公開: 2024年4月7日
更新: 2024年8月22日
18世紀以降に成立した近代的な、特に中央集権国家では、教育を個人的な営みの一部とせず、国家事業の一部として、政府が積極的に管理すべき営みであるとする考えがありました。それは、主として教育がその社会で、次の世代を担う子供たちの、個人の学びを支援する一方で、将来の国家の経済力や、国家の戦力を大きく発展させるために必要な、社会を担う「人材を育成するための制度」でもあるからです。不完全な教育制度の国家では、経済の発展は遅れ、軍事的な作戦の実施においても、指揮官と兵士との間の意思疎通に問題を起こす可能性があるからです。つまり、国家の中で共通に使われる共通言語を定め、その共通言語を利用した、国民の間の意思疎通が円滑にできるようにしなければなりません。特に、中央集権的で巨大な軍事大国においては、そのような「国民教育」は、国家を形成するための、必須の事項となります。
教育哲学者のJ. ホワイトは、「全ての社会の教育制度は、何か明確な意図をもって計画される」と、しました。従って、その構築は、「意図的で、明確な目的に沿って営まれる。」と、説明しています。そこで言う、「目的」とは、その社会の人々の言語コミュニケーションの能力(読み書きや、会話・説明の能力)、数で表現される量の四則計算や数量の操作に関する能力など、人々の社会活動を円滑に実施するために必要な能力を、社会で必要な水準以上に保ち、社会の発展や拡大を実現するために必要な内容などが中心になります。
第2次世界大戦後の日本社会における教育制度を述べている教育基本法では、「人間は、社会的には未熟な形で生まれる」ことを前提として、そのような未完成な人の人格を完成させるために、その正しい形成を助け、「新しい国家や社会の構築に必要な資質と、心身ともに健全な国民を育成」するためである、としています。さらに、「公共の精神、伝統・文化を尊重する態度を育成する」、ことも重視されています。特に、追加された後段の部分では、戦前からの価値観の継承を意図して、改めて追加されたものと考えられます。
日本の教育基本法の例からも理解できるように、ある国を統治している人たちの目から見れば、「教育の目的」は、統治者たちが望むような国民や市民を数多く育成し、自分たちの意図を実現することです。明治時代の「学制」や「教育令」、「教育勅語」などを通じて、大日本帝国の政府は、帝国主義によく適合する若者を作り出し、国家のためには自分たちの命をも惜しむことなく、「率先して敵と戦う」覚悟をもつ人々を作り出しました。そのためには、日本の伝説的な歴史(神話)を振り返り、日本が単一民族の国であるとする国粋主義的な主張を「刷り込み」、日本の国を統治するのは天皇であり、国民の義務は天皇の意志に従うことである、と「刷り込み」ました。
戦後の教育基本法では、戦前・戦中の誤りに学び、「真理と正義」、「個人の価値の尊重」、「自由の精神」など、民主的な精神が強調されています。しかし、その内容は抽象的です。戦前の教育制度でさえも、当てはまっている可能性があります。さらに、「伝統や文化の尊重」や「郷土愛」などを含めると、さらに戦前の教育制度での教育の姿勢に通じる教育になるでしょう。これらの言葉の一つ一つには、全く問題はないのですが、これらを並べて、特定な思想的背景を意識して、一つの思想として表現すると、帝国主義的な考えを背景に述べるか、理想主義・平和主義的な考えを背景に述べるかで、伝わる意味は正反対になります。
18世紀以降に成立した近代的な、特に中央集権的国家では、教育を個人的な営みの一部とせず、国家事業の一部としても、政府が積極的に関与すべき営みとする考えがあります。それは、教育が主としてその社会で、次の世代を担う子供たちの、個人の学びを支援している一方で、将来の国家の経済力や、国家の戦力を大きく左右する、社会を担う人材を育成するための制度でもあるからです。不完全な教育制度の国家では、経済の発展は遅れ、軍事的な作戦の実施においても、指揮官と兵士との間の意思疎通に問題を起こす可能性があるからです。つまり、国家の中で共通に使われる共通言語を定め、その共通言語を利用した、国民の間の意思疎通が円滑にできるようにしなければなりません。そうしなければ、市場も地域別に限定されますし、全国民を対象にした軍隊を編成することも不可能です。特に、中央集権的な軍事大国においては、そのような国民教育は、国家を形成するための、必須の事項となります。明治政府によって、明治維新に発せられた「学制」は、そのような意味を持っていました。
