教育、学び、そして学校


現状分析(3) 〜 進学競争、格差拡大、そして少子化

公開: 2024年4月3日

更新: 2024年9月3日

あらまし

日本社会の義務教育課程で、不登校やいじめを増加させている原因の一つに、加熱する進学競争があると考えられています。子供たちが将来、「良い仕事」に就くために「良い大学」へ進学することを、「ほとんどの親」が望んでいるからです。そしてそれは、良い大学へ入学するためには、「良い高校」へ入学する方が有利であると考えることに、つながります。そのような良い高校へ進学するためには、「良い中学校」へ入り、学ぶ方が有利になると考えるでしょう。さらに、経済的に余裕があれば、良い中学校で学ぶためには、いじめを受ける可能性が低い、「私立の小学校」で学ぶ方が有利だ、と言う考えに帰結します。つまり、子供たちは、小学校から大学入学まで、受験競争に「明け暮れ」しなくてはならないのです。子供たちは、昔の子供たちのように、無邪気(むじゃき)に「遊ぶ時間」はほとんどなくなっているのです。それどころか、子供たちには、ほかの人たちとどのように関係を持ったら良いかなど、社会性を育む方法を体験的に学ぶ時間すらなくなりつつあるのです。それは、子供たちの精神の成長に、ストレス、を与え、他の人の思いに気を回す余裕を失わせ、無意識のうちに、他人をからかったり、他人を傷付けたりする傾向も生み出します。゛

子供たちの親にとっては、子供たちに良い学習環境を整えることは、他の子供たちを「不登校にさせるため」のものでも、「いじめの加害者にする」ためのものでもなく、ただ子供たちの将来のために、「他の子供達よりも少しでも有利な条件」を整えることを目的にしたのものなのです。しかし、その結果として、一部の子供たちは、「不登校」になり、さらに、「引きこもり」になり、一人の人生の大半を、社会との関係を持たずに過ごす問題を生み出す場合もあります。そうでない場合でも、子供たちの中には、学校での勉強の成績は優良でも、隠れた「いじめ」の加害者になり、自らのストレスを発散し、「いじめの被害者」に対して、取り返しのつかないような心の傷を負わせ、その人の一生を台無しにしたりすることもあるのです。日本の社会における「いじめ」の調査では、ヨーロッパ諸国における「いじめ」の調査結果との著しい違いとして、相対的に多数の生徒が、少数の子供たちを標的として、「いじめ」行為を行う傾向があることが指摘されています。このことが、「いじめ」の被害者を、自分たちの集団から排除しようとする圧力を高め、時として被害者を死に至らしめるなど、「いじめ」の結果を重大な社会問題にすることがあります。

「不登校」の事例でも、不登校になる児童・生徒は、しばしば、そうでない友達からの、配慮に欠けた言葉や態度によって、それまでは、自分では自覚していなかった劣等感を強く意識させられたために、学ぶ意欲を失い、学ぶことを「あきらめ」てしまう例が多いようです。この場合は、「いじめ」の例とは違って、「きっかけ」となった言葉を投げかけた児童・生徒は、相手への配慮が欠けていただけで、相手を傷付けようとする意図は全くない例も多いのです。しかし、成長するに従い、子供たちの間でも、家庭の社会的な差が意識されるようになります。日常的に身に着けている服装、持ち物、休暇での家族旅行の行き場所など、細かな違いから、子供たちも家庭間の経済的な格差を感じ取ります。日頃から、そのような格差を感じている子供の場合、小学校から中学校への進学で、私立中学へ行けるかどうかなど、家庭の「貧富の差」が明らさまに影響する事態を見て、格差を意識し始め、その格差の認識を原因にして、自らの将来を悲観する子供もいるでしょう。将来を悲観した子供は、時として急激に、学ぶ意欲を失うことがあります。

本来、子供たちの才能や能力は、親の財力とは無関係であり、子供の家庭の社会階層によって、影響されるべきではありません。子供たちの将来は、子供たち自身の能力に従って、その自由な意思によって選択されるべきであり、子供たちの自分自身の能力の違いで、成功や失敗が決まるべきなのです。従って、「自分自身では変えることができない」、親の財力や社会的な地位の高さによって、左右されるべきものではありません。しかし、日本社会の現実は、親の財力によって、幼稚園時代に小学校受験のための塾に通わせたり、英語塾やコンピュータ塾に通わせ、早期から小学校で学ぶ内容に触れさせ、入学後の勉学に有利な状況を作り出しています。そのため、子供たちには、幼児教育の課程から、知識を得ることに重点が置かれ、精神面の発達や人間関係を育む本来の教育がおろそかになりがちです。この段階での、「知識の詰め込み」に失敗すると、その後の高等教育までに得るべき知識に差がつき、その後の人生に大きな影響があると考えられるので、多くの親たちは、真剣に、子供たちに塾通いをさせるのです。

