダー爆撃でしたが、爆弾の命中率は改善していて、工場に大打撃を与えました。同じ1944年12月に、中国本土の日本軍占領地域において、大都市への焼夷弾を用いた無差別爆撃を試みました。これは、ルメイ司令官の指揮する第20爆撃集団のB-29、84機による漢口(かんこう)市街への爆撃で、市街地の約50パーセントを破壊し、約20,000人(そのほとんどは中国人)の犠牲者を出しました。この無差別焼夷弾(しょういだん)爆撃の効果を評価したアーノルド司令官は、日本本土への爆撃を指揮していたハンセル司令官に対して、市街地への無差別焼夷弾爆撃を実施するように助言しました。しかし、ハンセル司令官は、倫理的な観点から、爆撃の標的は軍事施設や工場に限定すべきとして、反対しました。1945年1月、アーノルド司令官は、ハンセル司令官を解任し、ルメイをその後任に指名しました。後任のルメイ司令官も着任当初は、ハンセルの工場などを標的とした精密爆撃を踏襲しましたが、B-29の損失に見合う成果は上がりませんでした。アーノルドの市街地への無差別焼夷弾爆撃の助言を受けて、ルメイ司令官は、1945年3月10日の東京大空襲の作戦計画策定に着手しました。
1944年10月、フランクリン・ルーズベルト大統領は、米国駐ソ連大使を通して、ソ連のスターリンに対して、日ソ中立条約を破棄して、対日戦争への参戦を促す提案をしました。これに対してスターリンは、武器の提供と南樺太、そして千島列島の領有を認めることを要求しました。ルーズベルト大統領は、ソ連の千島列島領有を認め、武器の提供を行うことも約束しました。
1944年12月、原子爆弾開発研究チームでは、広島型原子爆弾である「ガンバレル型」の原子爆弾では、プルトニウムを利用することが難しいと結論付けました。その結果、原子爆弾開発研究チームは、「爆縮レンズ」を利用したファットマン型の原子爆弾開発を優先することを決定しました。爆縮(ばくしゅく)レンズの実験は、1944年12月中旬に成功したことが記録されています。
1945年2月、ソビエト連邦クリミア半島のヤルタにおいて、フランクリン・ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、ソ連のスターリンは、第2次世界大戦後の世界秩序建設と敗戦後の日本の領土分割などについて議論をしました。その結果、3国間の秘密協定がまとめられました。「ヤルタ協定」と呼ばれています。この会議の間、チャーチル首相は、ルーズベルト大統領に対して、密かに戦争の早期解決のために日本やドイツへの降伏条件緩和についての助言をしました。しかし、ルーズベルト大統領は、「世界情勢を正しく認識していない日本は、交渉によって自国に有利な降伏条件を得られるかも知れないという甘い見通しを持っており、それを許すことが長期的に正しい方法とは考えられない」として、無条件降伏を求め続けてゆく考えを表明していたそうです。さらに、ヤルタ会談において、ルーズベルト大統領は、ソ連のスターリンに対して、千島列島と南樺太の領有を認めるとの条件で、ドイツ降伏後4か月以内のソ連の対日参戦を要求しました。
1945年3月9日の午後5時過ぎにマリアナ諸島の空軍基地を飛び立った325機のB-29は、1945年3月10日の真夜中に東京上空に飛来し、低高度から東京の市街地へ向けて大量のナパーム焼夷弾を投下し始めました。この爆撃で、東京の市街地では大火災が発生し、低空飛行していたB-29は、火災旋風によって発生した乱気流によって、機体が大きく揺れたことが記録されています。この焼夷弾爆撃とそれによって発生した大火災によって、約10万人の市民が犠牲になったとされています。ルメイ司令官は、この東京大空襲からの10日間の間に、名古屋大空襲(3月11日)、大阪大空襲(3月13日)、神戸大空襲(3月16日)、第2回名古屋大空襲(3月19日)と、立て続けに市街地無差別焼夷弾爆撃を実施しました。この攻撃によって、日本は、軍事物資生産の中枢を担っていた都市部の工場や人材を失い、航空機の生産はほとんどできなくなりました。1945年3月26日、硫黄島の激戦を経て、米国海軍の海兵隊が硫黄島を占領したため、日本軍は本土上空の制空権を実質的に失いました。その後、沖縄戦において日本軍の特攻機による攻撃に悩まされていた米軍は、九州に集中的に展開されていた特攻機の出撃基地を、集中的に爆撃する任務をルメイ司令官が指揮するB-29の部隊に命じました。
