公開: 2019年8月9日
更新: 2024年8月30日
人類の文明が発展して、人間の社会には、それぞれの地域を支配する「王」と、その王の支配の下で王を守る軍の将軍たちと、祭りを取り仕切る神官(しんかん)たちなどの普通の人々を支配する階層の人々が生まれました。そして、それぞれの王は、近隣の地域の王と手を結んだり、逆に互いに反目したりしました。互いに反目し合っていた王同士は、しばしば相手の国を攻め、その戦いに勝てば、相手の国にある食物や宝物を奪って持ち帰ったり、その国の人々を奴隷(どれい)として自国へ連れ帰ったりしました。相手の国の領土は、勝った国の領土になりました。こうして世界のそれぞれの地域に大きな「王国」が生まれました。ナイル川沿いのエジプト、チグリス川・ユーフラテス側沿いのメソポタミア地方のバビロニア、インダス川沿いの古代インド、そして黄河・揚子江沿いの古代中国などです。
これらの国々の中心になった王の国は、その周辺にあった国々と戦争をし、戦争に勝つことによって負けた国を従え、より大きく、より豊かな王国になりました。そのような王国では、やがて、粘土板に刻まれた楔形くさびがた)文字のような言葉を書き残すための文字と、アッカド語のような、文字で文を書くための文法が生み出されました。そして、この人間が作った国々とその周辺の地域に住む人々の生活や事件を記録することができるようになりました。その時代に、ハムラビ法典や旧約聖書に残されたモーゼの10戒のような、その古代人の社会における人々の行動の基本になった「きまりごと」が生まれました。それは、人間が地球上のどの場所にいるかには関係なく、どこでも似たような「きまりごと」によって、人々は支配されると言うものでした。
そのような社会の成り立ちをその根底で動かしている「力」を、難しい言葉で社会の「秩序」(ちつじょ)と言います。古代の人間社会の最も重要な秩序は、「戦いに勝つための(武)力」でした。つまり、その(戦いの)「力」の強い国が、周(まわ)りの弱い国々を打ち負かし、打ち負かした国を自分の国の一部として取り込むことで、少しずつ大きな国になっていったのです。その「力」とは、動物の世界でも強い動物が弱い動物を捕まえて食べ物にするのと同じ、「弱肉強食」の秩序です。また、同じ種類の動物の間でも、何かを取り合って戦い、勝った方がそれを独り占(ひとりじ)めにするのも同じことです。ただ、人間以外の動物では、闘争心の旺盛なチンパンジーを除くと、同じ種類の動物同士が戦っても、戦いの相手を殺すことはめったにないそうです。
このような人間がつくる二つの社会の間に起る戦いが、組織(そしき)的に行われるようになったのは、人間が農耕(のうこう)の技術を作り上げ、田畑で植物を栽培(さいばい)し、収穫(しゅぅかく)して、それを食料にして生きるようになってからのことです。それ以前の人間は、チンパンジーなどと同じように、自分たちより弱い動物を殺して食べたり、自然にある植物の実を集めて食べたりしていました。その時代、人間は一つの場所に留(とど)まることをせずに、獲物(えもの)や食物を求めて移動していました。そのような狩猟採集(しゅりょうさいしゅう)の社会では、同じ場所で異なる集団が出会うことが珍しく、複数の人間集団の間で争いごとが起ることは珍しいことだったようです。しかし、農耕社会になると、土地を耕し、種をまき、植物を育てて、実がなるとそれを集めて、蓄(たくわ)えるようになり、急速に人口が増加しました。
農耕を始めた人間は、一つの場所に定住(ていじゅう)するようになりました。この定住によって、人間は、狩猟社会(しゅりょうしゃかい)よりも大きな(人口の多い)社会を作ることができるようになりました。食べ物が安定して得られるようになったからです。しかし、天候などの影響で、植物が育たなかった年には、食物が不足したりしたため、別の場所に定住している集団から食物を得なければならないこともありました。定住して、「自分たちのもの」と言う、所有意識(しょゆういしき)が生まれていた人間にとって、「自分たちのもの」を誰かに取られることには、我慢ができなくなっていたのでしょう。人間社会の集団同士の間に、「争い」が生まれ始めました。
