教育、学び、そして学校


現状分析(2) 〜 過激化するいじめ

公開: 2024年3月28日

更新: 2024年8月4日

あらまし

義務教育の現場における「いじめ」問題は、日本社会の問題の一つです。それは、日本社会だけに特有な問題ではなく、世界の様々な国々で報告されている問題です。そのことから、いじめは管理されていない教育の環境では、多くの場合、自然に発生する傾向のある問題であると言えます。この問題が、社会で注目され始めたのは、1970年代のヨーロッパ社会でした。その頃から、研究者たちは、この問題を系統的に観察し、議論を深めようとしてきました。その研究過程を見直すと、当初は、学校の教育現場における「校内暴力」が注目されました。特に日本社会では、教育現場における児童生徒による対教師暴力問題が注目されました。それは、学校の教育現場では、教員に児童生徒の暴力行動に対する、有効な対抗手段がなかったからです。

1983年、日本社会では、学校での対教師暴力の件数はピークに達しました。文部科学省も親たちもこの問題を放置するわけにはゆかなくなりました。そのような大人の積極的な介入が増えた結果、1984年からは、児童・生徒による対教師暴力問題の発生は、激減しました。しかし、それに伴って、児童・生徒間での暴力を伴う事件の発生が、深刻化し始めたのです。この児童・生徒間での暴力問題は、従来の義務教育現場でもしばしば見られていた「児童生徒間のケンカ」のように、教員の目が届きにくく、把握が難しい特徴がありました。学校で把握された問題件数だけでも、1984年は、小学校で5450件、中学校では3519件に上りました。1986年の調査では、小学校では約9万6千件、中学校で約5万3千件が報告されています。ノルウェーの調査では、1984年の報告で、いじめに加担した経験のある小中学生は、全体の約15パーセント、被害にあった経験のある生徒は、全体の7パーセントでした。

日本社会とヨーロッパ社会の義務教育における「いじめ」問題の顕著な違いは、日本は「被害者」の数・比率が、「加害者」の数・比率よりも多く、ほぼ同時期のヨーロッパ社会の傾向とは反対になっていたことです。これには、「いじめ」の定義が、日本社会とヨーロッパ社会で、微妙に異なっていることが影響している可能性があるかもしれません。ヨーロッパ社会での「いじめの定義」を見ると、「いじめの被害者」が、その加害者(たち)が意識的に、被害者を傷つけ、不快な感情を持たせるために、力関係の差を積極的に利用して、行う行為の結果、被害者が深刻な痛手を負っていることを理解したうえで、継続的に行為を続けることを意味します。それは、「いじめ」の被害者は、個人であっても、加害者は絶対的に多数である例が含まれています。つまり、「いじめ」には、昔からの「けんか」のような、1対1の暴力行為は含まれないのです。

現在、日本社会の義務教育現場が直面している重大な問題にも、「いじめ」の問題があります。特に学校でのいじめは、不登校や「ひきこもり」の原因の一つになっているので、日本社会の義務教育の現場では、重大な関心事です。この「いじめ」は、複数の人間が集まる集団や、社会においては、自然発生的に起こる動的な集団現象で、その発生のメカニズムを解明することは、きわめて難しい問題です。つまり、何が「きっかけ」で、「いじめ」が発生するのかは、解明できていません。特定の人が、特定の集団の中で、特定の行為をすると、その集団の中で「いじめ」が引き起こされる場合もありますが、別の人が同じ行為をした場合には、その「いじめ」が発生しない例もあります。そのように原因と結果の間の関係は、必然的ではなく、偶然性が強く影響することが知られています。そのことは、原因と考えられる行為に対する集団内の反応の強さも、場合によって、強くなったり、弱くなったりするものです。