このような早期教育を重視する傾向は、日本社会だけに見られるものではありません。特に、東アジア諸国では、その傾向が著しいと、指摘されています。シンガポール、ホンコン、中国本土、台湾、韓国などでは、幼児期からの塾通いや、家庭教師による学習指導が過熱気味だと伝えられています。これらの東アジア諸国の社会は、「学歴社会」と呼ばれているように、大学を卒業することが、人生で「成功するための必須の条件」になっています。共産主義国である中国本土でさえ、最近まで子供たちは幼児期から塾へ通うのが普通でした。中国の習近平主席は、その行き過ぎた幼児期教育を是正するために、塾を禁止しました。塾通いのために必要な家庭の出費が大きく、裕福な家庭の子供たちに有利で、競争が激化し過ぎていたからです。このことが、若者たちの婚期を遅らせたり、子供を産まない家庭が増加したりする傾向を生み出し、中国社会の急激な少子・高齢化を進展させているからです。同じ現象は、韓国でも顕在化しています。現在の韓国における出生率は、0.72で、OECD加盟国の中でも最低水準です。

現状分析(3) 〜 進学競争、格差拡大、そして少子化

日本社会の義務教育課程で、不登校やいじめを増加させている原因の一つに、加熱する進学競争があります。それは、子供たちが将来、良い仕事に就くために良い大学へ進学することを、多くの親が望んでいるからです。そしてそれは、良い大学へ入学するためには、良い高校へ入学する方が有利であるとの考えに、つながります。そのような良い高校へ進学するためには、良い中学校へ入り、学ぶ方が有利になると考えるでしょう。さらに、経済的に余裕があれば、良い中学校で学ぶためには、いじめを受ける可能性が低い、私立の小学校で学ぶ方が良い、と言う考えになります。つまり、子供たちは、小学校から大学入学まで、受験競争に「明け暮れ」しなくてはならないのです。現代の子供たちは、昔の子供たちのように、無邪気(むじゃき)に遊ぶ時間はほとんどなくなっているのです。それどころか、子供たちには、将来のために、ほかの人たちとどのように関係を築いたら良いかの、社会性を育(はぐく)む方法を学ぶ時間すらなくなりつつあるのです。この子供たちの余裕のなさによって、子供たちの精神に、強いストレス、がかかり、子供たちの精神の健全な発育に悪影響を与える危険性があります。つまり、他の人の思いに気を回す余裕が消え、無意識のうちに、他人をからかったり、他人を傷付けたりする傾向が生まれてしまうことがあります。

子供たちの親にとっては、子供たちに良い学習環境を整えることは、子供たちを不登校にさせるためのことでも、いじめの加害者にするためのことでもなく、子供たちの将来に、他の子供達より少しでも有利な生活環境を整えるためなのです。しかし、その結果として、一部の子供たちが、不登校になり、さらに、引きこもりになり、一生の大半を、社会との関係を持たずに過ごすことになる問題も生むのです。そうでない場合でも、子供たちの中には、学校での勉強の成績は優良でも、隠れた「いじめ」の加害者になり、自らのストレスを発散して、「いじめの被害者」に対して、取り返しのつかないような心の傷を負わせ、その人の一生を台無しにしたりすることもあるのです。日本の社会における「いじめ」の調査では、ヨーロッパ諸国における「いじめ」の調査結果との著しい違いとして、多人数の生徒が、少人数の子供たちを対象として、「いじめ」行為を行う傾向があることが指摘されています。このことが、「いじめ」の被害者を、自分たちの集団から排除しようとする圧力を高め、時として被害者を死に至らしめるなど、「いじめ」の結果を重大な社会問題にすることがあります。