自分たちが見つけた土地に田や畑を作り、食物の種や苗を畑や田などに植え、栽培して育てる場合、集団の大きさは大きい方が、働ける人の数が多くなるため、取れる食料の量も多くなります。また、天候や場所の影響で、ある畑では多くの食料が得られても、別の畑からはあまり食料が得られないと言うこともしばしば起るようになります。このため、大きな集団で、広い土地を耕し、食料を育てて得る方が、結果として食物栽培(しょくもつさいばい)の失敗の影響を小さくできることが分かります。このような理由から、人類は、個々の社会の集団の大きさを大きくすることが有利であることを知ったようです。そのため、集団の間で戦いをして、負けた集団を、勝った集団に組み入れることで、より大きな集団を作ると言う方法ができあがったようです。このようにして、古代の国、国家ができあがってゆきました。
古代の国家は、自分たちの国と、隣り合った国々との間で、どこまでが自分たちの領土で、どこからが隣の国の領土であるかなどについて、しばしば争いごとを起こしました。その争いごとを解決するためには、近くに強大な力を持った別の国があれば、その国の王に判断を求めるでしょう。しかし、近くにそのような問題解決(もんだいかいけつ)をしてくれる巨大な力を持った国がなければ、その問題は、互いに争っている国同士で解決しなければなりません。そのような時、人類は、武力を使った戦争を起こし、戦いに勝った国の主張を認めるという解決策を生み出しました。そのような戦争のために、人類は、弓や刀、槍(やり)などを作り、使い始めました。さらに、青銅や鉄の作り方を発見した人類は、それらの金属(きんぞく)を使って、矢の先につける矢じり、刀、槍の先につける刃などを作るようになりました。そして、戦場で動き回るために、馬を育て、その馬に乗って戦うようになりました。
古代エジプトや古代バビロニアの時代から、5千年近くの間、人類が戦争に使った道具は、そのようなものが中心でした。今から1,000年ほど前、中国で火薬(かやく)が発明され、その火薬を使った武器が作られるようになりました。最初は、砲弾(ほうだん)のように、飛んで行った敵の近くで爆発を起こし、その周りの敵の兵士に傷を負わせるという単純なものでした。しかし、500年ぐらい前から、火薬の爆発力(ばくはつりょく)を利用して、弾丸(だんがん)を飛ばす方法が考えられ、鉄砲(てっぽう)が作られました。その鉄砲は、少しずつ大きな弾丸を撃てるように改良され、最終的に大砲(たいほう)にまで進化しました。さらに、大砲で飛ばす弾丸も、単なる鉄の玉ではなく、中に火薬を詰(つ)め、敵兵の近くに落ちた時に、弾丸が爆発(ばくはつ)するようなものも開発されました。大砲は、鉄砲のように一人で運ぶことが難しいので、台車(だいしゃ)に乗せで馬にひかせるようになりました。今から400年くらい前のことです。大砲の弾丸も大きく、重いので、大砲とは別に馬車に積んで運ぶようになりました。
このころ、海を渡るための船が改良され、帆(ほ)に受ける風の力で進む帆船(はんせん)が作られ、大型化し始めました。このことから、その船を戦争に利用する方法が考えられ、船に大砲と弾丸を積んで戦う方法が考えられました。海での戦争は、陸上の敵・味方の兵士同士の殺し合いではなく、敵の船を破壊(はかい)し、敵の船を沈没(ちんぼつ)させることで勝ち負けが決まります。それは、船に乗せられた大砲の大きさや、爆発したときの威力(いりょく)の大きさが重要になります。同じ大きさの大砲でも、火薬の性能(せいのう)がよく、弾丸を遠くに飛ばせるほうが有利です。また、船に乗っている兵士の能力(のうりょく)が高く、大砲の弾(たま)を、正確に相手の船に当てられる能力が高い軍の方が有利になります。さらに、大きな船を多く作れる国の方が有利になります。このことは、国の経済力(けいざいりょく)や工業力(こうぎょうりょく)が、その国の戦闘能力(せんとうのうりょく)を直接、左右する結果となりました。