いじめの被害者」となっている人の特徴に、特別な特性があるのかどうかも分かっていません。どのようにして、「いじめの加害者」になるのかも、加害者に共通する特徴も明確になっていません。例えば、裕福な家庭の子供が、「いじめの被害者」になっている場合もあれば、「いじめの加害者」になってる場合もあります。さらに、ある時までは、加害者集団でリーダー的な立場にあった人が、ある時から「いじめの被害者」として、同じ集団の人々から、集中的に攻撃を受けるようになる場合もあります。このような変化は、特定の集団内で醸成される不安定な空気に、左右されていることが分かります。

現状分析(2) 〜 過激化するいじめ

義務教育の現場における「いじめ」の問題は、日本社会の問題の一つですが、日本社会だけに特有な問題ではなく、世界の様々な国々で報告されている問題です。そのことから、言えることは、いじめは管理されていない義務教育の環境では、多くの場合、自然に発生する傾向のある問題であると言う事実です。この問題が、社会で注目され始めたのは、1970年代のヨーロッパ社会でした。その頃から、研究者たちは、この問題を系統的に観察し、議論を深めようとしてきました。その研究過程を見直すと、当初は、学校の教育現場における「校内暴力」が注目されていました。特に日本社会では、教育現場における児童生徒による対教師暴力問題が注目されました。それは、学校の教育現場では、教員に児童生徒の暴力に対する対抗手段が、認められていなかったからです。

1983年、学校での対教師暴力の件数がピークに到達し、文部科学省も親たちもこの問題を放置するわけにはゆかなくなりました。そのような大人の積極的な介入が増えた結果、1984年からは、児童・生徒による対教師暴力問題の発生は、激減しました。しかし、それに伴って、児童・生徒間での暴力を伴う問題の発生が深刻化し始めました。この児童・生徒間での暴力問題は、従来の義務教育現場でもしばしば見られていた「児童生徒間のケンカ」のように、教員の目が届きにくく、把握が難しい特徴がありました。学校で把握された問題件数だけでも、1984年は、小学校で5450件、中学校では3519件に上りました。1986年の調査では、小学校では約96千件、中学校で約53千件が報告されています。ノルウェーの調査では、1984年の報告で、いじめに加担した経験のある小中学生は、全体の約15パーセント、被害にあった経験のある生徒は、全体の7パーセントでした。

日本社会とヨーロッパ社会の義務教育における「いじめ」問題の顕著な違いは、日本は「被害者」の数・比率が、「加害者」の数・比率よりも多く、ほぼ同時期のヨーロッパ社会の傾向とは反対になっていることです。これには、「いじめ」の定義が、日本社会とヨーロッパ社会で、微妙に異なっていることが影響している可能性があるかもしれません。ヨーロッパ社会での「いじめの定義」を見ると、「いじめの被害者」が、その加害者(たち)が意識的に、被害者を傷つけ、不快な感情を持たせるために、力関係の差を積極的に利用して、「いじめ行為」の結果、被害者が深刻な痛手を負っていることを理解したうえで、継続的に行為を続ける」 ことを意味します。それは、「いじめ」の被害者は、個人であっても、加害者は絶対的に多数である例が含まれています。つまり、「いじめ」には、昔からの「けんか」のような行為は含まれていません。

現在、日本社会の義務教育現場が直面している重大な問題にも、「いじめ」の問題があります。特に学校でのいじめは、不登校や「ひきこもり」の原因の一つにもなっているので、義務教育の現場では、重大な関心事です。この「いじめ」は、複数の人間が集まる集団や、社会においては、自然発生的に起こる動的な集団現象で、その発生のメカニズムを解明することは、きわめて難しい問題です。つまり、何か特定のきっかけがあって、「いじめ」が発生するのかが解明できていません。特定の人が、特定の集団の中で、特定の行為をしても、その集団の中で「いじめ」が引き起こされる場合もありますが、別の人である場合には、その「いじめ」が発生しない例もあります。そのように原因と結果の間の関係は、必然的ではなく、偶然性が強く影響することが知られています。そのことは、原因と考えられる行為に対する集団内の反応の強さも、場合によって、強くなったり、弱くなったりするものです。