不登校の事例でも、不登校になる児童・生徒は、しばしば、そうでない友達からの、配慮に欠けた言葉によって、それまでは、自分では自覚していなかった劣等感を、強く意識させられたため、学ぶ意欲を減退させ、学ぶことを「あきらめ」てしまう例が多いようです。この場合は、「いじめ」の例とは違って、「きっかけ」となった言葉を投げかけた児童・生徒には、相手への配慮がかけていただけで、相手を傷付けようとする意図は全くなかったのです。しかし、成長するに従い、子供たちの間でも、家庭の社会的な階層差が意識されるようになります。日常的に身に着けている服装、持ち物、休暇での家族旅行の行き場所など、細かな違いから、子供たちも家庭間の経済的格差を感じ取ります。日頃から、そのような格差を感じている子供の場合、小学校から中学校への進学で、私立中学へ行けるかどうかなど、家庭の裕福度が明らさまに影響する事態を見て、格差を意識し始め、その格差の認識を原因に、自らの将来を悲観する子供もいるでしょう。将来を悲観した子供は、学ぶ意欲を失うことがあります。

本来、子供たちの才能や能力は、親の財力とは無関係であり、子供の家庭の社会階層によって、影響されるべきではありません。子供たちの将来は、子供たち自身の能力に従って、その自由な意思によって選択されるべきであり、子供たちの自分自身の能力の違いで、成功や失敗が決まるべきなのです。親の財力や社会的な地位の高さによって、左右されるべきものではありません。しかし、日本社会の現実は、親の財力によって、幼稚園時代に小学校の受験のための塾に通わせたり、英語塾やコンピュータ塾に通わせ、早期から小学校で学ぶ内容に触れさせ、入学後の勉学に有利な状況を作り出しています。そのため、子供たちは、幼児教育の課程から、知識を得ることに重点が置かれ、精神面の発達や人間関係を育む本来の教育がおろそかになりがちです。この段階での、知識の詰め込みに失敗すると、その後の高等教育までに得るべき知識に差がつき、その後の人生に大きな影響があると考えられているので、多くの親たちは、真剣に、子供たちに塾通いをさせているのです。

このような早期教育を重視する傾向は、日本社会だけに見られるものではありません。特に、東アジア諸国では、その傾向が著しいと、指摘されています。シンガポール、ホンコン、中国本土、台湾、韓国などでは、幼児期からの塾通いや、家庭教師による学習指導が過熱気味だと伝えられています。これらの東アジア諸国の社会は、「学歴社会」と呼ばれているように、大学を卒業することが、人生で成功するための必須の条件になっています。共産主義国である中国本土でさえ、子供たちは幼児期から塾へ通うのが普通のようです。中国の習近平主席は、その行き過ぎた幼児期教育を是正するために、塾を禁止しました。塾通いのために必要な家庭の出費が大きく、裕福な家庭の子供たちに有利で、競争が激化し過ぎていたからです。このことが、若者たちの婚期を遅らせたり、子供を産まない家庭が増加したりする傾向を生み出し、中国社会の少子・高齢化を進展させているからです。同じ現象は、韓国でも顕在化しています。現在の韓国における出生率は、0.72で、OECD加盟国の中でも最低水準です。

国際的通信社のロイターの報道によれば、韓国の首都のソウルにおける2023年度の特殊出生率は、0.55で、韓国内で最低の水準です。さらに、2024年の韓国社会の特殊出生率の予測値は、0.68になると予想されています。東アジアの国々では、日本の特殊出生率は、1.26であり、中国では1.09です。中国、日本、韓国の出生率がOECD加盟国の中で最低水準にある現実を生み出している原因は、若者の未婚化と、子育て経費の増大に伴う、子供を産まない家庭の増加です。つまり、裕福な家庭のみが子供を産めるような社会になりつつあるのです。しかし、長期的な視点で考えれば、出生率が2に満たない社会は、経済が衰退し、滅亡する運命にあります。この経済発展のための出生率水準を維持できている国は、先進国の中で、アメリカ合衆国だけです。特に、東アジアの国々は、長期的に衰退傾向から抜け出すことは、難しそうです。その意味でも、東アジアの国々では、子供の将来が、生まれた家庭の経済的な豊かさに依存する現実は、変えなければならないのです。ヨーロッパ諸国では、家庭の教育費が低いことから、東アジアの国々ほどの急激な出生率低下の問題はありません。