このようなことから、今から200年ぐらい前までの戦争では、海の上の戦争と、その後に行われる陸上での戦争で、勝ち負けが決まるようになりました。ヨーロッパ大陸の国々の間では、国境(こっきょう)が陸続(りくつづ)きだったため、陸上の兵士同士の戦いが重要でしたが、海上の戦いと同じように、大砲を上手に利用できる国が有利になりました。フランスの皇帝ナポレオンは、大砲の使い方が上手で、大砲の操作に慣れた兵士もフランス軍に多かったため、ヨーロッパ大陸では最も強力な軍隊を持っていました。しかし、ナポレオンには、海上での戦争をうまく指揮できる将軍がいなかったことや、大きな船が少なかったこともあり、イギリスとの戦争では、海上の戦争に勝てませんでした。さらに、ロシアに攻め込んだナポレオン軍は、ロシアの厳しい冬の寒さに対する準備が悪く、冬になってロシア軍の反撃にあい、兵士も少しずつ疲労(ひろう)し始めたため、敗退(はいたい)する結果になりました。雪の中での戦いでは、大砲の良さや、大砲を使う能力の高さよりも、雪の中を走る馬や、ソリの性能、そして雪に慣れた兵士の方が重要でした。
ドイツのプロイセン王国とオーストリアのハプスブルグ王国との戦争でも、長い地上での戦いが続きました。この戦争でも、大砲と銃を持った歩兵との戦いが中心でした。両軍とも大変な数の戦死者に悩まされたそうです。広大な領土を誇っていたオーストリアのハプスブルグ家は、この戦争に勝てなかったことが影響して、少しずつその支配力が弱まってゆきました。他方、ドイツのプロイセンも、この戦争には勝利できませんでした。イギリスのビクトリア女王の血縁でもあったプロイセン国王も、イギリスの和解案を受け入れて、領土の獲得はできずに、戦争終結に同意したそうです。このころから、ヨーロッパ諸国では、戦争の開始や終了、実行などについての「きまりごと」に関する議論が少しずつ進み始めたようです。さらに、ナポレオン軍と戦った、ドイツの将軍、クラウゼビッツは、「戦争論(せんそうろん)」という本を書き、「戦争は外交(がいこう)の手段の一つに過ぎない」と述べました。クラウゼビッツは、また、戦争を開始するにあたっては、しっかりと戦略(せんりゃく)を立案しておくことが重要であると述べました。
19世紀末には、東洋に生まれた帝国主義的(ていこくしゅぎてき)な色彩(しきさい)の濃い日本と、経済的には巨大でも、軍事的には17世紀的であった中国大陸の清国(しんこく)が戦い、近代的な装備(そうび)を持ち、近代的な軍として戦った日本軍が、清国軍に勝利し、台湾(たいわん)を領土として獲得しました。さらにその十数年後、日本は帝政(ていせい)ロシアとの間で戦争を起こしました。当時の国力だけを見れば、圧倒的に有利なロシア軍に対して、最新鋭(さいしんえい)の装備をもった日本海軍は、日本海の海戦で、ロシア艦隊を撃滅(げきめつ)して、朝鮮半島から中国東北部に、日本陸軍は侵攻(しんこう)しました。しかし、陸軍の装備(そうび)に優(すぐ)れたロシア軍との戦いは、中国東北部で膠着(こうちゃく)状態に陥りました。当時、国内問題にも苦しんでいたロシア皇帝は、アメリカが提示した和解案(わかいあん)を受け入れることを承諾(しょうだく)しました。戦争のための出費に苦しんでいた日本政府も、戦争の継続(けいぞく)は難しいと判断し、アメリカの仲裁案(ちゅうさいあん)を受け入れました。これによって、日本は、カラフト島の南部と、千島列島を日本の国土とし、中国北東部にロシアが整備していた鉄道の領有権(りょうゆうけん)を得ました。日本の国内では、対ロシアの戦争で失った犠牲(ぎせい)に対する見返りが少なかったことを問題にする世論が沸き起こったようです。