教育哲学者のJ. ホワイトは、「全ての社会の教育制度は、明確な意図をもって計画される」と、しました。従って、その制度の構築は、「意図的で、目的に沿って営まれる。」と、説明しています。そこで言う、「目的」とは、その社会の人々の言語コミュニケーションの能力(読み書きや、会話・説明の能力)、数で表現される量の四則演算や操作に関する能力など、人々の社会活動を円滑に実施するために必要な能力を、必要な水準以上に保ち、社会の発展や拡大を実現するために必要なことなどが中心になります。
第2次世界大戦後の日本社会における教育制度を述べている教育基本法では、「人間は、社会的には未熟な形で生まれる」ことを前提として、そのような未完成な人の人格を完成させるために、その正しい形成を助け、「新しい国家や社会の構築に必要な資質と、心身ともに健全な国民を育成」する、としています。さらに、「公共の精神、伝統・文化を尊重する態度を育成する」、ことも重視されています。特に、追加された後段の部分では、戦前からの価値観の継承を意図して、改めて追加されたものと考えられます。
日本の教育基本法の例からも理解できるように、ある国を統治している人たちの目から見れば、「教育の目的」は、統治者たちが望むような国民や市民を数多く育成し、自分たちの意図を実現することです。明治時代の「学制」や「教育令」、「教育勅語」などを通じて、大日本帝国の政府は、軍事帝国主義によく適合する若者を作り出し、国家のためには自分たちの命をも惜しむことなく、率先して敵と戦う覚悟をもつ人材を作り出しました。そのためには、日本の伝説的な歴史(神話)を振り返り、日本が単一民族の国であるとする国粋主義的な主張を刷り込み、日本の国を統治するのは天皇であり、国民の義務は天皇の意志に、忠実に従うことである、と刷(す)り込みました。
第2次世界大戦中に成長した若者たちの多くは、兵士や士官として、自らの命は投げ捨てても、敵の船や軍隊に爆弾を抱え、体当たり攻撃をすることをも、誇りに思うように育てられていました。そして、多くの若者たちは、そのように振舞ったのです。それは、当時の日本政府の意向に沿ったものでした。国家の教育、特に義務教育は、個人の(本来は自由な)意志を、為政者(たち)の意志に沿ったもののように変えてしまうほどの力があるのです。政府や為政者が正しい思想をもって、政府を運営していれば、正しい考えに基づいて行動する国民も多くなりますが、そうでなければ、ヒットラーのように、「我々の国は正しい。」、「わが人民は優秀であり、他国の人々は間違っている」と考えるようにもできます。
戦後の教育基本法では、そのような過去の誤りに学び、「真理と正義」、「個人の価値の尊重」、「自由の精神」などが強調されています。しかし、その内容は抽象的です。戦前の教育制度でさえも、当てはまっている可能性があります。さらに、「伝統や文化の尊重」や「郷土愛」などを含めると、さらに戦前の教育制度での教育の姿勢にも通じる教育にもなるでしょう。これらの言葉の一つ一つには、全く問題はないのですが、これらを並べて、特定な思想的背景を意識して、一つの思想として表現すると、帝国主義的な考えを背景に述べるか、理想主義・平和主義的な考えを背景に述べるかでは、伝わる意味が正反対になります。
教育の目的で重要なことは、「どのような人々を育てるのか」に関係なく、「何を理解させるべきか」や「どのように考える人を育てるのか」を中心に、述べることです。つまり、現在の教育基本法でも重点が置かれているような、「幅広い見識と教養」を身に着けること、「真理を求める姿勢」を身につけること、そして「豊かな情操と倫理」を身に着けた人を育てることなどを、目的とすることが望まれるでしょう。その結果が、国の文化や伝統を尊重する人であっても良いでしょう。逆に、人類に共通する普遍的な価値観を重んじ、新しい価値の創造を願う人であっても良いはずです。
ところで、現在の日本国憲法では、「働くことは国民の義務である」としています。さらに、「全ての国民に仕事を与えることは国家の責任である」ともしています。特に、国民の「働くことの義務」については、教育基本法でも、「自主自立の精神で、職業と生活の関係を学ぶ」ことが重視されています。このことは、「失業率ゼロ」の達成を意味しており、「ひきこもりゼロ」を追及することになります。このことは、特に21世紀の世界で、日本の社会では、現実的ではありません。「仕事をすることの意味」について学ぶことは重要ですが、それを個人の生活に直接結びつけることは、20世紀的であり、個人の自由意思を尊重する現代の日本社会の実情には適合していません。