また、「いじめの被害者」となっている人の特徴に、特別な特性があるのかどうかも分かっていません。どのようにして、「いじめの加害者」になるのかも、加害者に共通する特徴も明確になっていません。例えば、裕福な家庭の子供が、「いじめの被害者」になっている場合もあれば、「いじめの加害者」になってる場合もあります。さらに、ある時までは、加害者集団でリーダー的立場にあった人が、ある時から「いじめの被害者」として、同じ集団の人々から、集中的に攻撃を受けるようになる場合もあります。このような変化は、特定の集団内で醸成される空気に、左右されていることが分かります。

日本社会での義務教育段階における「いじめ」が引き起こす結果の中でも、しばしば問題になるのは、「いじめの被害者」生徒が自殺をする例が発生することです。このような悲劇的な結末を起こす事例が発生したことから、日本政府は、2013年、いじめ防止対策推進法を制定しました。文部科学省は、この法律によって、義務教育の課程や、高校教育の課程で発生する「いじめ問題」の発生を防止する目的で、学校における「いじめの早期発見」を「ねらい」、児童・生徒および高校生が安心して学べる学校環境を整備するようにしました。しかし、2013年度に報告されていた「いじめの認知件数」が、約16万5千件であったのに対して、2021年度の認知件数は、61万5千件に増加しました。

新聞報道によれば、認知件数とともに、この法が定める「重大事態」の数も増えています。@生徒の生命、心身、財産に重大な被害が生じた、A相当の期間、学校の授業を欠席せざるをえなかった、などの疑いがある場合に認定される重大事態の件数は、2013年度は179件でしたが、2019年度は過去最多の723件となりました。さらに2021年には、705件と高止まりしています。Aの不登校などの事案が増えただけでなく、@の生命・身体や財産に影響のあった事案も、半数近くに上り、文部科学省は「憂慮している」としています。これは、事態が深刻になるまでいじめとして対処できなかった事例も多かったことを意味しています。2021年度の重大事態705件のうち、重大な被害を把握する前にいじめとして認識していなかったのは310件(44.0%)にのぼりました。このうち119件は、いじめに該当する可能性のある問題であるとの情報があったのにもかかわらず、教育機関(学校)は「いじめ」として報告していなかった事例です。

この重大事態の報告に関する統計から、私たちは、教育機関側の「いじめ」についての理解や、その報告の重要性を認識せず、そのような事態が存在することを隠したがる傾向があることを読み取ることができます。つまり、文部科学省は、「いじめ」事例を早期に認識することで、重大事態の発生を防ごうと考えているのに対して、個々の教育機関における現場の教員は、「いじめ」の存在、または「いじめ」に発展する可能性のある問題が発生しつつあることを、報告したがらない傾向があると言えます。このことが、「いじめ」の存在についての報告や、「いじめ」が発生しつつあることの警告が出されているにもかかわらず、その約半数については、現場からの報告がされていなかった事実から読み取ることができます。日本の社会では、法律が制定されても、その法律に基づいて行動しなければならない現場の人々に、その法律の重要性の理解がかけていれば、法律の目的は達せられないのです。

このことは、義務教育における「いじめ」の被害者にとっては、その一生にとっての重大事態が発生しているにもかかわらず、その周囲の人びとにとっては、特に損失が発生しない問題であれば、大多数の加害者や傍観者にとっては、重大な事態が発生している、または発生しつつあるとは、認められないことを意味しています。特に、教育現場の管理を担う教員たちにとって、このことは重要で、「いじめ」の存在を認めることは、ある意味で、自分の「管理責任を問われる」かも知れないのです。ですから、その原因は何であれ、教育現場で起こっている問題を、健全な教育現場の維持管理に責任を持つ組織の上層部に報告することを、遅らせようとする意志が働くのです。つまり、文部科学省は、そのような報告の遅れが発生しないように、法律を制定したにもかかわらず、現場教員の多くは、その反対に、報告を遅らせようと行動する傾向があるのです。このことが、日本社会では、法律の制定後、10年が経過したにもかかわらず、問題の発生件数が、減るのではなく、増加しているのです。