これらの近代の戦争は、2つの国家間での利害(りがい)の対立が原因で、その解決策を、2国間での外交的な話し合いではまとめられなかったことが原因で起こる武力衝突(ぶりょくしょうとつ)でした。しかし、20世紀に入ってからの戦争は、2国間のみが関係した争いはほとんどなく、複数の国家が同盟(どうめい)を結び、敵対する同盟国との戦争を起こすという形態(けいたい)に変わりました。これによって、戦争は、国と国の正規軍(せいきぐん)同士の戦いというだけでなく、一般市民も巻き込んだ、国の総力を挙(あ)げた全面戦争に変わってゆきました。このことは、特に第2次世界大戦においては、武装した正規軍の兵士が、非武装の一般市民に対して組織的な攻撃を加えたり、武装した一般市民が、武装した正規軍との戦闘を戦うという例も出るようになりました。特に、ナチス・ドイツの軍隊と、侵攻された、隣国の、銃を手にした一般市民とが、市内で戦闘を繰り広げるというレジスタンス闘争が、ポーランドやフランス、スペインなどで発生しました。中立の立場を表明していた米国も、これらのレジスタンス闘争に対しては、支援を続け、ナチス・ドイツの弱体化を早めました。
19世紀末には、米国で飛行機が開発されていました。この飛行機を戦争に活用しようとする試みは、全ての国で早くから取り組まれていました。第1次世界大戦が始まると、飛行機は、最初、戦場での偵察(ていさつ)に利用されるようになりました。飛行機が、素早く、どこへでも飛べるという特徴が活かされたわけです。すぐに、飛行機に機関銃(きかんじゅう)を取り付けた戦闘用の飛行機が開発されました。そのため、戦場の上空では、戦闘用の飛行機同士が撃(う)ち合いをするようになりました。このことを空中戦(くうちゅうせん)と呼びます。空中戦は、複数の飛行機が、敵の複数の飛行機と戦います。飛行機を多く失った方は、負けを認め、残った飛行機を守るために、戦場を離れて逃げ帰ります。当然のことですが、この空中戦でも、飛行機の数が多い方が有利です。高価な飛行機を失えば、痛手も大きいので、圧倒的に数が少ない場合、空中戦をせずに逃げ帰るのが普通です。ほぼ同数の飛行機同士の場合、空中戦が始まります。この空中戦に勝った方は、その近辺の空の領域を支配したことになり、有利に地上での戦争を進めることができます。
このころの飛行機は、操縦(そうじゅう)が難(むずか)しく、パイロットには長時間の訓練(くんれん)が必要でした。さらに、その訓練に必要な経済的な負担も大きかったために、ヨーロッパ諸国では、裕福(ゆうふく)な家庭に生まれた人たちが飛行機に乗っていることが多かったようです。最も有名だった飛行機の操縦士(そうじゅうし)は、ドイツの「赤い男爵(だんしゃく)」と呼ばれた貴族(きぞく)のリヒトホーフェン男爵でした。彼は、数多くの敵の飛行機を撃(う)ち落とし、「撃墜王(げきついおう)」と呼ばれていたドイツのパイロットです。しかし、その彼も、最終的には空中戦のさなかに、米国人のパイロットが操縦した飛行機に撃ち落とされ、死にました。一説によると、この空中戦は、二人にとって二度目の戦いで、一度目はリヒトホーフェンが相手を撃ち落としていたと言い伝えられています。
飛行機の登場で、戦争のやり方も変わったようです。それは、飛行機であれば、敵の軍隊が陸上を支配している地域の中の場所であっても、飛行機で飛んで行き、攻撃(こうげき)することができるからです。実際に、第1次世界大戦の途中、爆弾を積んだ飛行機が、敵軍(てきぐん)が支配している地域の建物に爆弾を落としたとされる記録が残ってるそうです。この爆弾の投下によって、軍の関係者ではない市民の命が奪われました。しかし、世界は、その犠牲(ぎせい)が、大砲による砲撃の場合のようには多くなかったため、ほとんど問題にされませんでした。多分、巨大な大砲で、同じように攻撃が加えられたとすれば、犠牲者も多くなったため、一般市民への攻撃として、その行為の倫理的な問題が議論されたでしょう。