1945年4月12日、フランクリン・ルーズベルト大統領は、昼食の直前に脳血管障害(脳卒中)で急死しました。米国憲法の規定により、ハリー・トルーマン副大統領が大統領に昇格・就任しました。トルーマン大統領が就任したとき、外交に関与していなかった彼は、ルーズベルト大統領からの引継ぎを受けなかったため、それまでのイギリスのチャーチル首相との約束や、スターリンとの話し合い、さらにマンハッタン計画の経緯や進行状況について、全くと言ってよいほど、知識がありませんでした。グローブス准将がトルーマン大統領へのマンハッタン計画の状況報告を行った時、グローブスが提出した報告書を、「トルーマン大統領は読まなかった」と後にグローブス氏は語っています。情報が厳しく管理されていたため、新任のトルーマン大統領は、すぐには原子爆弾のもつ意味を理解できなかったのでしょう。
1945年4月27日、グローブス准将は、原子爆弾の投下目標を選定するために、「目標検討委員会」会議を開き、日本の気候条件を考えて、最初の原爆投下を1945年8月にすることを決定しました。また、目標の都市の条件として、人口が集中しており、直径8キロメートル以上の平野で、B-29の戦略爆撃を受けていない場所を選定することとしました。グローブス准将は、京都市が最適の候補地であるとして、京都駅の西側に原子爆弾を投下すべきと考えていたようです。5月30日にグローブス准将は、スティムソン陸軍長官と面会し、京都に最初の原子爆弾投下を行うことを提案しました。スティムソン陸軍長官は、軍事施設のない京都に原子爆弾を投下することは、倫理的な問題が大きいとして、これに反対しました。当時、トルーマン大統領やスティムソン陸軍長官は、市街地への無差別爆撃が倫理的な問題を持っていると考え、多くの市民を巻き込む結果となる京都市への原子爆弾の投下は、許可すべきではないと考えていました。
1945年5月には、沖縄戦の支援のための戦術爆撃作戦を終え、戦略爆撃任務の遂行に戻ったルメイ司令官のB-29爆撃集団は、東京市街地への無差別焼夷弾爆撃を再開しました。5月25日の爆撃では、攻撃対象ではなかった皇居の半蔵門に誤って焼夷弾を投下し、皇居内の建物の約半分を焼きました。東京の市街地もその面積の約半分を消失していました。さらに、1945年5月29日には、454機のB-29と硫黄島の基地に配備されていた護衛の戦闘機が横浜上空へ飛来し、市街地の焼夷弾爆撃を行い、市街地の約3分の1が焼失され、約3,600名の死者が出ました。6月1日にも、454機のB-29による大阪と神戸への無差別焼夷弾爆撃が実施されました。この頃から、B-29を戦闘機が護衛するようになり、日本軍の戦闘機の少なさもあり、日本軍の戦闘機によるB-29への攻撃が難しくなっていました。このことは、国民の厭戦気分(えんせんきぶん)を増す結果となり、軍の高官に対する批判の投書が寄せられるようになっていたそうです。1945年6月からは、ルメイ司令官は、地方の中小都市に対する、市街地の無差別焼夷弾爆撃を始めました。これによって、大牟田、浜松、四日市、豊橋、福岡、静岡、富山なども標的とされ、終戦まで続けられました。
1945年7月16日、爆縮方式を採用したプルトニウム型原子爆弾の爆発実験(トリニティ実験)が、ニューメキシコ州アラモゴートで実施され、世界最初の核実験に成功しました。この時、実験場の近くで爆発を体験した兵士の中には、後に被ばくによる原爆後遺症で悩んだ人たちもいました。この「原子爆弾実験成功」のニュースは、直ぐにドイツのポツダムでの会議に参加していたトルーマン大統領に伝えられました。トルーマン大統領は、7月24日、ソ連のスターリンに原子爆弾の実験に成功したことを伝えました。スターリンは、原子爆弾の実験が近いと言う情報を得ていたため、あまり驚くことはなかったそうです。しかし、スターリンは、原子爆弾の日本への投下が近いことを察知し、ソ連軍に対して対日戦争の準備を急ぐように指示したそうです。また、トルーマン大統領とチャーチル首相は、早急に日本本土に原子爆弾を投下し、日本を無条件降伏させるべきであるとの意見で一致しました。1945年7月25日、参謀総長のスパーツ大将は、8月3日以降に、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの都市に原子爆弾を投下するようにとの命令を出しました。この命令書に基づき、グローブス准将は、1発目を広島か小倉へ、2発目以降は準備でき次第、中止の指示がない限り投下するようにとする投下命令書を、大統領の承認なしに発しました。