世界における出生率の現状を見ると、20世紀後半から21世紀の最初の10年間に著しい経済発展を遂げた東アジア諸国は、極端な出生率低下問題に直面しているため、21世紀の半ば頃から、経済の停滞に悩まされることが予想されます。これは、社会が固定的で、社会の階層が明確化している社会では、出生率の急激な低下が進むとともに、経済が停滞し、社会が衰退します。そのような、社会の繁栄と衰退は、人間社会の歴史の現実ですが、それは、人間社会の必然ではないでしょう。必然ではなく、社会における階層の固定化を放置することが原因で発生する、社会におけるダイナミズム(活力)の喪失が生み出す少子化や未婚化が引き起こす現象です。そのため、社会における階層の固定化を避けることができれば、少子化を防ぎ、社会の衰退を遅らせることができるのです。その意味でも、社会のダイナミズムを維持できるように、個々の人間が行動することは、長期的に社会を維持し、発展させるために必要な条件になります。それを可能にする条件が、社会の全ての子供たちに対する、平等な教育機会の提供です。

不登校や「いじめ」の発生は、不公平な社会が生み出す、子供たちに対する社会の悪影響の結果ですが、長い目で見れば、それは、次の世代の人々に対して、社会的な格差を生み出し、将来の子供たちの不登校や「いじめ」を生み出す要因になる可能性があります。この負の連鎖を断ち切るためにも、教育機会の平等化を保証し、全ての子供たちが安心して学べる環境を作り出し、維持することは、大人たちの責任です。大人たちは、それを作り出し、維持するように行動しなければなりません。特に、教育現場に直接関わる、子供たちの親たち、教員たちは、その社会に対する倫理的な責任を忘れてはならないのです。

ある社会における人々の間の所得格差を測定する方法として、世界的に使われている指標に「ジニ係数」があります。ジニ係数は、ゼロから1までの数字で表され、ゼロのときその社会には「カタヨリ」がなく、1のときその社会では所得が独占されていることを表しています。日本社会のジニ係数は、2015年以降、0.37前後になっています。これは、OECD加盟国の先進諸国では、平均が0.29前後なので、高く、新興国平均の0.46に近い数字です。一般に、ジニ係数が0.4より高くなると、社会が不安定になると考えられています。ヨーロッパ諸国に比較すると、日本、イギリス、米国は、ジニ係数が新興国に近い値になっています。

このジニ係数の統計から、日本社会は、ドイツ社会や北欧諸国と比較すると、「所得格差が大きな先進国」に入ります。その理由は。日本社会では、高齢者に対する社会保障が手厚く、若者に対する所得補償が少ないこと、特に子育て世帯に対する財政支援が、ヨーロッパ諸国と比較すると、少ないことなどが指摘されています。日本社会では、家庭の教育費負担が重い割に、国家による教育費への支出が小さいため、若い人々の家庭に対する財政支援が乏しく、子供たちへの教育費負担が重く、結果として「ジニ係数」を大きくしているようです。そのことは、上に述べたような理由から、児童・生徒の不登校や「いじめ」の増加を加速させる原因になっていると言えます。

この所得格差と不登校や「いじめ」の増加の連鎖を断ち切るためには、家庭の所得と、子供たちの教育費負担の関係を断ち切るような政策が必要です。つまり、高等教育の無償化や、国家財政による支援、そして過度な進学競争を抑制する教育指導政策が必要でしょう。現在の親世代にとっては、高い学歴や良い大学を卒業することが、良い人生を送るための条件でしたが、21世紀の世界では、個人間の競争も世界的になり、専門分野の選択や本人の適性・才能・努力が、結果に大きく影響する世界に変わるでしょう。そのような世界では、学歴よりも、運や適性、本人の努力の方が大きな影響を与えます。野球の大谷翔平選手は、そのモデル・ケースです。医者であっても、技術者であっても、研究者であっても、プロの選手であっても、同じなのです。

親の経済力が、子供の将来の生活に全く影響しないと言う現実はないでしょうが、少なくとも、子供の教育にはほとんど影響しない社会を作り出すことは可能です。スウェーデンに代表されるような北欧の社会では、完全とは言えないまでも、ある程度、そのような社会に近づいています。米国社会のように、個人間の競争だけに頼るのも、やり方としてはありますが、効率は悪く、偶然に頼る部分が大きくなります。北欧の社会のように、ある程度、統一的に管理された社会の方が、全体の効率は良くなるでしょう。米国社会が完全な失敗にならないのは、個人の善意によって、貧しい人々を助けるプロテスタント的な精神が、今でも残っているからでしょう。そのような倫理的枠組みを持たない日本社会は、個人による自由な競争に全てを頼ることは、危険すぎます。

(つづく)