この飛行機による軍の施設(しせつ)以外を目標とした爆撃は、この行為が問題にされなかったため、連合軍側、ドイツ・オーストリア軍側の両者で、普通に行われるようになったそうです。つまり、最初の爆撃が世論の非難(ひなん)を浴(あ)びなかったことが、前例となり、既成事実(きせいじじつ)化したと考えられます。このことが、第2次世界大戦における戦略爆撃(せんりゃくばくげき)を、軍の中枢にいた人々(将軍など)が暗黙(あんもく)のうちに認めるという、国際的な前例を作ったと言えます。第2次世界大戦では、ドイツ軍によるロンドン爆撃やワルシャワ爆撃、連合軍によるドレスデン爆撃、日本軍による上海や南京の爆撃、アメリカ軍による東京爆撃や、日本の中核都市の爆撃などが行われました。これらの市民を標的とした攻撃の悲惨(ひさん)さは、記録として残され、最近ではその倫理性を問題にする研究者も出ていますが、大きく問題にされたことはありません。東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)では、一晩に30万人の死者が出たともいわれています。
第1次世界大戦では、飛行機のほかに、戦車と毒(どく)ガスが登場しました。しかし、戦車も毒ガスも、戦場以外で、敵の市民を攻撃するために使われたことはありません。なぜなのでしょうか。毒ガスは、第1次世界大戦直後に、戦場での使用を禁止する国際法(こくさいほう)が作られました。ナスチのヒットラーも、自分自身が第1次世界大戦での戦場の経験から、毒ガスの使用を嫌ったことが原因だったともいわれています。日本軍も、毒ガスや細菌兵器(さいきんへいき)の開発や製造は行っていたようですが、実際に戦闘で使ったとされる記録はありません。広島県にある大久野島(おおくのしま)には、毒ガス工場の跡(あと)が残っています。また、陸軍の731部隊が細菌兵器の人体実験(じんたいじっけん)を行っていたことは有名です。しかし、その記録は、殆(ほとん)ど残されていません。記録は、日本軍の関係者によって、ほとんどが焼かれてしまったとされています。戦後、占領軍(せんりょうぐん)が調査を実施し、その占領軍による調査記録だけが残っているだけだそうです。
なぜ戦略爆撃は、倫理性を問われないまま、第2次世界大戦においても妥当な戦術(せんじゅつ)として残ったのでしょうか。戦車で市民を攻撃することは、その地域を軍隊が制圧しなければならないので、簡単ではありません。さらに、戦車を運ぶことができる状態であれば、すでにその地域は味方の軍隊の支配下にあるといえるので、よほどの理由がなければ市民を攻撃する必要はないのでしょう。戦車で、市民を攻撃すれば、その行為は報道され、世論の批判にさらされるでしょう。これに対して、飛行機による空からの爆撃は、特定の人々を狙うわけではないので、爆弾を落とす飛行機の乗組員にとっても良心の呵責(りょうしんのかしゃく)は少ないでしょう。飛行機から見れば、爆弾が地上へ向かって落下し、地上で爆発を起こしていることはわかるはずです。しかし、その爆発で、一般市民、子供たちも含めて、死んでいるかもしれないことは、よく考えなければ分からないからでしょう。
この爆弾投下の操作と、地上での爆弾の爆発との関連が、直接的に結び付きにくいことが、戦略爆撃が社会的な問題として議論されてこなかった原因のようです。第2次世界大戦中に、東京近郊にあった兵器工場だけを標的とした戦略爆撃は、米軍自身の評価では、十分な成果を挙げていないとされていました。1945年3月10日の夜に始まった東京大空襲では、それまでの戦略爆撃に変えて、一般市民が住む住宅地域を目標とし、爆弾ではなく、焼夷弾(しょういだん)と呼ばれているナパーム弾が使われました。これは、家を焼くためでした。火災を起こして、東京を壊滅(かいめつ)させることが目的でした。そのため、目標地域の周(まわ)りから焼夷弾を落とし、火災を起こさせ、後で、その地域の中心部分の攻撃に着手するようにしたようです。このため、標的の地域にいた人々の多くは、逃げ場を失って、焼け死んだといわれています。火事の熱で、上昇気流が発生し、火災の威力が増加したことも分析されています。米軍では、関東大震災の記録から、日本の木造家屋建築(もくぞうかおくけんちく)が、火災に弱いことを見出し、この方法を採用したと記録されています。
このような市民を標的とした無差別戦略爆撃(むさべつせんりゃくばくげき)は、実施計画に対する十分な倫理性の検討もなく、最終的には、広島や長崎の数多くの市民を犠牲にした、原爆投下という非倫理的な政治決断(せいじけつだん)を生み出しました。