1945年8月5日、テニアン島の基地で、改造されたB-29に、ガンバレル型の原子爆弾「リトル・ボーイ」の搭載が完了し、8月6日の午前8時過ぎ、広島市の中心部に世界最初の原子爆弾がと投下されました。この時、広島市内で活動していた学生・女学生を含む一般市民、10万人以上が原子爆弾の被害に会い、投下から約1か月の間に7万人以上の人々が命を落としました。その中には、捕虜として広島で取り調べを受けていた米国兵数名も含まれていました。また、朝鮮半島出身者で、広島にある工場で働いていた数多くの労働者やその家族も、犠牲になりました。市内に流れる川には、被ばくした人々の数多くの死体が流れていたそうです。日本側は、投下直後から新型の爆弾であることを認識していましたが、それが原子爆弾であることを突き止めるまでに、数日の時間を要しました。現地調査に入った理化学研究所の仁科博士によって、原子爆弾であると認定されました。原子爆弾投下の情報は、1945年8月6日のうちに軍艦でドイツからアメリカへ向かっていたトルーマン大統領に伝えられました。トルーマン大統領は、船上から米国市民に対して原子爆弾投下のメッセージを放送しました。8月8日には、米国に帰国していたトルーマン大統領に、スティムソン陸軍長官からの報告があり、「被爆後の広島の写真を見てトルーマン大統領は驚いていた」とスティムソン氏は日記に書き残しています。
1945年8月9日、テニアン島から離陸したB-29によって、爆縮方式を応用したプルトニウム型原子爆弾、「ファットマン」が長崎に投下されました。この原子爆弾は、広島型のリトルボーイに比較すると大型で破壊力も大きかったのですが、長崎の地形が入り組んでいたため、その爆発効果は平坦な三角州が広がる広島ほどではありませんでした。日本軍は、この長崎への爆弾投下の直後から報道班を投入し、その悲惨さを世界に訴えるために数多くの写真を撮影しました。この対応は広島の場合とは違い、長崎の爆撃の状況を記録した写真が数多く残された要因となりました。この長崎への原子爆弾投下の報告を受けたトルーマン大統領は、市街地への原子爆弾投下を後悔していました。8月10日にはトルーマン大統領は、軍に対して原子爆弾投下禁止命令を出しました。グローブス准将は、1945年12月までに12発の原子爆弾を製造し、日本本土に投下する計画でしたが、トルーマン大統領の原子爆弾投下禁止命令によって、この計画は中止されました。グローブス氏は、後に軍のインタビューに答えて、「大統領も、都市部への全ての原子爆弾投下を止めることはできなかった」と述べていました。多額の国家予算を投入したため、議会での聴聞を怖れた責任者グローブスは、国費が無駄に投入されたものではないことを示さなければならなかったからでしょう。
長崎に原子爆弾が投下された日、中国東北部、樺太島、千島列島では、ソ連軍の総攻撃が始まりました。1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約の破棄を日本政府に通告し、日本軍との戦いを開始しました。日本政府は、この時点でのソ連軍の攻撃はないと考えていたため、その備えは不十分で、日本軍はほとんど抗戦できずに敗退しました。南樺太や千島列島に残っていた市民や日本軍兵士は、ソ連軍と戦いましたが、武器弾薬も限られており、人員も少なかったため、ソ連軍の侵攻を止めることはできませんでした。南樺太の港町では、戦える男を残して、ほとんどの婦女子は引き上げ船で、北海道に逃げ帰りました。しかし、郵便局で電話交換のために残った女子の交換手たちは、ソ連兵が町の端に来た最後の瞬間まで交換業務を行い、その大半が青酸カリを飲んで服毒自殺しました。彼女たちが日本へ向けて送った最後のメッセージは、今も北海道、稚内の丘の上に建てられた記念碑に刻まれています。
ソ連の参戦を知った昭和天皇は、1945年8月14日、一部の軍の代表者が徹底抗戦を主張したものの、これ以上の犠牲者を出すことはできないとして、ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏することを述べました。そして、8月15日に放送する国民へのメッセージを録音しました。この昭和天皇の決定を受けて、何人かの軍人が自らの手で命を断ちました。また、軍の若手の将校の中には、天皇のメッセージを録音したレコード盤を奪取して、放送を取りやめさせようとした者達もいたそうです。天皇の国民へのメッセージは、8月15日の正午に、ラジオ放送で日本中へ流されました。日本は、連合国軍との戦いに負けました。