この現象の背景には、日本社会の奥底にある、日本人の基本的な思考の傾向があります。多くの日本人にとっては、「どんな社会であっても、複数の人間が関わって生きているため、いじめは自然に発生する」とする、現実社会に見られる現象を肯定し、受け入れる態度が観察できます。ヨーロッパの社会では、そのような現象でも、その事実が倫理に反しているか、そうでないかによって、善悪が考えられ、否定されたり、肯定されたりするのが普通です。これに対して、現実を優先する日本社会では、まず、現実を受け入れ、それとの違いが議論されることが普通なので、「いじめ」の存在そのものが「悪である」との考えは、日本の社会では、簡単には認められません。そのため、「いじめられる方にも、何か問題があったはずだ」と言う、意見がまかり通ったりします。つまり、「善か悪か」が議論の対象には、ならない傾向があるのです。このことが、義務教育課程における「いじめ」の問題に対する、教育現場の対応にも影響しています。

特に、日本社会の義務教育現場である学校において発生している「いじめ」の要因として、以下の4つの社会的背景が指摘されています。

  • 子供が抱いている不満とストレスのはけ口
  • 自己への意識の集中と、他人との共感の喪失
  • 個人主義の広まりによる他人への無関心
  • 成長段階としてのギャング・エイジの代用
現代の子供たちは、勉強のために多くの時間を割かなけばなりません。そのため、友達との遊び時間を削らなければならず、都会では、遊ぶ場所も限られます。そのようことが原因となり、子供たちにはストレスが蓄積されています。そのようなストレスを発散させるために、ゲーム感覚で、「いじめ」行為を行う例があるようです。そして、ゲーム感覚で「いじめ」行為を行うのは、子供たちが他人の痛みを共感できなくなっているからではないかと言う指摘があります。それは、勉強など、自己の問題に関心が過度に集中することで、他人への関心が薄れているからです。また、子供の場合、自分と他人の境界線が未分化です。しかし、最近の日本社会では、他人の問題に関心を持つことをせず、他人の問題に介入すべきでないとする価値観があります。この傍観者的な態度が、集団内で発生している「いじめ」を認識しようとしない傾向を生み出していると考えられます。最後に、かつては大人の権威に反発し、「わるさ」をするギャング・エイジの過程を経て、成人に成長してゆくのが普通でした。しかし、現代では、子供たちに対する親の目による監視が強くなり、管理が厳しくなったため、「わるさ」をする余裕がなくなりました。学校現場での「いじめ」は、その「かつてのわるさをする」ことの代用行為になっているとの指摘があります。

第2次世界大戦が終わるまでの、軍国主義であった日本社会であれば、「何が何でも、学校へ行きなさい」と言う論理も受け入れられ、「いじめ」の被害者であった人々も、それを受け入れて生きてゆかなければならなったのでしょう。しかし、戦後の民主主義の日本社会では、そのような論理は、通用しません。ですから、文部科学省は、教育現場での「いじめ」被害を未然に防止するための法律を制定したのです。しかし、日本社会全体や、教育現場の教員たちの間では、そのような、社会の変革が必要であるとが、十分に理解されていなかったのでしょう。このことは、「不登校」問題についても、見ることができます。日本人は、一般的に、過去に引きずられる傾向が、ヨーロッパ社会の人々に比較すると、強いようです。「いじめ」防止の法律も、国際連合からの強い勧告を受け、さらに、国内における滋賀県の公立中学校での生徒の自殺例が社会的問題になって、初めて、法律制定の動きに発展したと言う経緯がありました。「いじめ」問題は、世界中で起こっている問題ですが、それは、自然の摂理に従って起きる問題ではありません。

「いじめ」問題は、加害者の倫理観の欠如、そして周囲で傍観している人々(他の生徒や教員)の倫理観の欠如、さらに、その「いじめ」問題が発生している現場の運営や、現場の安全性維持に責任のある管理者(教育現場であれば教員や校長)の倫理観不足によって、発生します。つまり、人間の意志と倫理観によって、発生を防げる防げる問題です。

(つづく)